第1話 脇坂安治の城 淡路洲本城

洲本城跡は洲本川河口の旧城下町の南に連なる三熊山の頂上に、東西800m南北600mの規模で石垣が広がる。山城の規模としては西日本で2番目とされている。ちなみに1位は近江の安土城、3位は但馬の竹田城で、それらの城の知名度に比べて、洲本城の無名度は際立っている。なにしろ「日本100名城」のリストにも入っていないくらいだから。


近年までその遺構の多くは自然林に覆われて全貌を目にすることはできず、天守台周辺だけが観光目的で整備されていた。城といえば天守閣だけが観光資源と考えられていた時代に、石垣の整備は見向きもされなかったが、天守台には昭和3年に昭和天皇御大典記念に建てられた、日本最古の「模擬天守閣」が鎮座している。


御大典記念と言えば聞こえが良いがおそらくそれは建前で、便乗商法の観光開発なのだろう、建物は「復元」の意図はみじんもなく、天守閣の形に似せたコンクリートの展望台にすぎない。石垣はくり抜かれてこたつの足のような世にも珍妙な形をしている。地面からまっすぐにコンクリート製の階段が踊り場なしに二階に伸び、まるではしごだ。


管理人がいないので室内の白壁はすすけて黒ずみ落書きがし放題で公衆便所のような惨状で放置されていた。落書きの水準はこんな具合だ。


「まこ・・・・甘えてばかりでごめんね

みこはとってもしあわせなの」


1960年代に吉永小百合と浜田光夫主演でヒットした純愛映画「愛と死をみつめて」の主題歌だ。落書きはその一行目の「ま」と「こ」のあいだに「ん」の字が挿入され、二行目の「み」がバツ印で消された跡に「おめ」の字が重ねられていた。


このような状態が数十年放置されているようでは、地元の城へのリスペクトが疑われる。「日本100名城」から漏れるのも無理もない。この模擬天守閣が良くも悪くも洲本城のイメージを規定し、洲本城城全体があなどられる原因になってきた。多くの復元天守閣が龍だとすれば、この模擬天守閣はタツノオトシゴと言っていいだろう。


天守台の東の隅に案内板があり、安宅水軍に始まり明治維新後の稲田騒動に至る、この城の歴史が記されている。脇坂安治に関連するのは以下の部分である。


天正十三年(1585)十一月脇坂甚内安治(中務少輔)洲本城主となる。

洲本城の本格的修築始まる。現在の遺構は殆どが脇坂氏在城中に

修築したものである。

その間安治は水軍の将として左のとおりに従軍している。

天正十五年(1587)九州攻め

天正十八年(1590)小田原攻め

文禄元年(1592)朝鮮の役(壬辰倭乱)

慶長五年(1600)関ヶ原戦では、東軍に寝返り家康方で参戦

慶長十四年(1609)伊予大洲五万三千石に移封


これらの合戦で脇坂の武名を轟かせるような功名は何一つない。戦国大名としての脇坂安治もまたタツノオトシゴと言っていいだろう。


ところで2013年4月13日震度六の地震が洲本を襲い、模擬天守閣に被害が出た。これをきっかけに、城は修復され壁は塗り直され、安全のため展望台への階段は取り外された。落書きはもうできなくなった。周辺の自然林も伐採され、石垣の遺構が日の目を見るようになった。今になってその全貌を目にすれば、本当は洲本城は竹田城よりスゴイのである。

(아와지시마섬 관광가이드 https://www.awajishima-kanko.jp/ko/history/)


阿波藩の顧問であった佐藤信淵は文政6年(1823年)40歳の時「宇内混同秘策」という書物を著して洲本城址についてこう述べている。


「予、阿州(あわはん)の請(こ)ひに因(よ)りて物産を取り立て利を興(おこ)すの事に依(よ)り、ひそかに此(こ)の城跡を見聞せしに、その厳整(げんせい)勇壮なること比すべきの城なく、月見岳、紀見岡の諸処(ところどころ)、絶壁十丈、海水に臨(のぞ)み、幽谷に連(つら)なり、その牆(いしがき) の美麗堅固なること浪華(なにわ)城と伯仲(はくちゅう)す」


城跡の勇壮さを愛でて、石垣の美麗堅固なことは大坂城に匹敵するとまで絶賛している。ところがそのすぐ後にこう付け加える。


「これ、豈(あに)脇坂氏、此(こ)の邦(くに)を有する時の企(くわだ)て及(およ)ぶ所ならんや」


脇坂安治が城主の時代は1585年から1609年の24年間に及ぶがその石高は3万石にすぎない。小大名にこんな凄いものを造れるだろうか、と彼は疑う。この時代にすでに、脇坂氏はあなどられていたのだ。


「つらつら思ふにかの蜂須賀家政は、当時無双の狡猾なる人なれば内々にて此(こ)の島を乞(こ)ひたるも、此(こ)の城を破却すると称して、密(ひそ)かにその塁を増築したるも、この地は西畿(にしきない)及び中州(ちゅうごく)南海(しこく)の第一要地なるを以て、万一王政の隙(すき)あるを伺(うかが)い得(え)ば、すなわち阿淡(あわとあわじ)両州の兵を擁(よう)して此(こ)の城に雄居し、以(もっ)て中原を計略せんと欲す」


蜂須賀小六正勝の嫡男蜂須賀家正は26歳の1586年に阿波18万石の大名となり、大阪冬の陣・夏の陣で功を上げ、淡路一国を与えられて1615年56歳にして25万7,000石の太守となった。この規模の大名ならこの規模の城を造れるだろうというのが彼の推理である。


なるほどこの地が西畿内と中国地方や四国地方を結ぶ交通の要地であることは確かだ。しかし万一政権中枢に隙があれば阿波の国と淡路の国の兵を集めてこの城にこもって中原をうかがう、というのは時代錯誤と言う他ない。豊臣氏が滅び徳川幕府の覇権が確立したまさにそのとき、中原を計略する野望を家正ごときがもてるだろうか。


しかし信淵は自分の思いつきに酔ってしまったのか、次のような感想でこの稿を締めくくるのである。


「しからざれば即(すなわ)ち何ぞ此(こ)の造築を労せんや。その仔細(しさい)といふは彼が本城たる阿州徳島の城には結構を尽(つ)くさずして、かへって此(こ)の城のみに厳重を究極せしは、その奸雄たる所以(ゆえん)なり。此(こ)の地浪華(なにわ)城を距(へだて)ること十六里、順風に帆を上ぐれば瞬速の間に河口に至るべし。甚(はなは)だ恐(おそ)るべきの地なり」


信淵はこう考えた。家正の本城である阿波徳島城は貧弱なままほっておかれて、支城にすぎないこの城にこれほどの厳重な防備をほどこすのは、家正に野心があったとしか思えない。その目で見ればこの地は大坂城から海を隔てて十六里、順風に帆を挙げれば俊速の間に淀川の河口に至る。恐るべき立地ではなかろうかと。


くりかえすが蜂須賀家正の石高と知名度で、信淵は史実を無視して彼を買いかぶっている。


蜂須賀家正が阿波の国を拝領し徳島城の建設を始めたのは1586年で、脇坂安治の洲本城の着工から1年後、ほとんど同時期といっていい。家正が淡路の国を手に入れるのはそれからおよそ30年も後のことである。もはや一国一城令のもとでわざわざ本城を手抜きして秘密のうちに支城を増築できる時代ではなくなっていた。


それでも信淵の着眼点は私たちの課題として残る。27万石、家正の居城徳島城はなぜあんなにも貧弱なのか。徳島城の遺構は石垣の積み方の乱雑さ、縄張りのお粗末さは目を覆うばかりで、ほとんど素人が造ったとしか思えない。何よりも規模が驚くほど小さい。


一方脇坂安治3万石の城はなぜこれほど豪壮堅固なのか。私たちは信淵とは逆の仮説を考えざるをえない。


即ち

「万一王政の隙あるを伺い得ば、すなわち阿淡両州の兵を擁して此の城に雄居し、以て中原を計略せんと欲す」

と考えたのは蜂須賀家正ではなく脇坂安治だったのではないか。


「此の地浪華城を距ること十六里、順風に帆を上ぐれば瞬速の間に河口に至るべし。甚だ恐るべきの地なり」

という地政学を最もよく理解していたのは、蜂須賀家正ではなく脇坂安治だったのではないか。


誰にも知られないまま靄の向こうに隠されていた脇坂安治の秘密。海馬戦記はここから始まる。

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