第三話 現世万取締課①

あの世の世界はとてつもなく広大だ。


地獄と呼ばれる刑場も実はその一角でしかない。

それを統括する冥府庁の職員の数もまた膨大である。

彼らの住宅事情は実家暮らしや一人暮らしは勿論、所帯持ちの者は庁が用意する社宅を利用するなど実に様々だが、その中でもずば抜けて多いのが同僚や他の課の職員達と共に共同生活を送る寮を利用する者達だ。





***






――それは見るからにオレの食欲を刺激する凶悪なものだった。


からりとあがった金色の衣に包まれた大振りの海老天が二本とキス、イカ、茄子、南瓜、大葉、蓮根の天ぷらが一つずつ。

おまけに玉ねぎと人参と牛蒡を使ったかき揚げが大振りの丼に入ったほかほかのご飯の上にところせましに燎の大きな手によって乗せられていく。


「燎、かがりっ!! 食べていい?」


待ちきれなくて椅子に座ったまま身を乗り出せば落ち着け、とぺしりと頭をはたかれた。


「まだタレかけてないだろうが。それと赤だしの味噌汁も出してやるからあと少し待ってろ。」


「――!! 赤だし!!」


さらに告げられたそれにテンションがぐん、と上がったまま叫べば燎に仕方ないなと言うように目尻を下げられる。


「お前本当食うの好きな。……その割にはいくら食っても細っこいけど。」


「そりゃ元々が悪夢を『食べる』妖怪だもん。『食べる』って事に対して体も特化してるし、食べる事が好きってのも、否定はしないけど。でもオレ燎が作ってくれた料理が一番好き。」


そう言って笑いかければ軽く目を見張った燎がどこか照れ臭そうにオレから視線を剃らす。


――燎は料理が凄く上手い。


本人は普段火を操っているせいか火力が物を言う中華料理を得意料理だって言ってるけど、こういう天ぷらなどの揚げ物だってかなりの腕前なのはよく知ってる。

でも燎の料理が好きなのはただ単に美味しいってだけじゃなくて凄く優しい味がするからだ。

食べると笑顔になる、温かい気持ちになれるそれがオレは昔から好きだった。


「……ったくお前は。ほらタレかけてとっとと食うぞ。」


「うん!!」


先程はたかれた頭に温かな手がぽんっと乗せられる。

それが嬉しくて、燎とこうしているのが楽しくて頷いた瞬間。


ジリリリリ、ジリリリリ……と


「――――え。」




ジリリリリ、ジリリリリと枕元に置いたスマートフォンの目覚まし用のアラームが鳴り響く。


体がふわっと浮くような感覚を覚え、俯せで枕に埋めていた顔を上げ夢現のままぐるりと辺りを見回せばそこはよく見知った冥府庁職員合同宿舎「あかがち寮」の1Kのオレの自室だった。


つまり、今までのは……。


「……全部、夢。」


そう呟くと、再びポスリと枕に顔を埋める。

……あ、あの天丼、少し前の夜中小腹が空いて仕方なかったからコンビニに行こうとしたら同じくこの寮……と言うか隣の部屋の燎に見つかって、燎の部屋でお茶漬け作ってもらった時してた『天丼の具は何が美味しいか』っていう話の内容そのままだ。


未だ鳴り響いているアラームをやっと止めれば、画面には大きく『6:30』とデジタル表示された紛れもない起床時間が表示されている。


「……起きなきゃ。」


その言葉とは裏腹に再びぽすりとベッドに倒れ込み瞳を閉じかけるとトントン、と部屋のドアをノックされた後、カチャリと鍵が外れた音がした。

食べる事と同様眠ることに対しても体が特化――彼いわく『寝汚い』オレを起こすのがドア越しだと困難だと言われて合鍵を渡して以来、彼がオレを起こしに来るのはほぼ毎朝の恒例行事だ。


「――千影」


「…………ん。」


低く落ち着いた声に瞳を開ければそこに立っていたのはいつも通り、現世万取締課の制服であるローブコートとナポレオンジャケットこそ着ていないものの、すでに身支度を済ませているらしく白のワイシャツに緩められた黒ネクタイとスラックス姿の燎だった。


「……おはよ、燎。」


「おう。……ってお前な、まだそんな恰好でいやがるし。」


まだ眠い目を擦りながら体を起こし挨拶すれば呆れたような声色で言われながらも燎がオレのパジャマのボタンに手をかける。


「……ん、いいよ、燎。オレ自分で脱げるし。」


「いつも着替えの途中で二度寝しかける奴が何言ってる。いいから、じっとしてろ。制服はクローゼットの中か?」


「うん。」


プツリプツリとボタンを外していく燎の長い指をぼんやりと見下ろしているとふと脳裏に夢の中の光景が過った。


……そう言えば、燎の天丼食べ損ねた!


その結論にハッとして顔を上げるとボタンを全て外し終って前を広げようとしていた燎が怪訝そうな表情を浮かべる。


「千影? どうした? ほら、とっとと身支度して食堂いかないと朝飯食いっぱぐれるぞ?」


「うん。」


適当にそう返事を返しながら燎の腰に腕を回しぎゅっと抱き着く。

瞬間ふわりと香ったのは彼御用達のコロンの香りだ。


「うおっ!? って、おい、千影?」


叫ぶ燎に構わずさらに回した腕に力を込める。


「……燎、燎が作った天丼食べたい。赤だしのお味噌汁付きで。」


「…………は?」






あかがち寮は、共同の食堂や大浴場、トイレとは別に勤務形態により帰宅時間がバラバラになる事も多々ある職員達が快適に過ごせるよう風呂とトイレ、そして一人立ったらそれだけでいっぱいになるガス台付き流し台が各部屋に付いている。

でも、トイレはともかくとして、自室の風呂よりも大浴場の方が足を伸ばせるし自炊も自分でするよりも格安で食べさせてくれる食堂の方が良いって言う職員のが多いみたいだけど。


「……あーー、そういや最近自炊してねえな。夜と朝は食堂で食えるし。それにあの流し台調理スぺースがな……。」


あの後、夢の内容を話し「今度作ってやるからさっさと着替えろ。」と頭をはたかれ、燎同様ワイシャツにループタイ、スラックスだけ着て一応の身支度を整えると二人で食堂へと向かっていた。


「オレ、あの流し台で料理した事ないなぁ……。食堂で食べた方が安く上がるし。」


「そりゃお前みたいに朝から丼で飯三杯食うような欠食児はそうだろうな。」


「う……。だって食堂のご飯美味しいし、調理員のおばちゃん達も色々サービスしてくれるから。」


「あっ!! ちーーかーーげっ!!!」


そんなやりとりを交わしていると不意に聞こえた底抜けに明るい声にハッとした瞬間、背後からドーーン!!とタックルの如く力一杯抱き付かれた。


「うぇっ!?」


その衝撃で前方に倒れそうになるのをたたらを踏み必死になって堪えると、腹と胸にしっかりと回されたオレ達と同じ制服に包まれた二本の腕に息を付く。


「千影、千影っ!! おはよーーっ!!」


「……おはよ、嵐太あらた。」


楽しそうな声に肩越しに振り返れば年は二十代前半。グレーアッシュ色の前髪を右に流している涼し気な切れ長の橄欖石みたいな黄緑色の瞳を持つ今時のイケメン大学生と言った風貌の青年――オレと燎と同じく現世万取締課に所属している木暮嵐太こぐれあらたがさらにオレの背中にぐっと伸し掛かってきた。


嵐太重いっ……!


「……よう、嵐太。」


「あ、燎! おはよー!!」


ふらつくオレの様子を気にすることなく嵐太に声をかける燎をキッと睨み付ける。


「か……がりっ……! ってか、嵐太ごめん、マジでお……」


「――嵐太、いい加減にしとけ。千影さん困ってるだろ。」


瞬間、嵐太によく似た――それでも嵐太よりも大分落ち着いた声が耳朶を打ち、嵐太の体が後ろへグイッと引っ張られた。


この声って……。


さらに背後へ目を向ければ、嵐太の後ろに彼と全く同じ顔の青年が彼の襟首を掴みあげて立っていた。


「よう、凪斗なぎと。」


「お早う御座います、燎さん。千影さん、愚弟がすみませんでした。」


「う、ううん。ありがと、凪斗。」


彼の名は小暮凪斗こぐれなぎと

彼もまた取締課に所属していて、未だにオレにしがみついていて「やーーー!!」と叫んでいる嵐太の双子のお兄さんだ。


……と言っても彼らもオレ達同様『人』ではない存在なんだけど。


「もーー!! 凪斗、邪魔しないでよ! 今折角千影とラブラブしてるんだから!!」


「相手が呼吸ができない程強い力で抱きしめて伸し掛かるのはラブラブとは言わないだろ。いいからさっさと千影さんから手を離せ、このバカ!」


「えーー、ラブラブしてるよ! 千影だって嫌がってないし!!」


「何だその基準は! あと先輩には敬称を付けて敬語で話せとあれほど言ってるだろ!?」


ポンポンとあまりにテンポよく交わされる会話に話しかけるタイミングを完全に失い、凪斗と嵐太のやりとりを半ば感心して聞いていると突然嵐太に「千影っ!!」と水を向けられた。


「え?」


「千影は、ボクにこうされるの嫌!? てかボクの事嫌いっ!?」


「へっ!? えっと、嫌、とまでは言わないし、嵐太の事は同僚として好きだけど、タックル同然で来られるのと体重かけられるのはちょっと、困るかな。」


戸惑いながらもそう返すと嵐太のオレの胸と腹に回された腕がさわさわと微妙な動きを始めた。


え、ちょ、ちょっと、嵐太!!?


「ほら凪斗聞いた!? ボクと千影ラブラブ!!」


「いや、お前人の話きちんと聞け……って、おい!!」


「ちょ、嵐太、やめッ、ヒッ、ひャアゥッ!」


凪斗の制止より早く際どい場所を嵐太に撫であげられびくりと体を強張らせた瞬間、べりっと音がするほど勢いよく燎と凪斗の手によって嵐太から引きはがされ、燎に強く抱きしめられた。


「おい、嵐太。俺の相棒とラブラブ宣言はともかくとしても、セクハラまでは享受できねぇぞ。」


燎の常より低い声に少しだけ疑問を感じながらも彼の体温にほっと息を付き、その胸元のシャツを握りしめれば背後からゴッという鈍い音が響いた。

肩越しに振り返ればどうやら凪斗の鉄槌が嵐太に炸裂したらしく頭頂部を抑え涙目で蹲っている嵐太の横で凪斗が拳を震わせていた。


「こンの脳内お花畑の駄犬がっ!! 千影さんっ、燎さんもっ!! 本当すみませんでした!!」


見事に腰を九十度曲げ深々と頭を下げ、そのままだと土下座でもしそうな勢いの凪斗に慌てて声をかける。


「う、ううん。びっくりしただけだから、大丈夫だから!! 顔上げて凪斗!! と言うか『俺の相棒に』とか言いながらぎりぎりまで何もしなかった燎が悪いから!!」


「おい千影!!」


正直八つ当たりだとは思うけど、最初に助けてくれなかった恨みも込めてそう言えば案の定今度は燎がオレを抱きしめる腕に力が篭る。



そのまましばらくワーワーギャーギャーと人目も気にせず騒ぎ、結局おれ達が凪斗と嵐太も一緒に食堂へ向かったのはそれから十分後の事だった。

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