5-3 「よからぬことが企まれている」

 月宗寺げっしゅうじは、戦国時代の終末期に建てられた寺である。元はこの地方をおさめていた戦国武将、杣谷勝忠そまやかつただの奥方・おせいの方すなわち斎礼院さいれいいんが建てられたものである。お清の方には、夫が旅路で病に伏していることを聞いて自ら青馬を駆けさせて馳せ参じ、夫の病を治したのだという伝説がある。そこから、江戸時代後期には、宿場町であったこの町にあって、旅の無事を祈る人の参詣が絶えず、『延喜式』神名帳に名のある桜花神社にも劣らぬ賑わいであったのだ。一方で、この寺の尼であり、斎礼院の御妹の血を引かれる方が、心根の優しい真に徳の高い人であったとみえ、行く先のない人々のお骨を受け入れて、墓を建て、丁重に供養したという美談も伝わっている。しかし、明治時代になると廃仏毀釈の憂き目にあい、大切に崇めていた仏像も、女流絵師の細やかな絵筆の使い方で名高かった月宗寺縁起絵巻も、紛失してしまったという。そういうなんとなく拠り所のない心細さのせいなのだろうか。歴史がある場所にも関わらず、月宗寺にはなにか白々しいほどに真新しい感じが漂っていて(確かに二年前に改築工事をしたけれども)、それがどことなく母に連れられて参詣する舞の心を和ませぬ理由なのだが、中学生の舞は当然そんな寺の歴史を知ろうともしなかったので、その正体をついに見極められずにいた。


 月宗寺の前では、すでに司が待っていた。舞は意外に思った。翼と恭弥がまだ来ていないということは、別段誰に引っ張られもせずに来たのだろう。舞は自転車を降りると、どうしたものかと困惑しながら、でもやはりそうしなければおかしいだろうと思って、司に向かって小さく手を振った。司は目線をちらりと舞に向けて「あぁ」と低く言っただけだった。


(ああ、やっぱりこの調子なんだから……)


「は、早いね、結城君!」

「別に……」

「場所、すぐわかった?」

「ああ。母親に聞いたから」

「そっか。お母さんも昔、この町に住んでたんだよね……」


 と言ってから、舞は司の表情の変化を見まいとしてそっと目を逸らした。司とはまだそんなに話していないけれども、初めて一緒に帰った時の様子といい、偶然町で出会ってしまったときの様子といい、どことなく昔のことに触れてもらいたくないという雰囲気を、舞は既に感じ取っていた。司は案の定何も言わなかった。やはり触れられたくなかったのかもしれない。


 沈黙を紛らわすため、舞は自転車を停めにいった。月宗寺には南門がない。平たい、幅の広い石段を少しあがると右手に月宗寺と刻まれた石碑があり、石垣によって境内は囲まれている。石段をのぼってまっすぐ参道が続いており、やがて妙に真新しい風情の本堂へと至る。悲劇の花魁は、恐らくその裏に連なる墓石のうちの一つの足元で眠っているのだろう。しかし、本当なのだろうか。花魁井戸の噂というのは。


 ふと振り返ると、司の姿がなかったので、舞は慌てた。一人で帰ってしまったのだろうかと思ったが、入り口のところまで戻ってきょろきょろしていると境内の中に司の姿を見出すことができた。司はその目の前に立っている、月宗寺の由縁を書いた看板には目もくれず、境内いっぱいに咲きさざめいている紫色の花の一つを見つめていた。司がその花弁に指で触れている。舞は今度こそ、なんの悲しみも痛みもなくその横顔に見とれていた。司の瞳が花の色を映し込み、花の色が司の瞳を浴びて、両者は互いに色を補い深め合う。司の瞳の色がこんな風に見開かれたのを見たことがあっただろうか。司の唇がこんな風に切なげに開かれたのを見たことがあっただろうか。


 あの花の名前なんだっけ……舞が記憶を手繰っているとき、司の唇は確かにその花の名を呟いた。だが、そのつぶやきはついに舞の耳には届かなかった。


「舞ちゃーん!おまたせー!」


 舞は振り向いた。翼と恭弥とが自転車を連ねてこちらに滑ってくるところであった。翼がハンドルから右手を離して手を振ったので、舞も肩のあたりで振り返した。


「ごめんねっ、待った?」

「ううん。二人は一緒に来たんだね」

「たまたま会っただけ、家の前で。隣の家だから」

「えっ、隣の家に住んでるの?」

「おい、京野、もしかして結城のやつ……!」

「あっ、大丈夫。結城君ならちゃんと来てるよ」


 司は舞たちの騒々しい声で現実の世界に無理やり引き戻されたらしく、いつもの軽蔑に染まった顔を石段の上から投げかけていたが、そんなことお構いなしの恭弥は、司が来たことに舞以上に感激してみせた。特になにを調べるとも決めていない四人は、最初は境内をふらふら回って看板の内容を読んでみたり、本堂で拝んでみたりしてみたが、結局目的の半分以上が花魁の墓の方にあるので、十分も経たぬうちに皆、本堂の裏へと廻りこんでいた。


二年前に改修工事をしたといっても、まさか墓地まで改修していないので、墓は昔のままである。本堂の妙な白々しさのあとで積み上げた歴史通りの姿をしている墓石たちを見ると、舞は却って心が和んだほどだった。この寺の墓には不思議と不気味な印象がない。それはきっと、この町で生まれこの町で死んでいった人たちのもの、知らないけれどその心根はよく馴染んでいる人たちのものだからだろう。この町とはなんのゆかりのない、ただこの地で死んだというだけの憐れな人々でさえ、ここではこの町の人々に温かく囲まれて、のどかな眠りの時間を楽しんでいるように見える。井戸で溺れ死んだ花魁だって、生きている人を呪うことなんか思い付きもせずに、死後の日々を過ごしているのではないかと舞には思われた。


「それで、花魁の墓ってどれなの?」


 日差しが、立ち並ぶ墓石の色や角をぼやけさせているのを見渡しながら、翼が言った。


「確かもっと奥の方だったと思うぜ。俺のばあちゃんの墓より奥だったから。っていっても、俺も見たことねぇんだけど」

「なによ、それ」

「いや、母ちゃんがあっちの方に花魁の墓があるって言ってただけだからよ。まっ、とりあえず行ってみようぜ」


 墓石にはあまねく日差しが注ぎ込んでいるものだと一同は思い込んでいた。だから、恭弥の祖母の墓を更に通り過ぎたあたりから、遠目に眺めているうちは敷地外にあるものと思っていた木々の群れが墓石を覆い始めたときには、なんだか意外な気がして、少し不安になってきた。実はそうして木々が覆い始めたところからが、無縁仏の集められているところであったのだ。心なしか空気もじめついてきたように思われた。木々の根元の土は雨に濡らされた後のように濃く黒ずんでいる。土の色の目を落としていると、飢える者の腕のごとく差し延べられた痩せた枝の上で烏がしわがれた声で叫び、驚いて目を上げた中学生たちをあざ笑うかのように飛び去っていく。飛び去る鳥影に束の間に重る墓石の表面はところどころ白い糞で汚されていた。


「ねぇ、あれ……」


 翼が舞の袖を急に引っ張ったので、舞は危うく悲鳴をあげるところであった。道が狭いので、恭弥、司、舞、翼の順で縦に並んでいた一行だったが、翼が足を止めると、前を歩いていた男子二人も振り返った。翼が指すのは、道端に落ちていたとしてただの岩と見過ごされるであろう、粗末な崩れかけた墓石であった。


「なんか、かわいそう……」


 首筋になにものかの視線を感じて舞がさっとそちらを見てみると、小さな石の仏像のようなものが、こちらも崩れた墓石の周りに群がっていて、横倒しになったり、下半身を失ったりしながら夥しく積み上がっていた。舞は気味悪くなって、翼にもろくに返事をしないまま、先に進み始めた司の後を追いかけるべく足を速めた。


「ちょっと、恭弥、本当にこの奥にあるの?」

「だから知らねぇったら。でもさっき寺の案内図見たときにはあったぞ」

「もう……!ねぇ、やっぱりやめない?花魁井戸なんて、くだらない作り話に決まってるんだから……」

「なーんだ、怖いのか?」

「怖くない!」


 と、恭弥が立ち止まった。司も続いて止まったが、舞と司は周囲を見回しながら進んでいたので、舞は司の背中に、翼は舞の背中に頭をぶつけた。舞は急いで謝ったがきっと司に嫌な顔をされるだろうと思っていたのに、司はまるで気にもせず、目の前の光景に気を取られている。どうやら男子たちは目の前の光景に絶句しているようであった。そんな雰囲気の伝わってこない最後尾の翼だけが怒って言う。


「ちょっと!急に立ち止まらないでよ!」

「おい、これ……」


 舞は司の肘のあたりからぴょこりと顔を出してみて、男子たちと同じように唖然とした。素っ気ないほど真新しい白い墓石に、螺鈿之墓とこれまた仰々しい字で刻み付けられているのはともかくとして、その傍らに「遊女 螺鈿の墓」と書かれた看板が立てられているのもともかくとして、納骨室の蓋が外され、台座に叩き付けられたとみえてその破片が散乱しており、供えられていたと思しき花も無残に踏みにじられていたのだ。舞はそれを見た瞬間、一瞬気が遠くなった。翼が舞の様子に気付いて慌てて支えてくれた。そうして、翼自身も状況を確認して声を失った。


「これって……あれだよな?墓荒らし……」

「寺の人に伝えるんだ」


 司が静かに言った。


「なんで……?誰かが盗んだってこと?その……」

「でも、なんのために?」


 舞は震える手を翼に包んでもらいながら、そっと言った。どうしてこんなにも自分がショックを受けているのか、舞はわからなかった。だが、眠れる死者に対してあまりの冒涜だと思った。もう、あの、日が普く照らしていた死の園の幻影はとうに消え、陰惨な死とそれに勝る生者の横暴を目の当たりにして、舞は一刻も早くこの場を立ち去りたかった。


「寺の人に伝えるんだ」


 司は再度呟いて、くるりと踝をかえすと、無縁仏の森を抜けて明るく日の差す方へ歩いていった。残された三人は、ただ黙ってその場に立ち尽くす他なかった。恭弥でさえいつものおちゃらけた様子を失っていた。手を結び合っている少女たちに、恭弥は例の白けた看板を眺めながらぽつんと言った。


螺鈿らでんっていうんだな、この遊女……」


 舞の頭の中でなにかが疼いた。螺鈿、螺鈿――どこかで見たような。否、単に細工の話ではなくて。


「舞ちゃん、大丈夫?」


 翼が問うと、舞は蒼白な顔で頷いた。


「うん。大丈夫。ありがとう……」

「ここ、なんか寒いよね……」

「おい、お前ら先に戻ってろよ。俺がここにいるから。ここの寺のやつ、知り合いなんだ。婆ちゃんの墓参りのときよく合ってるから。俺から話しとく」


 この時ばかりは翼も素直になって、舞の手を引いて今来た道を引き返した。その途中で、司に連れられた寺の人間と思しき剃髪の女性とすれ違った。司は舞と翼に対してなにも話しかけなかった。ただ、その目には焦りのようなものが浮かんでいた。



「誰がやったんだろ……!」


 咲乱れる紫色の花をなんともなしに見つめているなかで、翼がつぶやいた。翼は場の気味悪さに押されていたのが、ようやく明るいところに出られたので段々と義憤が湧いてくるらしかった。舞の方はいまだに悄然としていた。


「ほんと、ゆるせないっ!」

「姫様、翼殿」


 舞のポーチからもぐらのようにテディベアが顔を出した。翼は飛び上がった。翼の声で、二人の足元で餌をついばんでいた鳩たちが数羽飛びのいた。


「どうもあやしいですぞ」

「どういう意味?」


 舞が訊く。


「はっきりとはわかりませぬが……よからぬことが企まれているような気がいたします。先ほどの墓荒らしは単にその前兆かと」

「もしかして、漆の奴が関わってるのっ?!」

「かもしれませぬ。もちろん、まだわからぬのですが。先ほどあの墓の近くで、奴のいた痕跡が感じられたような気がするのです。姫様、あの墓に行って以来お顔色が優れませぬな。翼殿も、先ほど『寒い』とおっしゃっていましたが。お二人ももしかすると、あやつめの気配を知らず知らずのうちに感じ取られたのかもしれませぬ」

「でも、お墓なんて荒らして、一体なにを……」


 ちょうどその時、男子たちの姿が本道の裏から現れたので、舞は左大臣の頭を無理にポーチのうちに押し込んだ。恭弥の話では、とりあえず寺の人間には伝えた。寺は警察に届け出ると言っている。教えてくれてありがとうと感謝された、との話であった。そんなお礼を言われても、いまいち気持ちの盛り上がらぬ四人は、今日はもう調査はやめにしようという翼の提案に乗った。


 司は変わらず黙したままでいたが、舞が司とすれ違った折に見た焦燥のようなものの名残は、まだ司の瞳から消えていなかった。舞は非常に傷つきやすい司の本性を垣間見たような気がした。司は本当に冷酷という訳ではないのだ。舞と怪物から逃げていたとき、町の人を騒動に巻き込むまいとしていたことからもわかる。彼自身がとても傷つきやすいから、他人が傷つくことを恐れているのかもしれない……それは、舞自身はまるで意識していなかったけど、舞にもあてはまることだった。


「ほんともう、あんたがろくでもないこと言いだすから」


 翼と恭弥の痴話げんかをよそに、舞は決して報われぬことのない視線をじっと司の横顔に注いでいた。

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