海馬戦記----脇坂安治を探して----
夜間飛行
まえがき
この評伝は豊臣秀吉の「唐入り」で淡路水軍を率いて朝鮮水軍の李舜臣(イ・スンシン)と度重なる死闘を繰り広げ、関ヶ原の戦いでは小早川秀秋の寝返りに呼応して大谷吉継隊を攻撃して壊滅させた、洲本三万石城主、脇坂安治(やすはる)の知られざる伝記である。
海馬とはタツノオトシゴの異名である。「落とし子」とは貴人が妻以外の女に生ませた子のことをさし、オトシダネとも呼ばれる。昔の人は龍に似ていながらいかにも貧相な顔立ちのこの生き物を、龍が気まぐれに魚と交わって生ませたオトシダネと見なした。
脇坂安治は天正11年(1583年)30歳の時、賤ヶ岳七本槍の一人として名を上げるが、同じ七本槍の加藤清正や福島正則に比べてその後の活躍の印象はいかにも薄い。寛永3年(1626年)72歳で亡くなるまで、私たちの記憶にかろうじて残るのは関ヶ原の戦いの寝返りくらいしかない。外征の地で愛国者・李舜臣の敵役となり、天下分け目の戦いで義将・大谷吉継を憤死させた脇阪安治の印象は後世とても悪い。「七本槍」の栄光は秀吉の気まぐれによる数合わせだったのだろうか。
しかし私たちの知らない本当の戦いが関ヶ原の靄の向こうに隠れていた。脇阪安治の次男安元(やすもと)が寛永17年(1640年)7月家譜「脇坂記」をまとめた。安治が亡くなってからまだ14年しか経っていない。父親からの聞き書きの時間はたっぷりあったのだから、この書は二次資料とはいえ限りなく同時代資料、一次資料に近い。「脇坂記」を読み解きながら、各地に残る史跡に立って安治の痕跡をたどるとき、海馬のようにささやかな戦記のなかに、思いがけない素顔がかいまみえるだろう。
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