ダークメルヘンシリーズ

暗闇幸(こう)

1.黒い街

 真っ白な大地に一匹の黒いネズミがいました。ネズミの背にはバスケットが括り付けられています。

 そのバスケットの中には一人の少女がいるようです。ですが少女は意識がありません。

 黒いネズミが向かう先には真っ黒な街が見えます。どうやらそこが黒いネズミの目的地のようです。

 前から同じように黒いネズミがやってきました。このネズミにもバスケットが括り付けられています。黒いネズミの目的は荷運びでしょうか。

 やがて黒いネズミが黒い街の入口へやってきました。そこで体を前後に大きく揺らします。そして勢いよくバスケットから少女を放り出しました。

 ドサッと少女が黒い街の入口へ放り出されました。これだけ乱暴に扱われても少女は意識を取り戻しません。

 黒いネズミはそのまま黒い街から離れていきました。





 真っ黒なローブに怪しい仮面をつけた二人の男が、診療台に寝かされた少女のそばに立っています。

 少女は灰色の布切れを一枚かけられているだけです。それはまるで質素なベッドに寝かされているように見えます。細く小さな体はまだ未成年であると予想できます。

 仮に仮面をつけていなかったとしても、寝ている少女のそばに大人の男が二人立っている光景は異様に見えるでしょう。

 仮面をつけた男二人が何か話し始めました。

「BEZT`3QODEX`EIYT」

「C4Q`。EzQEUI0DQYQ`_4U。J36+QAIFTY*EUT」

「XKS6LQ`。6+QAFDB`S0R>Q`*Q`」

 二人が何を喋っているのかわかりません。どうやら私たちにはわからない言葉を使っているようです。

 二人がこれから何をするのか見当もつきません。仮面で隠された顔にどのような表情が現れているのでしょうか。ただ一つわかることは、これからよくないことが起きるだろうという嫌な予感です。

 突然、少女が唸り声をあげながら手を動かし始めました。寝返りを打とうとしたのでしょうか、それとも寝ぼけているだけ?

 しかし、二人の男は一斉に診療台から凄い勢いで離れました。

 仮面の男たちは屈強とは言えずとも立派な成人男性です。まだ未成年であろう少女を怖がるにしては大げさでしょう。……まるでそこに寝ている少女が、とても危険な生物だと言っているように見えます。

 少女は「うぅ……」と声を漏らしましたが起き上がる様子はありません。それでも仮面の男たちは様子を伺います。

 数秒間の沈黙。少女はまた、すぅ……すぅ……と寝息を立て始めました。少女が寝ていることを確認した仮面の男たちは、安堵したようにゆっくりと診療台の近くに戻ってきました。

「JQ`EDGT`3>KT?」

「UO6G>J5IDB`S060OP94」

 相変わらず会話の意味は分かりません。

 すると今度は、男たちが診療台の下から黒いベルトを取り出しました。そして少女を診療台に固定してしまったのです。

 少女を拘束したことで今度こそ安心したのでしょうか。仮面の男たちは肩の力が少し抜けたように見えます。

 しかし非力な少女に対してかなり警戒した行動です。男たちがここまで警戒する少女は、一体何者なのでしょうか?

 部屋が暗くなりました。

 その先の光景を見ることはできませんでした。ただ少なくとも、暴力や酷い行いはなかったようです。なぜそう思うのかですって? 少女の悲鳴が聞こえてこなかったからです。






 あれから数時間後。私は再び少女を見つけることができました。

 しかし、少女を見つけた場所は何もない真っ黒な道のど真ん中です。数時間前と同じように、診療台に寝かされていた時と同じ格好で少女はうつぶせ状態で倒れていました。

 むくっと少女が起き上がりました。だるそうに頭をおさえながら辺りを見渡しています。その様子は、自分がどうしてここにいるかわからない、といった感じです。

 それにしても、少女が起きた場所はなんて不思議な場所なのでしょう。順番に説明しましょう。

 まず最初に、少女が立っている地面です。道という単語を聞いて思い浮かべるのは、灰色のコンクリートで作られた道路でしょう。車が通行する車道と人が行き交いする歩道で構成されているかと思います。しかし、少女が立っている道は何もありません。例えるなら歩道しかないという感じでしょう。コンクリートの道に特有な少し凸凹した質感もありません。綺麗で平らな道が続いています。

 二つ目に建物を説明しましょう。

 現在、少女の正面には道が続いています。その両脇には綺麗に建物が並んでいるのですが、この建物はすべて同じ形をしています。この建物は台形の面で構成された角錐台の形をしています。この建物も真っ黒で、しかも窓が見当たりません。なので、外見でこの建物が何なのか全く判別がつきません。

 ちなみに、道と建物以外に人工物は見当たりません。例えば夜道を照らすための街灯だったり、自然を取りれるために植えられた木だったり、そういう物が一切見当たらないのです。

 少女が空を見上げました。

 空は真っ白です。青い空、白い雲、まぶしい太陽……といった物も見当たりません。雨が降りそうな曇り空のような空です。全体的にぼんやりとした明るさが黒い街を照らしています。

 いつまでも立ち止まっていては何も変わりません。少女が歩き始めました。布切れをローブのように巻いて、その右手は胸元をギュッと掴んでいます。布切れは顔も隠しているため、少女がどのような顔をしているかこちらからは確認できません。

 素足である少女が進むと同時に、ペタペタという足音が聞こえてきます。とても小さな音ですが、そんな音ですら聞こえるほど黒い街は静かという事です。

 少女が目についた建物に近づいていきます。この建物は家なのでしょうか? それにしては生活感を全く感じません。

 この建物の扉はとても変わった形をしていますね。扉と言えば長方形の扉を思い浮かべるでしょう。ですが少女の目の前にある扉は……ローマ字のKにそっくりです。もしこの扉がオーダーメイドなら、この建物の主は相当変わった趣味をしていますね。こんな入りにくい扉を用意するなんて、まるで家から出る必要はないとでも言っているみたいではありませんか。

 少女が扉をノックしました。コンコンと二回。しばらく待っても返事はありません。少女はこの建物を家だと思っているのでしょうか。ですが、窓の一つもない建物がはたして家と呼べるのでしょうか?

 少女はけなげにノックを繰り返しました。コンコンとさっきと同じ感覚と強さで。

 すると、今度は返事がありました。

「誰だ? 何の用だ」

 男性の声です。成人男性の声でしょう。とても低くて威圧感のあり、あまりお話したくなるような雰囲気を感じません。どちらかというと尋ね人を厄介者扱いしているようです。

 しかし少女はいっこうに構わず何か言いました。……意外と根性がある性格みたいですね。

 少女が男性に何を話しかけたのかこちらから聞き取ることはできませんでした。少女の問に対して男性が返事を返します。

「……アンタ、名前は?」

 男は名前を尋ねました。何でもない普通の質問でしょう。名前を尋ねるときはまず自分から……とよく言いますが、そのようなことをここで返せば、男性は口をきいてくれなくなるかもしれません。

 ……あれ? 少女が黙ってしまいました。自分の名前を答えるなんて簡単でしょう。

 困っている? もしかして少女は名前がわからないのでしょうか?

 すると男性の態度が一変しました。

「フン、心無め。さっさと消えろ!」

 最初から友好的な態度ではなかったにしろ、突然の怒鳴り声に少女の体はビクッと震えます。

 こんな子供に怒鳴るなんて可哀そうです。少女が委縮するのも無理はありません。

 すぐに返事をしなければ……という意思が働いたのでしょう。少女が必死に何か言いました。しかし、それに対する返事は返ってきません。

 ……男性が無視をしています。

 めげずに少女が再び声を掛けました。でも返事は返ってきません。

 なんてひどい男でしょう。幼い少女が名前を答えられなかっただけで消えろというのです。大人がすることとは思えません。

 少女は諦めたのか、扉から離れて黒い道をトボトボと歩き始めました。俯いて寂しそうにしています。

 それでも少女は諦めないようです。今度はHのような形をした扉の前まで来ました。そして先ほどと同じようにノックしました。

「誰かしら?」

 今度はすぐに返事が返ってきました。女性の声です。

 少女が何か言いました。相変わらず何を言っているのか聞こえません。

「それは大変ね。でもごめんなさい。私にはあなたを助けることができないわ」

 どうして? たぶん、そんな感じの事を少女は言ったんだと思います。

「今更そんな事聞かれても……。わかるでしょ?」

 意味が分かりません。おそらく、それは少女も同じなのでしょう。

「ねえあなた。……名前を教えてちょうだい」

 またです。この女性も名前を聞いてきました。

 言葉を返すことができません。何か言おうとしていますが、何も言えないのでしょう。

「心無ね……。ならあなたと話すことはないわ。どっかいって」

 この女性も、先ほどの男性と同じです。名前を答えられないだけで態度が一変しました。

 ですが少女も言われっぱなしでは気が済まないのでしょう。すぐに何か訴えます。しかし──

「話すことはないって言ってるでしょ。どっかいきなさい」

 冷たい言葉を容赦なく浴びせられます。理不尽な現実に少女は少し怒っているようにも見えます。

 構わず何か言いますが、また返事が返ってこなくなりました。

 少女はノックして何か言います。とても怒っています。もちろん返事は返ってきません。再びノックをしようとして……その手が止まりました。

 どうやら諦めたようです。ゆっくりと扉を離れ、再び黒い道を歩き始めます。

 この少女は自分の名前がわからないようです。おそらくですが、この少女がわからないのは名前だけではないのでしょうか? 例えば家族の事とか、住所とか、自分の事について何一つ記憶が思い出せないのかもしれません。

 そんな状況で一人ぼっち、誰も助けてくれる人はいません。助けを求めても、名前がわからないだけで相手にしてくれません。彼女が……心無だからでしょうか。

 しばらく歩いて少女が座り込みました。少女はこれからどうするのでしょうか?

 そう思っていた矢先、建物の影から一人の『女の子』がひょこっと現れました。『女の子』は少女と同じ身なりをしています。

 その『女の子』が恐る恐る、抜き足……差し足で少女に近づいていきます。

 トントン……と、『女の子』が少女の肩を叩いたときです。少女は悲鳴を上げながら飛び上がります。あまりにも少女がびっくりしたせいで『女の子』も同じように飛び上がりました。いつの間にか背後にいた猫に人が驚き、人の驚く様子に猫が驚く。そんな光景が思い浮かびます。

 数秒間、二人はお互いを見つめ合っていました。ハッと先に我に返ったのは『女の子』のようです。まだ呆然としている少女に『女の子』が話しかけました。

「急にごめんなさい。誰かに会うのは久々で……」

 そういう『女の子』に敵意はないようです。少女は「こちらこそごめんなさい」とでも言うように手を振って見せます。

「あなたは……心無ですか?」

 少女はその単語を聞くと体がこわばるようです。先程まで心無と言われて酷い態度を取られたのですから当然です。ですが先に「心無ですか?」と聞かれるのは初めてです。

 それに「女の子」は少女に酷いことをするつもりはないように思えます。少女も『女の子』の雰囲気から敵意はないと感じたのでしょう。少し安心して『女の子』の問いかけに答えました。

 少女の返答を聞いて『女の子』は、なるほど……と頷きました。

「やっぱりね。実は私もさっきまで心無だったの」

 『女の子』があははと気楽に笑います。同じ境遇の人をやっと見つけられて安心したのでしょうか。

 確かに、この黒い街は何もありません。不気味な雰囲気なのはどこへ行っても変わらないでしょう。それも女の子がずっと一人なら心細いはずです。

 この『女の子』が少女を見つけて嬉しそうにするのは納得できます。

 少女が『女の子』に何か尋ねました。

「私の名前? 私はクレアって言うの。といっても、さっき命名されたんだけどね。……この先に大きな家があるの。あんまりここの家と変わらないけど、その家におばあさんがいて、私に名前をくれたの」

 『女の子』の名前はクレアというそうです。しかし名付けられたと言う事は、クレアも自分の本当の名前を知らないのでしょうか。それに先ほどクレアは「さっきまで心無だった」と言っていました。つまりクレアも少女と同じように記憶がないのでしょうか。

 疑問に対する答えはありません。こちらが考え事をしている間、クレアは構わず会話を続けていました。

「ここの人たち、私が心無ってだけで酷い扱いするじゃない。でも私には名前がある。もう心無じゃないのよ」

 名前がある人は心無ではないのでしょう。少女の扱いやクレアの証言から、それは事実だとわかります。

 少女も何かいいました。

「うん。私がもともと誰だったかなんてもうわからないよ。だって新しい名前を与えられたんだもの。昔の自分は……もう他人よ」

 昔の自分が他人。その言葉を聞いた少女は黙ってしまいました。何か思うところがあるのでしょう。しかしクレアは吹っ切れたように爽やかな表情を見せました。それがまた無理をしているように見えなくもないですが……。

 少し気まずい沈黙を作ってしまったクレアは、急に立ち上がりました。

「そうだ! 私、自分の家がどこにあるかわかるのよ! よかったらあなたも一緒に来る?」

 その提案に少女は頷きました。断る理由はないでしょう。

 クレアは心から嬉しそうに歩いきます。その後ろを少女がついていきます。こうして見ると、まるで二人は姉妹のようですね。少し和やかな気分にさせてくれます。

 ……それにしても、少女たちの通ってきた道には本当に何もありません。いつも変わらぬ光景が続いているだけです。

 ここは本当に街と言っていいのでしょうか? 確かに家に人はいるようですが、彼らが街を出歩く姿はありません。もし生活をするなら家の中だけで完結するはずがないでしょう。

 家の外に出なくても生活することができる……と言う事でしょうか。 

 そんな不気味な雰囲気の中、少女とクレアはとても楽しそうです。クレアの話声が聞こえてきます。

「──それでね、言ってやったの。心無をいじめるアンタのほうが心無だって。そしたら相手が黙っちゃってさ」

 クスクスと笑い声が聞こえてきます。クレアは勇敢な女の子のようです。きっと彼女はイジメられても正面から立ち向かうような子なのでしょう。

 他の人が自分をどう思っているか。周囲の人々を気遣う心というのは、自分が悪い人間に思われたくないという気持ちから来ていると思います。独りぼっちは嫌だから、強い人間に依存することで寂しさを紛らわすのでしょう。対して、「自分は自分」で「他人は他人だ」と割り切っている人は、精神がとても強いように見えます。自立しているというのでしょうか。そういう人は集団の中でも目立ってしまいます。快く思わない人も多いでしょう。だから衝突も生まれやすいです。

 クレアは、きっと自立している人間の一人なのでしょう。でも……彼女は心無から変わったことに喜んでいました。

 やがてクレアが立ち止まり、それにならって少女も立ち止まりました。彼女たちの目の前にある家はCの形をした扉があります。ここがクレアの家と言う事でしょうか。

「ここが私の家よ。ちょっと待ってね」

 クレアが扉をノックしました。自分の家だというのになぜノックをする必要があるのでしょう。

 と思ったら、扉の向こうから声が聞こえてきました。

「……誰だよ」

 男性の声です。

 ……なぜ男性の声が聞こえてきたのでしょう。だって、ここはクレアの家でしょう。同居人ということでしょうか?

「久しぶりね。また来たわよ」

「だから誰だってんだよ。お前なんか知らねーよ」

「アンタは覚えてないでしょうけど、私ははっきり覚えるわよ。私が心無だからってさんざん酷いこと言ったよね? でも、今の私は心無じゃないの。もう人間になったのよ! だからさっさと扉を開けなさい。ここは私の家になるの」

「…………嘘だ。そんなの信じねぇぞ! もしお前が心無じゃないとしても、なんで俺の家に来るんだ! 頼むから関わらないでくれよ!」

 男性は怯えています。クレアが心無じゃないからでしょうか。なぜ怯える必要があるのかわかりませんが……。

「私の名前はクレアよ。だからこの家が私のものになったの」

 クレアという名前を聞いて男性が叫びました。

「クソッ! あのばばあふざけやがって! なんでよりにもよって『クレア』なんて名前をつけたんだ!」

 突然、家の扉がゆっくりと開きました。男性が開けたとは考えにくいでしょう。

 クレアは扉をガッと掴むと強引に家の中へ入っていきました。先程から置いてけぼりの少女は、現状についていけずアタフタするだけになっています。クレアは少女の方を見向きもしません。

「やめろ! 俺はまだ──」

 ガタゴトガタゴト……と、家の中で大きな物音が続きます。扉はすでにしまっているため、少女が家の中に入って様子を確認することはできなさそうです。

 中でクレアと男性が争っているようです。

 しばらく物音が続きましたが静かになりました。それでも少女はまだ話しかけられずにいます。中でどのような事が起こったのかわかりませんが、嫌な想像しかできません。

 ふと、少女が足元を見て驚きました。扉の隙間から赤い液体が広がってきたからです。

 少女が後ずさります。当然でしょう。先程のやり取りや家の中から聞こえた争うような物音。そして赤い液体。もう……最悪の事態しか想像できません。

 意を決したのか、少女が扉をノックしました。しかし、返ってきた返事は……とても静かです。

「…………ああ、そういう事なのね」

 聞こえてきたのはクレアの声です。一人で何か納得しているようです。

 少女はもう一度ノックしました。

「ふ……ふふふ。なんだ、だから奴らは人間じゃなかったんだ……。あはは、あはははは」

 少女は……何も答えることができません。

「ああ……ごめんね。あなたはまだ自分の名前を知らないんでしょ? でもごめんなさい。名前を手に入れようとするのはやめた方がいいよ。できれば、そこら辺で野垂死にしてくれた方がありがたいわ。ええそうよ、ぜひそうして」

 クレアの態度が一変しました。

 少女が何か言います。しかし──

「いいから死んでよ。迷惑なの。……あの男がどうして私に酷いことを言ったのか、今ならよくわかるわ」

 クレアの態度に変化はありません。一体にクレアにどのような心境の変化があったのか。そしてもともと家にいた男がどうなったのか。名前を貰うという行為にどのような意味があるのか。

 一つだけわかることは、これ以上クレアに話しかけても、今までと同じようにひどい態度を取られるだけ……という事でしょう。

 少女はそっとクレアの家から離れていきました。でも、まだクレアの声が聞こえてきます。

「……やめて。やめてよっ! それは昔の私の記憶でしょ! 私は人間なの! もう人間なのよ!!」

 少女は振り返りません。振り返ることができません。家に入った瞬間豹変したクレアを、もう思い出したくないのでしょう。

 家の中からドンドンと壁を叩く音が聞こえます。

「出してよ! こんなことになるなんて思わなかったの! どうして私はこんな場所にいるのよ!!」

 たまらず少女は走り出しました。

 クレアの叫び声を聞くたびに、心臓が冷たい鎖で締め付けられるようです。これ以上……クレアの声を聞いていられないのでしょう。

 全速力でクレアから離れた少女でしたが、その足取りはやがて小さくなっていきました。そしてしゃがみ込んでしまいました。

 わたしが一体何をしたというのか。そうとでも言うように少女を空を仰ぎます。

 少女の身に起こる不可解な出来事の数々は、どれも少女を暖かく迎えれてくれるものではありません。理不尽の連続に少女の心と体は疲れ切ってしまいました。

 少女はその場で寝っ転がりました。赤子のように両足を抱いて、うずくまるようにして目をつぶります

 もう……どうにでもなれ。

 少女の寝姿から、私はそんな言葉を連想しました。






 あれから数十分が経ちました。

 少女はまだ寝ています。

 そもそもここには人なんていませんし、ましてや人以外の何かがさまよっているわけでもないのですから、たとえ少女が道端で寝ても心配することはありません。

 と……思っていましたが、何か物音がします。

 それはズン……ズンという音で、まるで足音のようです。その音がだんだん少女のいる場所へ近づいてきます。ですが少女が起きる様子はありません。

 ズン……ズン……。音が止まりました。そして足音の主が現れます。

 それは怪物でした。

 黒い体毛。細長い鼻。いくつもある目。開いた口から除くのは小さな牙の列です。クンクンと鼻を鳴らしながら寝ている少女に近づいていきます。

 とても大きいです。二本の太い足で大きな体を支えています。上半身は猫背のように前かがみで、太い腕が地面すれすれにブラブラと伸びています。羊のような顔に狼男のような体がついている……という表現が正しいでしょう。

 怪物は寝ている少女の側で犬のように鼻を鳴らしています。

 異変に気付いた少女のまぶたが開きます。そして自身の耳元で何かが匂いを嗅いでいるとわかると、バッと起き上がりました。

 ──瞬間、少女が感じたのは恐怖だったでしょう。私だって目の前におぞましい怪物がいれば怖いと感じます。

 考えるより先に、少女が逃げ出しました。

 蛇に睨まれた蛙のごとく、恐怖が体を縛り付けることもあるでしょう。しかし少女の場合は恐怖で体が動いたのです。

 少女が駆け出したと同時に怪物が追いかけてくる音が聞こえます。捕まったらどうなってしまうのか想像したくありません。

 少女は目の前の道を無我夢中で走ります。しかし直線を逃げては怪物にすぐ追い付かれてしまうでしょう。だから少女はどんどん道を曲がって怪物から逃れるために努力しています。右、左、右、左……と、曲がり角を積極的に曲がることで少しでも逃げ切れる確率を増やそうとします。

 助けを求めても誰も助けてくれないことを、少女は理解しています。だから叫ばずただただひたすら逃げました。後ろを振り返ることなく、怪物が追ってこなくなるまで全力でです。

 変わらず怪物は少女を追いかけているでしょう。ですが、だんだんとその足取りが遅くなり、少女と怪物の間に距離が出来始めます。これはチャンスです。少女がこのまま逃げ続ければ、怪物は追ってこなくなるかもしれません。あるいは、あとから追いかけようと思っているのかもしれません。よく鼻を鳴らしているということは、怪物は犬のように匂いに敏感なのでしょう。なら、少女の残り香を追跡することは容易いでしょう。

 だからといって少女は諦めません。疲れて動けなくなるまで逃げました。逃げて逃げて逃げ続けました。

 走り続けたせいで足がもつれ、少女が派手に転びました。少女はすぐに起き上がろうとして、辺りを見渡して気づきます。すでに怪物が追いかけていないのです。耳を澄ませてもズンズンという足音は聞こえません。

 ほっとした少女は脱力しました。もう動けない……という感じで、胸で大きく呼吸します。まだ怪物追ってこないという確信はありませんが、休憩しないと逃げる体力すらないようです。

 大きく深呼吸した少女は、気を取り直して起き上がりました。これだけ時間が空いても追い付いてこないということは、怪物は少女を見失ったのかもしれません。

 安堵した少女の耳に、新しい音が聞こえてきました。それは……何かの鳴き声です。

 鳴き声と言っても犬や猫の鳴き声ではなく、まるで人間が泣いているときのような、そんな声がどこからか聞こえてきました。少女は気になって、その音の方向へ歩き始めます。

 そして声の主を突き止めました。聞こえてきた鳴き声は、先ほど少女を追いかけてきた怪物だったのです。怪物は人間のように座り込んで涙を流していました。

 身の毛もよだつ恐ろしい姿の怪物が、幼子のようにエンエンと泣いているのです。その姿を見た少女は戸惑いました。

 もしかしたら、自分が怪物から逃げたせいで傷つけてしまったのかもしれない。優しい心を持つ少女はそう思ったのです。これが怪物の演技で、心配して近づいてきた少女を丸のみしてしまおう……とは、一切考えないのです。

 少女は抜き足、差し足で怪物へ近づき、小声で声を掛けました。しかし怪物は大泣きしていて気づいていません。

 そこで少女はさらに怪物に近づきます。そして少女は先ほどよりも大きな声で怪物に声をかけました。

 怪物が叫び声をあげながら大きく飛び上がりました。突然耳元で聞こえた少女の声に驚いたのでしょう。ものすごい形相で少女の顔を見たものですから、少女も驚いてすぐに建物の影に隠れました。しかし、怪物から目を離しません。

 どこかで見たことのある光景です。あの時の少女は動くことができませんでしたが、今回は違うようです。

 少女はゆっくりと建物から出てきました。怪物が少女に襲い掛かる様子はありません。それを見て怪物に敵意がないと判断したのでしょうか、少女が怪物の前に全身を現しました。

 怪物は困惑しているように見えます。どうしていいかわからないといった風です。

 驚いたことに、少女が怪物に小さく手を振りました。こんな得体の知れないものに向かって、なぜそんな行動ができるのか私は不思議でなりません。

 さらに驚いたことに、怪物はそれを見て少女の真似をしたのです。なんだか……少しほほえましい光景です。

 警戒心が薄らいだ少女は怪物のそばへ行きました。そして怪物に何か話しかけました。少女の言葉を聞いた怪物は──

「ダレモ……ウケイレテ……クレナイ」

 と、答えたのです。喋ることができるとは思いませんでした。しかし少女は構わず続けて質問をしました。その質問に怪物はこう答えました。

「ワタシ……ハ、カイブツダカラ」

 怪物だから誰にも受け入れられない。

 その言葉に少女は共感したようです。それもそのはず、この黒い街に来てから少女は心無と言われひどい態度を取られ続けたのですから。

 少女は見た目だけで怪物のことを判断してしまいました。その行いは、名前を言えなかっただけで心無と言って無視してくるここの住民と何が違うのでしょうか。そのことに気付いた少女は反省しました。

 そして罪滅ぼしの意味を込めて、少女は怪物の頭を撫でました。その行いに怪物は目を丸くしました。はじめは怪物から逃げた少女が、まさか怪物の頭をなでるとは思わなかったのでしょう。

「オマエ……イイヤツ」

 怪物は立ち上がると、ついてくるように少女に言いました。

「アンナイスル。ウケイレテクレタ……オレイ」

 案内すると言った怪物は有無を言わさず歩き始めました。考える暇がなかった少女は、言われるがまま怪物のあとに続きます。怪物がどこへ案内する気なのか、そしてお礼とはなんなのか。少女はとても気になりました。

 怪物は迷わず黒い道を進みます。同じ光景が続く道はまるで迷宮のようで、自分自身の現在位置を見失ってしまいそうです。ですが今だけは、怪物が頼もしいとも感じるのです。非力な少女が独りぼっちでいるより、味方が一人でもいれば心に余裕もできるということです。

「ニンゲンニナレバ……ワタシハ……」

 歩きながら怪物がしゃべります。

「アナタヲ……Q^`>BST`……デキナイ」

 少女が首をかしげます。途中、聞き取れない言葉がありました。ですが怪物は構わず話続けます。

「……ダカラ、アナタニ……UJ5ヲ」

 そういって怪物が少女を連れてきた場所は、大きな黒い建物でした。

 今まで見てきた家はすべて台形の面で構成された角錐台でしたが、この建物は長方形の面で構成された直方体です。横に長く、高さはそれほどでもありません。

 それに今までの家は不思議な形をした扉が必ずありました。ですがこの建物に扉はありません。そのため誰でも自由に出入りできるようになっています。目的はわかりませんが、公共施設でしょうか?

 怪物が振り返り、少女を見ました。

「ココ……」

 少女の顔が建物と怪物を行き来します。一緒に行かないの? と言っているようです。

「ヒトリ……デ、イケ。ワタシハ……ハイレナイ」

 一人で行けと怪物は言います。……どうして入れないのかわかりませんが、少女は怪物の言葉に従うことにしました。

 建物に近づく少女を見送る怪物は、どこか悲しそうな瞳です。それが何を意味するか……少女も、もちろん私もわかりません。

 少女が建物の中へと消えていきました。






 建物の中は真っ暗です。そのせいで少女の姿を確認することができません。かろうじて聞こえてくるペタ……ペタ……という足音が、少女がそこにいると実感することのできる唯一の方法です。

 外は空の光があったから暗くはありませんでした。しかし、建物の中は明かりが一つもなく、空の光も入ってこないため、完全な暗闇が支配しているのです。

 少女が何を頼りに動いているのかわかりませんが、とりあえず前に進んでいるようです。

 うっという声と共に物音がしました。おそらく、少女が壁に当たった音でしょう。行き止まりでしょうか……? 相変わらず周りを見渡しても何も見えないため、少女はどこに向かえばいいのか全くわかりません。

 困った少女はそれでも歩みを止めませんでした。必ずどこかにたどり着く。そう願いながら建物の探索を続行します。

 ふと気づくと、暗闇の中で一つだけ小さな光が見えました。少女は光に誘われるようにそこへ手を伸ばします。すると手が何か突起物に触れました。それはドアノブのようです。

 少女は躊躇することなくドアノブをひねりました。キィィという音と同時に扉が開きます。そして、その先にまた一つの光を見つけました。

 今度は蝋燭の火です。深淵にともる小さな灯に少女の視線が釘付けになります。そして火のそばにはおばあさんがいます。

 椅子に座り、ひじ掛けに乗る手は枯れた小枝のように細く、火に照らされた顔には彫刻のように深いしわが刻まれています。

 よく見ると、おばあさんの服装は少女の服装と似ている気がします……。

 少女はおばあさんの近くへ行きました。すると、何を聞かれたわけでもないのにおばあさんが話し始めました。

「どうして怪物は人間になりたがるんだろうねぇ」

 少女にはその問の意味がわかりません。しかし、おばあさんは気にせず話を続けます。

「人間の本質は何だと思う? それは助け合うことさ。でも怪物は助け合わないのさ。自分さえよければいい。そんなことを考えているから、怪物は一生怪物のままなんだよ。でも、怪物だって誰かを助けたいと思うことがある。その思いが大きくなった時、怪物は人間になりたいと願うのさ」

 突然のことに少女は置いてけぼりです。おばあさんが何を言いたいのかさっぱりなのでしょう。

「お前さんが来る前に、幾度もここへ心無がやってきたさ。お前さんも人間になりたいんだね?」

 人間になりたいんだね? という言葉で、少女はこのおばあさんが何者か検討がつきました。そう、クレアが話してくれた、名前をくれるおばあさんです。クレアは心無から人間になったと何度も言っていました。おそらく、このおばあさんが『女の子』にクレアという名前を与えたのでしょう。

 少女は考えました。

 いま名前をもらえば少女は人間になることができるでしょう。しかし、人間になったクレアがどのような行動をとったか、少女は忘れたわけではありません。

 人間になることが本当に正しいのでしょうか。たとえ人間になったとして、自分の家が与えられたとして、果たしてそれでいいのでしょうか。

 少女はここにたどり着くまでに幾度となく虐げられました。心無という烙印は彼女をさんざん苦しめました。……でも、人間になったからといって心無を虐げてよいのでしょうか?

 怪物を殺すのはいつだって人間です。ですが、非力な怪物ですら人間は殺すでしょう。そして高らかにこう言うのです。怪物を打ち取ったと。

 少女は思い出します。この建物に案内してくれた一匹の怪物のことを。受け入れてくれないと泣いていた非力な怪物の姿を。少女が人間になれば、怪物はどうなるのでしょうか?

 少女は……首を振りました。

 少し驚いたようにおばあさんが問いかけます。

「……人間になりたくないのかい? お前さんは心無だ。これからもお前を受け入れる人間は決して現れないよ」

 それでも……と、少女は首を振りました。

 少女の決意は固いようです。

「……そうかい。なら出ていきな。心無と話すことはないよ」

 ふっ……と、ろうそくの火が消えました。そして、確かにそこにいたおばあさんの気配もなくなりました。

 少女が後ろを振り返ると、光が差し込むのが見えます。それは外から建物の中へと入ってくる光であり、建物の入口です。

 躊躇いもなく少女は外へと出ていきました。

 建物から出てきた少女を見て怪物が驚きました。

「ド……ドウシテ?」

 怪物は動揺を隠せないようです。

 少女は怪物の手を握りました。怪物はなぜ少女が手を握ってきたのか理解できないようです。

「ワタシハ……カイブツ。イツカアナタヲQ~`>……コトニ──」

 少女がその先を遮りました。そして怪物に向かって微笑みました。

 誰かが怪物に手を差し伸べなければならない。それは、お互いを助けることに繋がります。名前などなくとも、少女は立派な人間として生きるのです。

 怪物は大粒の涙を流しました。

「アリガトウ……。アリガトウ……。ソシテ……B`/YUXE」

 聖女のような少女の心に感謝しながら、怪物は後悔するように涙を流し続けました。

 少女は、怪物が泣き止むまでそばを離れませんでした。

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