クレイ9. 君への誓い

 つくづく、自分の鈍くささと運の悪さには呆れてしまう。


 ラシェッドと共にイフリート派の演説を聞いていたはずなのに、背後から誰かに口を押えられ、あれよあれよとどこかも分からぬ狭い路地まで引っ張られてしまった。


『あ? ああ! よぉ、久しぶりだなぁ』


 腹部を蹴られてうずくまっていると、近くで靴音が聞えた。目線だけ動かして人の気配が増えた方を見ると、目を見開いて自分を見ているラシェッドがいた。


『――っせえよ』


ぽつりとつぶやかれた声はどこまでも空虚で、冷たくて、聞いていて泣きたくなるような響きがあった。彼女の鋭い眼は、いつか見せたように光りを反射せず、暗闇だけを映しだしていた。


『もういい。生かすのは止めた』


 ゆらりと一歩踏み出したと思った次の瞬間には、ラシェッドは青年の一人の懐まで移動していた。その動きに驚嘆する間もなく、彼女の右手が青年の脇腹に入った。


『いっ……ぐ』

一瞬の間を置き、青年のシャツからジワリと赤が滲む。彼女はそれにさして注意を払わず、他の青年たちを見据えた。

『げ、う、わぁぁああ!』

 刺された一人を置いて、青年たちは足をもつれさせながら去っていった。取り残された青年は脇腹を押えて肩を上下している。


「ら、らしぇ、」


『よぉ、久しぶりだなぁ』

 こちらの声は聞こえていない。ラシェッドは無表情のまま青年のそばにしゃがみ込んだ。

『そんなに死にてェならあん時言っときゃ楽に死ねたのによぉ』

『ひ、ひう……』


 青年がラシェッドから離れようと身を動かした。が、その行動は意味をなさず、芋虫のようにただその場で身をよじらせるだけのものとなっていた。それを見たラシェッドが嘲るように笑う。


『似合いだな。けどオレぁてめえの気色悪い動きを見て喜ぶ趣味はないんでね。そろそろ終わらせようぜ、なあ』

 ラシェッドが青年を蹴り飛ばして仰向けにさせた。クレイはその行動で、彼女がこれから何をするのかを悟った。


「ラシェ、ッド……!」

 彼女はクレイに見向きもしない。ラシェッドは青年の首を固定させる。ナイフを持つ手を高くする。


『地獄ではうまくやれよ?』


 ――――いけない。


 ナイフが振り下ろされようとする瞬間、クレイは痛みをこらえて彼女に身体ごとぶつかった。

 そのままも狭い路地の壁にもつれ込んだ。彼女に覆いかぶさるようにしながらも、ナイフを持つ手は彼女の頭上でしっかりと押さえつけた。


『ひ、あう。うう……!』

 うめき声と不自然な足音が裏通りへと消えていく。クレイはそれを聞きながら青年の傷を少し心配し、そして自分の下敷きになっている少女へと視線を移した。


「………なンだよ」


 こちらを見上げる表情はいたって冷静で、それでいてどこか狂ったような熱を孕んでいる。クレイはその目にたじろぎながらも、言い聞かせるように静かに言った。


「ごめん。でも、あのままだと、死んじゃいそうだったから」

「殺そうとしたんだよ」

「そうじゃなくて、僕が言いたいのは君が……死んでしまいそうに思えたから」

「ハァ?」


 ラシェッドが少しだけ眉間に皺を寄せて表情を険しくした。その声が少しだけ上ずったことに、クレイは気が付かない。


「その、あのまま、あの人を殺してしまったら、君がどこか手の届かないところに行ってしまう気がして怖くて…………」


 このままでは、彼女が遠くに行ってしまう。

 もう、会えなくなってしまう。

 クレイは何故か、直感的にそう感じたのだ。


 少女の手首を押える力を強める。彼女の脈が掌に感じられた。


「もう、あんな風に人を殺そうとするのはやめようよ。あんなこと続けてたら、いつかきっと君がおかしく――――」


 言いかけたところで、ラシェッドが上半身を勢いよく起こした。押えていない方の手で強く押しのけられる。するりとクレイの下から身を抜いたかと思うと、彼女は壁際にクレイの身体を叩きつけた。首にナイフの冷たい刃先があてられる。


「………ラ、」

「おかしく、なるだと……⁉ 知った口きいてんじゃねえよ!」

 先ほどの落ち着き払った態度とは一変し、ラシェッドは声を荒げた。


「あんな風に人を殺すな? ふざけんな! あんな風ってなんだよ! じゃあてめぇが死んだってよかったってのか⁉」

「くる、し……」

「仮に殺そうとしなかったとして、じゃあオレはどうすればよかった⁉ にならなきゃ全部全部オレから離れてく! どこか手の届かないところに行っちまうのはお前のほうなんだよ!」


 その訴えは、まるで何かに怯えているようであった。


 首元にちくりと痛みが走る。おそらく汗とは別の液体が、首筋をつたっていくのが感じられた。しかしクレイはそんなことを気に留めていなかった。


 ナイフを握る少女の手が、かすかに震えているのが目に入った。

 自分の手をラシェッドの手に添える。少しだけ力を入れて握ってみると、彼女は驚いたようにびくりと肩を揺らした。


「――――ない、よ」

 押さえつけられて息さえ困難だったが、それでもクレイは伝えようとした。今、伝えなければいけないと思った。


「僕、は……どこにも、行かない」


 ラシェッドが目を見開く。そしてクレイを壁に押さえつける力を弱めた。彼女がこちらから身を放すと、クレイは咳き込みながら深く呼吸した。


 ラシェッドは、俯きがちに額を押えていた。

「………ンな、口約束求めてんじゃない。所詮、死ぬときは死ぬんだよ。どうやったって、何したって。そうならないためにも、失う前に奪うんだ」


 それがすべてだと言わんばかりの口ぶりだった。


「君が思っているほど、僕は簡単に死ぬ気はないよ。僕には口で言うことしかできないけど、それでも約束するよ。僕は君を置いていったりしない。神様に誓って」

 そう告げると、ラシェッドは疲れたように鼻で笑った。

「―――バッカじゃねえの。オレは神なんて信じてねぇよ。信じられるのは自分だけだ」


「だったら、君に誓うよ」


人を二度と殺すなとは、あまりにも重くて口にできない。

でも、あんなに冷たい目で人を見ないで欲しい。

もっと、優しい感情を知ってほしい。


クレイがじっとラシェッドを見つめていると、彼女はその顔に困惑を浮かばせた。


「―――わっけ分かんねェ。やっぱお前変だよ。君に誓うとか、普通言うかよ」

「う、えっと、ごめん……?」

「もうなんか疲れた。帰る」

「あ、ちょ、ちょっと……⁉」


 その場を去ろうとするラシェッド。クレイは少しだけ痛む腹部を気にしながらも、少女の背中を追った。


「君、怪我とかしなかった?」

「あ?」


 見たところ、先ほどの争いはラシェッドの独壇場ではあったが、もしかするとどこか怪我を負ったかもしれない。それが気になって、ふと心配になったのだ。

「別に、どこも怪我なんてしてねえよ」

「そっか」

 すぐにそんな答えが返ってきたので、クレイは安心して胸をなでおろした。


「……お前は、腹は?」

「うーん、痛いけど普通に歩けるし……大したことないんじゃないかな」

「ふうん」


 ラシェッドは適当な調子で相槌をうったが、何かを思いだしたように彼女の表情が強張った。視線がクレイの首筋に走る。

「―――るかったよ」

「うん?」

「だから……や、なんでもない」


 よく聞き取れなかったのだが、彼女はもう一度言うつもりはなかったようだ。笑いかけたのが気に障ったのだろうか。以前にも似たようなやり取りがあった気がして、クレイは少々困惑して彼女の横顔を覗く。しかしその表情はいたって穏やかで、怒っている様子はない。


 それにほっとしたクレイもまた、黙って彼女の隣を歩いた。

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