10 The land of Nod, east of Eden
大きな艶消しの黒い魚。
凛を乗せて来た、あの魚のような機械が目の前にある。
学校の中庭だ。
凛が復元されてから、二日が過ぎていた。
「ノドは、それほど危険な場所ではない。ただ、誰もいないだけだ」
先生が開を見つめて、微笑む。
「私はマルスのすべての稼動データをもう一度調べ直した。
マルスがはき出すエラーがなにを意味しているのかは、すでに判明している。
それは意識だ。マルスのエラーが意味しているものは、意識の有無だった。
しかしそれでも、なぜエデンでの復元ではエラーが起きるのかまではわからなかった。
私はそれを、徹底的に調べ直したのだ。
そして得た結論は、環境だ。
環境の差だけしか見つけられなかったのだ。
生命が生きるための環境。重力、放射線、気体構成、さまざまな要因があるだろう。
それらを含めて簡単に表現すれば、こうなる。
エデンか、ノドか。
その違いが、生命の復元結果に違いを生む。
エデンとノドという環境の違いが、意識の存在に決定的な違いを生むのだ」
開は先生の目を見てうなずく。
「カイ、リンをノドに連れていっても、彼女に意識が戻るかどうかはわからない。
仮に意識が戻ったとしても、また戻らなかったとしても、それを見分ける方法はない。それはわかっているね」
凛は巨大な黒い魚の真下で、その表面を撫でていた。その横では着物姿の世話人たちが、魚の横腹に開いた扉から、大量の物資を運び込んでいる。
開は凛を見ながら先生に答えた。
「わかっています。それに、僕たちが残っていたんだ。他にも誰か残っていて、今ではもう街があるかもしれない」
先生が笑った。
「そうだといいが。
ノドには私のセンサーがたくさんあるよ。それに引っかからない場所に街があるという可能性は、確かにゼロではないね。
可能性はかなり低いが、私もそれを望んでいる」
開が先生を向き直り、笑顔を見せる。
「先生にだってわからないことはありますよね。確か予知の原因とか」
また先生が笑う。
「そのとおりだ。ノドに人はいないという、私の推測が間違っていることを祈ろう。
カイ、予知というよりも人の意識についてだが、私なりの予測はしてある。それを検証する方法はないが。
聞いていくかい」
「ぜひ教えてください」
先生が微笑みながら、物資を運び込む世話人たちを眺めた。
「私は彼らを見ていて思ったのだ。
彼ら、星宮創業家の人々は、意識を持っていない。
そこで仮に、彼らだけで世界が構成されているとしよう。
意識をもたない人々で構成された世界に、物理法則は成り立つだろうか。
当然、すべての物理法則が成り立つはずだ。
次に、災厄前のノドの世界を考えてみよう。
そこではすべての人に意識がある。もちろんそこでも、すべての物理法則は成り立っている。
両世界で同じ物理法則が成り立つならば、では意識が加えられたノドの世界では、意識は物理法則に加えられないのではないか。
つまり、もしかしたら意識は、物理法則とは別に、独立して存在するものではないか、という可能性が出てくる。
この論理はアーカイブのデータから見つけ出したものだ。
しかし、私が知見した未来予知や、マルスの最終同期時のエラーを考えると、決して否定できない論理でもある。
これは私が神の存在を仮定できるようになったからこそ、君に話せることだ」
開は腕を組んで考えた。なるほど、と思う。
「すると先生、意識は物理法則に捕らわれずに、なにができるのですか」
先生が微笑む。
「物理法則に捕らわれる必要がないのなら、なんだってできる。
光の速度を超える。重力を無視する。そして、未来を予知する。なんでもできる」
先生はそこで言葉を切り、少し考えた。
そしてつぶやくように言葉を繋いだ。
「そうか、物理法則に捕らわれない、か。
もしかしたら、主が恐れたのはそこかもしれないね。
主にとって、物理法則を超越することは許されない罪だ。
だからこそ、知恵の実、すなわち意識を、主は認めなかったのではないだろうか。
人は知恵の実を得て、意識を持つことを選択した。
OS ver2の無意識の上に、さらにマイナーバージョンアップを重ねてOS ver2.1の意識を得た。
このマイナーバージョンアップこそが、最上層の十数種の生体レイヤーこそが、知恵の実そのものなのだろう。
人が進化の末に知恵の実を得るということは、主に反乱したということなのだろうか。
少なくとも、主はそれを許さなかった。
主は人をエデンから追放し、ノドへと向かわせた。
人はノドで主に許しを請うどころか、さらに進化を加えて主の“声”を拒否した。
“声”が聞こえなくなるような仕組みまでをも、進化の末に手に入れたということになる。
その仕組みが、知恵の実から得た意識なのだ。
そして主の声は、意識を持つ人に届かなくなる。
もしかすると主は、人の進化にお怒りになられたのだろうか。
人は追放された先、ノドでしか意識を持てなくなった。
ノドという地の環境がなければ、人の意識は起動しなくなった。
これは、罪である意識をノドだけに押し込めておくという、主の思惑なのだろうか。
わからない。そうなのかもしれない。
しかし、たとえノドでしか意識が持てないとしても、意識は人が人であるために欠かせないものだ。
意識は、人が主の介入を受けないセキュリティシステムであり、ノドという地は意識を手放さないためのパスワードだ、とも考えられる。
そう考えれば、人が意識を持ち、主に介入されずに人として安心して生きていけるノドは、人が自ら選択して獲得した約束の地になるのではないだろうか。
主の怒りの結果ではなく、人自らの選択だ。
人は、人が人でなくなる楽園エデンの園を離れて、意識を持ったまま生きていける新たな土地を見つけたのだ。
それが、ノドだった」
先生が微笑みを浮かべて俯いた。
「これが正解なのかもしれないね」
開も腕を組んだまま、俯いた。さまざまな考えが頭を巡る。
先生の話が正しいとすれば、人はノドから外に出ていくことはできない。しかし、ノドの外では主の声が聞こえてくる。
先生が仮定するように神が本当に存在するのなら、人が持つべきなのは絶望なのか、それとも希望なのだろうか。
救いはパスワードにあるように、開には思えた。パスワードがもっと広がれば、あるいは解除されれば、意識はノドの外でも生まれることができるようになる。
「環境がパスワード・・・・・・。ノドの環境が意識のパスワード」
開は腕組みを解いて、先生を見つめる。
「もしかするとこの先、このエデンの環境がパスワードになることもあると考えていいんですよね。ノドだけでなく、このエデンで意識が生まれることがあるかもしれないと、考えていてもいいんですよね」
先生が顔を上げて微笑んだ。
「あり得るが、そんなに簡単なことではないよ。
長い時間をかけて獲得する進化の結果なのだから。でも、あり得ないことではない。
このエデンで生まれる意識があっても、おかしくはない」
開が首を傾げる。
「そうか、長い時間か。先生、いつかこのエデンでも意識が生まれるといいですね」
そして思い出したように、開がおかしそうに笑った。
「先生、このエデンにはマルスという生命の樹があります。そしてこのエデンで意識は生まれない。
そうすると、このエデンで知恵の実を探しに行けと勧める先生は、いったいどんな存在だと考えればいいんですか」
先生も笑った。
「前に話したはずだよ。
主と蛇、いったいどちらが神だったのだろうか、とね」
ふたりは顔を見合わせてひとしきり笑った。
開が俯き、深呼吸をする。顔を上げて、先生の眼をみつめた。
「先生、ありがとうございます。本当のことを教えてくれたことに、感謝します。どうか、レイのことをお願いします」
先生がうなずいた。
「レイのことは任せてくれたまえ。私が責任を持って彼のケアをする。結果的にはリンも助かっているといえるだろう。
カインとアベルは人類の最初の殺人だった。これが、人の最後の殺人とならなくて、本当によかったと思う」
開は令の笑顔を思い出す。
一年後、数年後、あるいは十年後、またこのエデンで令と会うことができればいいと思う。そうなれば幸せだと思う。
先生が開の目を見つめた。
「君は、人だ。人は意識を持つからこそ人なのだ。自分というものがあるからこそ、人なのだ。
だから意識を大切にするんだ。主がなんといわれようと、意識は守らなければいけないものだ。この世界から意識をなくしてはいけない」
開は深く頭を下げた。
頭を上げるときに、ふと先生のネクタイが目に入った。
あのホルモン屋で先生の話を聞きはじめたときから、頭の片隅にずっとひっかかっていた疑問を思い出した。
おそらく先生が“声”を使って操っているだろうこの人は、本当はいったい誰なのだろう?
「あの、先生、その姿ですが、やっぱり星宮の人ですか」
先生が少し困った顔をした。
「それは、話そうかどうしようか迷っていたことだが・・・・・・。
そうだ。この男も、星宮の人間だ。エデンが造られた当時の社長だった。
もうひとつつけ加えておく方がいいかもしれない。君たち三人を見つけたのは、星宮の生命物理研究所だ」
先生が目を伏せた。ためらっているようにも見える。
しかしすぐに先生は視線を開に戻した。
そしてはっきりとした口調で、先生が告げた。
「カイ、君とレイのDNAだが、この男のDNAと生物学的に親子関係にある」
開がぽかんと口を開けた。そのままで開は先生を見つめ続けた。
やがて、先生の言葉の意味が、ゆっくりと開の意識に滲んで広がった。
「ありがとう、先生」
数瞬の間があり、開は先生の胸に飛び込んだ。そのまま両手で先生を抱きしめる。
先生も開の背中に腕を回して、力をこめて開を抱きしめた。
数分の間、開と先生はそのまま身動きをしなかった。
「・・・・・・父さん」
開が先生の肩に顔を埋めたまま、小さくつぶやく。
先生は開を抱きしめながら、優しくいった。
「カイ、このエデンの正当な後継者は、君だ。ここは君の故郷ともいえる場所だ。いつでも帰って来るがいい」
開はゆっくりと先生から体を離し、その眼を見つめる。そして、大きくうなずいた。
先生も開を見つめ、微笑みながらうなずく。
先生に笑顔を見せて、開は先生に背を向けた。開の向かう先には、凛の姿があった。
ゆっくりと離れていく開に、先生が声をかける。
「カイ、母親のDNAを持つ者が誰か、知りたいかい」
開が少しだけ立ち止まる。
ああそうか。そうだったんだ。
開はすぐにその人の笑顔を思い出した。先生に聞くまでもなかった。
開は立ち止まり、先生を振り向いてにこりとする。
「帰ってきたときの、楽しみにしておきます」
開が先生に向かって深く頭を下げた。
先生がにこりと笑った。
「リンのDNAだが、星宮とも、君とも無関係だ」
歩きはじめていた開がまた少しだけ振り返る。そして手を振ったあと、凜が待つ黒い魚へと歩き出した。
先生が続けた。
「エデンから去りノドに向かったカインの元には、理由もなく突然に妻が現れた。
リンがなぜ君たちと共に冷凍保存されていたのかは、理由を探る必要はないということかもしれないね」
その言葉を開が聞いたかどうかは、先生にはわからなかった。
物資の搬入は終わっていた。
開と凛は、黒い魚の腹に入っていく。
魚の中は、楕円形の空間になっていた。まるで大きな卵が魚の腹にひとつだけ入っていて、その卵の中にいるような気がする。
卵の中は薄緑色の毛布のようで、ふわふわとして柔らかかった。エデンの草原が思い出される。
先生は、特にすることはないといっていた。
少し時間はかかるだろうが、必ずノドには着くと。最初から最後まで、きちんと見ていると話してくれた。
それだけで、開は安心できた。
「リン、大丈夫か?」
「大丈夫だよ」
凜がにっこりと笑う。
昨日の夜、明日から遠い所に出かけると、リンに話した。
リンは笑顔を見せた。楽しみかと聞くと、楽しみだと応えた。開も笑顔を返した。
その楽しみが、本物になる場所に行くんだ。
卵の前方半分が透明に変化する。大きな丸いスクリーン。
あまりに自然な前方視界に、自分が空間の中に浮かんでいるように思えてくる。
スクリーンに映し出される景色が動き出した。黒い魚が音も振動もなく動きはじめていた。
開は先生に教えてもらったとおりに、補帯を外しはじめる。
二十年間ずっと体に巻きつけていた補帯。
それを外すには勇気が必要だった。
各関節からゆっくりと、ひとつひとつ外していく。首に巻いた補帯を外し、最後に腹に巻いた補帯を外すと、体がふわりと軽くなった。
先生は、エデンではなにもしないと生き物は大きくなると教えてくれた。
元々はすべて、もっと小さかったのだと話していた。
大きな生物をマルスで改良して小さくしたのだと開は思っていたが、それは間違いだった。もともと小さかった生物が、エデンの環境の中で大きくなっていったのだ。
重力が小さくなると、生き物は時間をかけて大きくなるのだ。
開は軽くなった体を操って、凛の補帯を外しはじめる。
凛は興味深そうに開を見ているが、抵抗はしない。
凛の補帯をすべて外し終わると、ふたりは産まれたままの姿になった。
スクリーンは暗くなり、下の方にエデンの全景が見えはじめた。
巨大な円形のドーム。
白と黒だけのハイコントラストな大地に、ドームがいくつか並んでいる。
ひとつのドームの中に小さく、見慣れた山が見えた。
あのドームが開の住む“山”だ。おそらくその向こうにあるひと際大きなドームが“街”なのだと、開は思う。
黒い魚の速度が急激に増したのだろう、エデンの遠ざかり方が早くなった。
すぐにエデンは小さくなり、やがてエデンを乗せたその星の輪郭が円弧描いて見えはじめた。
その円弧の向こうから、別の星が現れてきた。
その星は、青かった。
エデンの空のように青い星。青の中に筆で描いたような白い線が幾本も流れている。
その星はエデンよりも遙かに大きかった。
それが、ノドだった。
開は、美しいノドに息を飲む。
凛を抱き寄せて、その光景を見せた。凛は微笑みを湛えてノドを眺めていた。その手は、裸のお腹の上にそっと置かれている。
開は、凛を抱きしめた。本当の裸で、凛を抱きしめるのははじめてだった。
凛が目を閉じて、微笑みを浮かべる。
僕が今感じているこの気持ち、楽しみと怖さと不安と期待、そしてリンが好きだというこの気持ち。
その全部を、リンにも同じように感じてほしい。
そして、産まれてくる子どもにも。
本物の青が、本物の甘さが、本物の音が、本物の愛がある場所だ。
その本物を、リンにも子どもにも、感じてもらいたい。
そのすべてがあそこに、ノドにある。
開は凛を抱きしめたまま、ノドの青さを目に焼きつけようとしていた。
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