20-4 「……まったくご苦労なことだ」

 ああ、なんと僕は浅ましいのだろう。


 帝の位への渇望をいまだ捨てられないでいるなんて――



 慙愧に堪えぬのは顔を合わせてきた方のためではない。父のためでも、母のためでもない。幼い童子が壊れた玩具をいつまでも抱えているように、捨てたはずの望みを弄んでいる己自身が、ひたすらに情けなく思われて仕方がないのだ。自分は感情も欲望も全て意志と理性の統制下に置くことが出来る人間だと信じ込んでいたのに。知りたくないもない自分が、傷ついた子供のままの自分が、また顔を覗かせる。お前は大したことのない、凡庸な人間なのだとささやきかけてくる。それどころではない。お前は見捨てられた子だと、生まれ損ないなのだと、愛されることのない子なのだと、誰かがそうささやいている。


 ああ、嫌だ。駄目だ。思い出したくない。考えたくもない――のことなど。



 不意に若駒は駆けるのをやめてゆるりと立ち止まり、背に乗る主人の方を振り向いた。紫蘭はそんな愛馬の様子にはっと我に返る。やせ衰えた月がちょうど雲にかかっているから、跨っている愛馬の体は暗闇のなか、霊獣のそれのように白くぼんやりと浮かび上がっている。たてがみは光なくしてきらめき、内腿に感ぜられる筋肉はみずみずしく躍動し、その吐息が闇を凪ぐ音が規則正しく聞こえてくる。夜の闇のなかにみるせいで膨らんでみえるけれども、実際はどちらかといえば小柄な方で、その動作はあくまでしなやか、体つきも引き締まってほっそりとしている。聡明で物怖じせず、よい馬なのだが、唯一の欠点はその気難しさにあって、気に入らぬものは馬であれ人であれ寄せ付けようとしない。けれども、主人ひとりに向かい合う時だけはどこか憂いを帯びた優しい目をしてみせるのが、紫蘭は気に入っていた。まったくもって美しい牝馬ひんばであった。


「どうした、夕景ゆうかげ?」


 馬は言葉を返さない。だが、瞳の潤ませ方で物を言う術を知っていた。


「……なんでもない。少し考え事をしていただけだ」


 首筋に軽く触れて撫でてやる。こうすると夕景はいつも喜ぶのであるが、今日は気持ちよさそうに耳を横に向けて少し目を細めつつもなおも紫蘭の表情をじっと窺っている様子であった。お前にはかなわないな、と紫蘭は溜息をついた。


「とにかくまずは家に戻ろう。従者も連れないで出歩いているところをあまり見られたくはないからな。このところ京も何かと物騒だ……」


 葦毛の馬は再び朱雀大路を南に下りだした。今宵は三条家で管弦の遊びがあったので、紫蘭も特別に乞われて斌や琴で数曲を披露したのであった。ちょうど牡丹大后も里下がりをされているところであって、紫蘭は数か月ぶりに母親とも継母とも言い切れぬこの女性ひとと言葉を交わしたのであった。身内の者だけの集まりとあって気がねのないせいか、大后は直接お声を交わすことを好まれたが、このお方が親しい者だけにみせるそうした心やすさに紫蘭は親しみを感じるとともにやや滑稽味を覚えなくもなかった。大后の声は若やいでいた。紫蘭に会えた喜びを隠そうともしなかった。


 ……世に流れている噂には大きな誤解があって、牡丹大后はこれまで一度たりとも紫蘭を虐げたこともなければ冷遇したこともなかった。なるほど、かつて市松皇后と火花を散らしあったように、一度人を憎んだら最後まで憎み通さずにはいられないといった苛烈で執念深い一面もあるけれども、自分の庇護下にいる者にはとことん面倒見がよく、気が利いて優しかった。そうでなければ、宮廷一の美女と謳われた市松皇后とこの方との間に立って苦労しようなどとは、松枝上皇も思われなかったであろう。幼いころには紫蘭も御簾のうちに引き入れてもらってよく世話を受けたが、この方の容貌については目元や鼻筋のくっきりとした華やかな美女であったということを覚えている。しかし、神々しいほどの美人であると評判の市松皇后とは反対に、この方の魅力は、黙って佇んでいるときの造形そのものよりもむしろ笑ったり話したりしているときの表情の変化にあって、そうしたところを父上皇も愛されるようであった。そして、大后はいつでも紫蘭に笑いかけ、話しかけ、その魅力を惜しげもなくさらけだして母として精いっぱいにつとめてくださったのだ。


 大后は自らが腹を痛めた産んだ子と紫蘭とを、さして区別しなかった。帝と紫蘭とは実の兄弟のように扱われ、故にお互いを実の兄弟のように思いなして暮らしていた。あのころの帝と紫蘭の睦まじさは、今の東宮と紫蘭の睦まじさも及ばぬほどであった。二人でそばにいられないということが、まるで信じられないほどであった。


 それなのに、一体どうして……?


 土を踏む馬の足音が京を包む静寂を細かく刻んでいる。朱雀大路には、道に沿ってその両脇に一定の間隔を空けて石灯籠が灯されているから、深更でも闇に迷うということはまずない。ただ、石灯籠の灯りの届かぬところ、貴族たちの屋敷が建ち並ぶところは窓から紙燭の火ひとつこぼれ出るでもなく、まるで朱雀大路よりほかはすべて深い穴に埋もれてしまったかのように、濃い影が立ち込めていた。ただ屋根瓦ばかりが埃のような雲を敷き詰めた夜空を背景に濡れたように光っている。すでに人々は寝静まっているようである。家々から物音はかたりともせず、ただ、遠くで野犬か家犬かのどちらかが吠え立てる声が時おり聞えてくるだけだ。


 実は夜明けまでもさほどの時間はない。いくら人嫌いの紫蘭とて、さすがにこれほどの時間になれば伴の者を連れるのであるが、今宵は夕景の扱いに長けた従者が病のために伏せっており、仕方なく代わりに連れてきた男については夕景がこれをとにかく気に入らず、帰り道にこの男が懇意にしている女の家があったのを思い出して放り出してきてしまった。一人になって紫蘭はようやく落ち着いたには落ち着いたが、今度は宴の憂鬱のことが思い出され、わずらわしいことこの上なかった。


 憂鬱――そういえばあの時も同じ憂鬱を提げていた。新玉の節会の宴の席ことだ。いつも同じ憂鬱ばかり繰り返している、僕は。どうしても抜け出せない。逃げ出したと思いきやまた同じ籠の中に飛び込んでいる。愚かだ。惨めだ。こんな紫蘭は紫蘭じゃない……



 不意に馬が速度をゆるめた。紫蘭は馬の耳が背後の音を聞き分けようとしてか後ろ向きにはためくのに心づいて、背に追いすがってくるようなしじまに耳をすませた。夕景のそれに紛れない馬の足音……それも複数、恐らく二頭か三頭ほど。はて、こんな真夜中に一体誰が?


 夜中の一人歩きに目をつけて賊が追ってきたのかもしれない、とまで思い至って、紫蘭は注意深く右肩の向こうへと視線を遣った。賊が京で跋扈していたのは今は昔の話で、父松枝帝の御代よりはこうした連中は徹底的に取り締まられ京を追われたはずである。それでも時折は不逞の輩が世を騒がすことがあるにはあるが、朱雀大路などという畏れ多くも内裏に通ずるような道で、それも貴人たちの住まう京の中心部において、かような狼藉が行われたとはここ最近では聞かぬ話であった。しかし、どんなに有り得ぬと思われたことでも起きる時には起きるのだ。


 紫蘭は後続の馬の足音の距離からすばやく計算をしてみて、まだ追っ手の目はこちらの姿を捉えられていないはずだとの結論に至った。そして再度振り向いて闇ばかりがたゆたうことを確かめてから、声ひとつかけるでもなく、ほんのわずかな体の動きひとつで愛馬に指示を出した。夕景は鮮やかな、しかし静かな動きで朱雀大路の中央からその傍ら、燈籠と燈籠との間の闇へと跳躍してそれきりじっと身を潜めた。もし仮に追い来る者たちが紫蘭を狙っているのだとすれば、獲物の立てる物音が突如として途絶えたことに対して何かしらの反応をみせるはずである。紫蘭は夕景の背の上で鯉口を切りつつもじっと追手の反応をうかがったが、重なる馬の歩調は微塵も変化する様子はなかった。馬はそのまま紫蘭と夕景の前を通り過ぎた。


 紫蘭が燈籠の灯のなかに認めたのは、三頭の馬とその乗り手たる乙女たちであった。先頭に立ち、息を呑むほどに見事な雄々しい白馬を乗りこなしていたのは、金色の髪を靡かせた美しい人である。もし紫蘭がその人を知らなければ男性と間違えたかもしれぬが、それは紛れもなく一条家の令嬢、白虎なのであった。その後を追うのが栗毛の馬にまたがった二人の少女で、手綱を握っているのが青龍、青龍の前で不安げな面持ちを浮かべているのが先の柊の大納言の六の君である玄武。闇に紛れかねぬほどつややかな毛並みの黒馬を走らせて、いかにも何気なさそうにしているのは、はっきりと顔は見定めかねたけれども紫蘭にとってはおん姉宮にあたる朱雀の宮であるらしい。朱雀大路を駆ける三頭の馬の影はたちまち夜の手に覆い隠されてしまったが、特に憚るわけではないらしいその軽やかな足音は遠く闇夜を渡ってきて、腰に刷いた刀の鞘よりそっと手を離す紫蘭の鼓膜をなおも揺すぶっていた。


 四神が一同揃って目の前を駆けていったことは、平素はおとなしい紫蘭の好奇心をも目覚めさせる効果があった。何か急な事でもあったのだろうか。きっとそうに違いない。だが、一体何があったというのだ。重大なことであろうか。皇女たる姉宮が夜とはいえ顔を晒して自ら馬を操っていた。主上おかみや東宮にも関わることであろうか。否、それほど重大なことであれば紫蘭にも何かしら耳に届くはずである。ともすれば……


 ああ、そうだ。いつだか聞いたことがある。ひと月ほど前から、朱雀門のあたりで怪しいものどもが現れて人々を脅かすのだと。おおかた四神たちはその退治に出かけたのであろう。思い返してみれば、四神たちは皆剣やら刀やら弓やら武器を携えていたようで、鍔やゆづかの部分だけが鈍く炎の色に照らされて賑々しくこの目に映った。四神が揃いも揃って出かける理由はわからないが――朱雀門の辺りの話であるのだから、姉宮が一人で出向けばよい話である。実害が出たとの報告もないのであるし、四人揃っての出陣はいくらなんでも大仰すぎる。


「……まったくご苦労なことだ」


 紫蘭は女たちの影に不要な警戒をしてみせた自分への嘲りをも込めて(決して怯えたわけではないと断言できるのがせめてもの救いであった)、思わず声に出してつぶやいた。夕景もまた、もう息を潜めていなくともよくなったという安堵のためか、それともいらぬ用心をして見知らぬ馬に道を譲ってしまったという苛立ちのせいか、落ち着かなさげにその場で足を踏み鳴らしていた。紫蘭は微笑んでそれをなだめた――まあ、おかげで余計な挨拶をしなくて済んだのだ。こんな夜に供もなくひとり歩いている理由も訊かれず済んだ。だから結果としてはこれでよいのだと。


 雲の切れ間から衰えた月が半ば顔を出した。朱雀大路の土の色が白銀の粉を刷かれたようにほのかに光るのを紫蘭は見た。そして、その地表のかすかな光が主人の口の端に浮かんだ皮肉な笑いを照らし出すのを、馬ばかりが見つめていた。急いで帰る必要もない。誰が待っているわけでもないのだから。せっかくだ、四神たちのお手並み拝見といこうではないか。四神の実戦に立ち会える機会など滅多にないのだし、美しい良家のご令嬢たちが女の身には不似合いな武器を操る様子はさぞかし見ものであろう。


「夕景、慎重に行け。気づかれるな」


 夕景は気乗りしないようではあったが、主人を慕っているので低くいななきを返したあとで再び大路に躍り出た。慎重に行けと命じられたわりにはやや足さばきが乱暴であった。馬にしてみればもういい加減厩に戻って休みたいのだろう。だが、珍しい機会に出くわして、どうしても己が目で確かめておきたいことがある――果たして自分の計画をかねて思い描いていた通りに進めてもよいのだろうか。



 京姫と四神を廃し、神なる地位から放逐するというこの計画を。

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