第5話 僕はお風呂に入ったらまず耳の裏から洗いますが、どう思いますか。
夜は人知れず
僕の頭は昼を欺くほど輝き、眷属は風を切って愚直に旋回する。
半ば面白がっていたそれらの要素は、この世のものとは思われない景色の前に、はや興ざめな物となってしまった。
「……いい加減にしてくれ。凶兆にしてもおどろおどろしすぎる。」
僕は猛威を振るう眷属で玄関の木戸を木っ端微塵に破壊し、外に出たところで焦点は空に張り付いて離れなくなった。
脚が
雷に打たれて変身しようが、幼女天使が現れようが、あくまでそれは貧困な僕の空想であって白昼夢でしかない。
僕はそうして目に映る物を頭ごなしに否定することができた。
だが、荘厳な自然に対する畏敬というのは、理性で押さえつけられるものではない。
存在が揺さぶられる根源的な恐怖。
それが体の深層から一気に湧出して四肢を毒する。
――空が赤い。
ルヴィ少女の髪のように、夜天が赤々と染まっている。
それは
まるで巨大な異形の怪物。その体内に閉じ込められたかのよう。
うねり、蠕動する内壁。肉体が
震える体を律し、
より
肌に触れる夜気は夏であることを忘れるほど冷たくなった。
隣でルヴィ少女が息を飲むのを感じる。
くだらない。と、今度はほとんど恐怖に支配されて呟いていた。
僕の無意識は一体何を見せようとしている?
悪夢にしては抽象に過ぎる。まるでシュールレアリスムの映画のようじゃないか。
牧場と思しき平野に、
天変地異が人を金縛りにする。
虚ろな目をした村人たちが、蟻の巣をつついたようにわらわら家から誘い出されていた。
数にして百人程度。
老若男女、一様に貧相な恰好をしている。
領主がどうのとルヴィ少女が言っていたのを僕は思い出した。
つまりここの統治体制は封建であって、彼女たちは農奴ということなのだろう。
彼・彼女らはみなフォイエルバッハ家の前に非難して来た。
その理由を問う隙もなく、ただ一人珍奇な姿をした僕に重苦しい眼差しが刺さる。
「――戦士。」
誰かがそう呟いた。僕は当然のごとく無視を決め込み、ただ異様な空を忘我しつつ仰いでいる。
そもそも僕には何が起こっているのかすら定かではない。
ルヴィ少女は意味深に「世界が滅びる」と言った。
その言辞は眼前の光景に信じざるを得なくなった。
そうか。
きっと僕を迎えに来たんだ。
と、ほとんど逃避的な思考で気付いた。
ここはまだ天国ではない。
あるいは体はまだ生死の境を漂っているのかもしれない。
ルヴィ少女は僕を生に引き留める役で、あの天の裂けた向こう側こそ死者の
すると僕の肩に乗るキュリュは、定めし三途の川の
「……くそっ。」
僕は舌打ちをする。
らしくもない。
そんな推測は全て
どうしようもなく分かっているのだ。いくら頭で考えたところで、莫とした「存在」の実感が僕にうるさく警告している。
拍子木を打ち合わせた様な電車の慟哭が近づき、轢かれる寸前に感じた畏怖。
それが今、再現され、かつ
何者かが、僕の生命に牙を立てている。
風が辺りの草木を撫でて強くなった。
僕は帽子を手で押さえ、ルヴィ少女に問う。
「あれは何だ。」
「敵、ですよ。」
「何のだ。」
「説明がまだ途中、でしたね。」
ルヴィ少女と僕は互いの顔を見ずに対話する。僕はここにおいて初めて彼女の声を聞いた気がする。
凛と澄んで、覇気が漲っている。
茶褐色で、裾の擦り切れたスカートをはためかせながら、緑の光彩を一層鮮やかにに、血染めになった空を睨みつけている。
「あなたはまだここを夢と言い張り、ますか?」
「……仮にだ。仮に信じることとする。損はないからな。」
「ありがとうございます。でしたら、これも信じて貰わなくてはなりません。」
「前置きは良い、なんだ?」
僕は刻々と、指数関数的に増幅する死の予感に耐え兼ねていた。
生などどうでもいい。
むしろ早く意識など捨て去って草葉の陰に身を隠したい。
僕は並々ならぬ覚悟を持っている。
それにも関わらず、死の恐怖は少しも和らがない。
ではここで自らを殺めるのか?
それには契機が
死の覚悟と自殺の覚悟は似て非なるものなのだ。
前者は
僕は今、脅威に接し、反発して初めて生を生きている。
ルヴィ少女の体を、いつの間にやら例の液体金属が渦巻きながら覆い始めていた。
まるで可視化された風の対流。
唸り上がる銀色の奔流。
大蛇を操る様にして、手を動かすと、それに合わせて金属も中空を舞う。
「……私たちはみな、半分だけ、死んでいます。」
了見が掴めず、僕は愚かにも問い返す。
「それは僕と同じ状況、という意味か?」
「いいえ、違いますよ。あなたは、残念ですが、もう完全に死んでいます。」
「じゃあ君たちは何だと言うんだ。」
「仮死状態……生霊に近い、です。あの、幽霊とか、怖くない、ですか?」
ルヴィ少女の声は悲哀を含んで、その分真実味が増す。
僕はもう全てを甘受すると決めた。
「それで、あの穴からはなんだ、冥界の悪魔でも降り立って、取りこぼした命を刈りにくるのか。」
「その方がまだ良い、ですよ。敵は同じ人間です。」
一層話が見えなくなる。僕はその旨を表情で伝えた。
「時間がないので単純に言います。私たちはほとんど死にかけていて、窮地に立たされています。そして敵はもうすぐそこまで、追い打ちをかけに来ています。そして敵に打ち勝つにはあなたの協力が必要、なんです。どうか、私たちを救ってください。」
キュリュを人質にとっての余興ではない。彼女は深く頭を下げ、平身低頭、僕に
それにルヴィ少女の言う事はまるで説明になっていない。具体性に欠けている。
なぜ、死にかけているのか。
なぜ、強襲を受けるのか。
敵とは誰か。
そこにはどんな利害関係が、思想の違いがあるのか。
そしてなぜ僕が必要となるのか。
そのどの問いにも応えていない。
まるで政治家の詭弁を聞くようだ。
「戦え、というのはどだい無理な話だ。僕にはその力がないし、やる気もない。それに君たちが正しいという証拠もない。蓋を開けてみれば君たちの方が悪者ということだってあり得るじゃないか。」
「別に戦って欲しい訳じゃありません。あなたが殺されないように、私たちが守る。それに協力してくれるだけでいいんです。」
この少女は何を言ってるのか。敵だの、守るだの。殺されるも何も僕はもう死んでいるんだ。それを承知しているはずなのに、全然要領を得ないじゃないか。
何かを隠している。
それは火を見るよりも明らかだった。
「やっぱり僕は了解しかねる。君たちを救う義理もないし、守られる理由もない。すまないが僕はここから自由に行動させてもらう。……長老、ごちそうになりました。」
と、僕が毅然とした態度で長老に頭を下げた、その時だ。
【――にら寺倉楚歌に身にかに擦らすなにの血!】
僕の脳裡に不可思議で、理解不能な音声がどっと流れ込んで来た。突然の土石流に襲われたように、僕は跳ね上がったまま身動きが取れなくなる。
余りの爆音に一瞬、僕は意識を手放して地に
朦朧とした頭には疑問符しか浮かんでこない。
激しい頭痛に、嘔吐感すら押し寄せて来る。
【にら寺倉楚歌に身にかに擦らすなにの血!】
「くっ!ああああああああァァァァァ!」
僕は辺り憚らず喚いた。
「っ!?…どうしたの、ですか?あの、え?」
僕は狼狽えるルヴィ少女と、周りの村人たちを見て悟る。
僕だけか……この現象は。
【擦らす並みに後く椅子に、蔵楚歌に鞍手力水蔵楚歌に。】
反響する。
木霊する。
言語であることは辛うじて分かる。
抑揚がある。そこには感情を込める余白もある。
「あるじ、あるじぃぃ!」
キュリュが耳を塞ぐ僕の手に寄り添って、指に掴まる。
僕は四つん這いになり、柔らかな地面を爪で掻いて激痛を堪える。
頭が割れる。
目を剥いて、唇を思いきり噛む。
血が、空と同じように顎を伝って滴る。
眷属の剣たちが地面を割って、土を周囲に撒き散らした。
胃に詰まった夕食を全て吐き出し、胃酸が血液と混じって口の端から垂れた。
それでもなお、奇妙な声は手を緩めず、僕を
【蔵楚歌に擦らん等身に化に人らすら巣に、】
発狂したように髪を引き千切る。碧空の色に輝く髪が、地に落ちると元の黒髪に戻った。
帽子が落ち、闇を削るように光の階段が空へと
【く椅子に身に砂身に巣に口砂唐かに朽ちて、ち……!?】
絶叫していた僕は、脳裡の声が小さくなっていくことに、少しの間気付かなかった。
「……は、なん、だ?」
フェードアウトしていく、性差すら判然としない声。
頭が恐ろしいほど軽くなり、霞んだ視界がゆっくりと戻ってくる。
……逃げた?
そう感じるような、余韻を残した語尾。
そして空っぽになった頭にまた新たな声がする。
キュリュではない。
もっと
『あなた様、ご無事でしょうか?』
僕は正体不明の相手に返答するかどうか迷い、小さく「ああ」とだけ呟いた。
安堵の吐息が漏れるのを僕は聞いた。
『良かった……。』
お前は誰だ。そう問いかける前に機先を制された。
『わたくしは……死をも恐れぬあなた様が、どうしても恐ろしくてならないのです。ですから、今宵だけ。微力ではありますが、わたくしの力をお貸し致します。顔も見せぬ非礼を、どうかお許しください。』
耳元ではない。心臓でもない。心の深くから語りかけて来る。
『あなた様、ご自分のお命に
とても落ち着く、朗々として優しい、慈母のような語り口。
訳の分からぬ声に痛めつけられた脳細胞が、染み渡るその声に癒されていく。
いつの間にやら荒くなった呼吸も落ち着き、ふらつきながらも立ち上がることが出来た。
「あなた、髪が……それに剣も。」
ルヴィ少女が僕を指差す。
髪は依然青いままだが、その光は弱まり、蓄光するかのようなささやかなものとなっている。
鬱陶しかった眷属も、一振を残してどこかに消失してしまった。
おそらく一番長く、日本刀に近い形状のそれが、僕の右手に握られている。
『
人の骨のような無骨な
変化はそれだけではない。
服の意匠もさっきまでとは異なっている。
森閑とした山の
服の毛細血管。
そのようなものがあるとすれば、そこに澄んだ水が一息に流れ込んだようだった。
いつもなら目もくれない、安っぽい演出。
だが、僕の思考はもう現実に追いついていなかった。
「何だってんだ!くそっ。おちょくってやがる。馬鹿にしてやがる、くそっ。生きろだって!?僕が、僕が狂ってるって言うのか!?僕が、僕が……。俺は、ただ……。」
駄々をこねる子供のような僕を、ルヴィ少女はどのように見下ろしていたのか。
ただ一言、彼女は僕に同情して問いかけた。
「――死にたかった……ですか?」
ルヴィ少女は僕の異変の一部始終を見て、またグロテスクな天蓋に注意を向けている。
「私、言いましたよね。可哀想だと。あなたが可哀想だから近づいたと、そう言いましたよね。」
「ああ……。」
迫る村人たちから僕が逃避したとき、追いかけて来た彼女が確かにそう言った。
……まさか、それじゃあ。
僕は苛立ちと羞恥に
「迷い子には、共通する背景があります。」
ルヴィ少女の開示しようとしている事実に、僕は気付いてしまった。
あの時、僕が死んだとき、確かに小石が足先に飛んで来た。
だが、人はその程度の事では滅多に転倒したりはしない。
なにより僕は運動神経が良い。
小石に躓くなどあり得ない。
僕は陳腐な転生モノの主人公じゃないのだ。
死は受け入れがたい。理不尽には抗う。異世界にだってそうすぐに順応できない。
それなのに、僕が何食わぬ顔をしていたのは……。
僕はあの転瞬の間に、転がる石と静止したアルファルトを見、けたたましく鳴る遮断機の音を聞き、迫る列車を視界の端に捉えて、それから何をした?
ルヴィ少女は、両の掌に液体金属を集め、手を触れずに何かを形成していく。
数秒も待たずに、それは芸術的な装飾を施した双剣となって、刃に怪しく微光を奔らせた。
剣を構え、緩慢な足取りで前に歩み出す赤髪の少女。
平原の向こうには人影が現れている。
それも数百という単位ではない。
何千、何万という人が
それは間違いなく軍勢だった。
牧場の木々を蹴散らし、
月が、赤黒く色を変えていく。
彼女は背を向けたまま、あえて明瞭に、淡々と僕に向かって言い放った。
「――迷い子はみな、自殺者です。そういう人だけが、こちらの世とあちらの世を渡ってくるんですよ。ですから、端から私たちはあなたなどあてにしていません。足止めをして、後は檻に囲っておくだけでいい。理解できないでしょうが、ごめんなさい、従ってもらいますよ。」
振り返ったルヴィ少女。その双眸には、もうさっきまでの彼女の印象はない。心底嫌悪したような、興味無げな冷たい瞳が、僕を
彼女だけじゃない。
村人たちも、手に各々武具を持ったまま、僕に失望しているようだった。
「邪魔だけは、しないでくださいね。戦士さん。」
ルヴィ少女は
金属の槍が、僕の両の太腿を串刺しにし、地面に張り付ける。
「ぐっ、あああああああああああああああああああ、てめえぇ!」
そしてキュリュを閉じ込めた様な檻が、ゆっくりと地面から構成されていく。
血がスカートに滲む。
熱い。
痛みが脳天まで貫いて、歯を震わせる。
痛覚が我先にと神経を揺さぶって閾値を超える。
僕は苦悶しながらルヴィを睨んだ。
「願望は常に傲慢、ですよね。あなたの無知は責められるべきではありませんが、私たちの正義のために、ただ何もせず、そこで生きていてください。」
そして両手にも杭が打ち付けられた。
僕の怒号はルヴィに届かず、彼女は敵陣に向かって疾走した。
僕はまたも気絶する。
走馬灯のように、今際の際の映像が繰り返される。
僕はふとした拍子に自殺した。
自殺したら異世界に転生して、赤髪の美少女に無理やり生かされた。
――これはそんな僕が英雄になるまでの、陳腐で品のない、異世界転生モノである。
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