サモン・フェアリー・インフェクション

織間リオ

第1話 始まりのとき

 気を一点に集める。少年――狭霧薙斗さぎり・なぎとは、ゆったりと目を開く。その視界の中には、障害物のないバスケットコートの跡地。何年も前に使われなくなったゴールにはすでにネットはなく、支柱も錆びている。だが、彼にとってそれはさして重要なことではない。今集中するべきは目の前から飛び来る電撃の対処である。

 電撃を放つのは一人の少女。黄と白を基調とした衣服に身を包み、全身から可視化できる雷を放出している。光り輝くのではと錯覚するほどの金髪と、文字通り輝かせた両目は、真っすぐに薙斗を見据えている。

 一点――右手に集めた気を、魔力として形成する。魔力はレイピアのような細身の姿を取る。電撃の軌道を確認する。左右から一条ずつ。まずは二時方向から――。

「ふっ!!」

薙斗は電撃の到達前に剣を振るう。電撃の軌道は薙斗の頭部へと真っすぐに飛び込んでくる。その電撃と頭部との間を遮るように逆袈裟気味に振るったその剣が、二か所の中点に到達したところでさらに気を――魔力を送り込む。その一瞬に送り込まれた魔力が、空中に切り傷を残す。間髪入れずに、その傷口が膨張し、魔力盾を形成する。電撃は魔力の盾に衝突すると、魔力相殺によって弾ける。振り上げた剣を同じ軌道で振り下ろしながら、身体を十時方向へと捻らせる。時間差で迫る電撃を、魔力の盾で撃ち落とす。盾と電撃が弾けた先、金髪の少女が両手から雷を煌かせている。少女の突き出す両手から、先ほどの倍以上の威力とサイズを持った電撃が直進してくる。薙斗は後退しながら剣を三度振りぬく。三重の盾が形成される。対して電撃は盾を突き破りながら更に直進していく。三つ目の盾が破られると同時に、駄目押しの一振りで盾を作り出す。四つ目の盾にして、ついに電撃は霧散し、両者の間に一時の静寂が訪れる。静寂を大きく息を吐いて破った薙斗が、言葉を紡ぐ。

「今日の訓練はここまでだ。ありがとな、レキナ」

薙斗は少しばかり笑みを浮かべながら感謝を伝えたが、十数分この応酬――というには一方的なものではあるが――を続けた身体は、肉体と魔力の疲労を合わせて少なからず重くなっていた。こめかみからは汗がいくつも流れ、全身は春先にも関わらず火照っている。

「うん。お疲れ様、マスター!」

対する少女――レキナは、にっこりと笑ってそれに応えた。


 人間を始め、動物が体内に宿している魔力。数十年前にその存在を確立した世界は、魔力と、その利用価値について研究を始めた。今まで全く理解の外にあった分野の研究には長い年月を要したが、少しずつ、人間は魔力というものを理解していく。

 その魔力の研究の中で、一つの研究成果が生まれる。

 人の魔力と想像から創造される未知の魔力生命体、魔より生まれし精――フェアリー。

 魔力を具現化する臨床実験の中でその存在が明らかになったフェアリー達は、人間からの魔力の供給によって姿を現す。フェアリーと契約し、使役することのできる「適合者」となれる条件を選定していき、フェアリーとの遭遇から十数年後に、一つの試験が確立する。

 フェアリー召喚士適合者選定試験。試験に合格できるだけの魔力と才能と想像力を持った適合者は年々その数を増やしていく。適合者は各々が、自分の生活の助力としたり、タレント界に利用したり、人によっては自身の魔力制御の鍛錬を行う相手とした者もいる。薙斗もまた、鍛錬の相手としてレキナを選んだ試験適合者――召喚士の一人であった。


 鍛錬の場所としていたバスケコート跡地は、中心街からは少し離れた森の中に位置していた。十メートル近くまでその幹を伸ばした木々の中にわざわざ入っていくる者はそうはいない。故に、薙斗はここを鍛錬の場所に選んでいた。森を抜けると、頭上から降り注ぐ春の日差しが視界を覆う。薙斗はその眩しさに目を細め、太陽と自身の目との間に左手を翳す。ふと、その左手の甲に、青く色づいた石が埋め込まれているのが目に入った。召喚士の証、召喚デバイス「サイファー」。召喚士とフェアリーから伸びる魔力の線を繋ぎ止める結び目。召喚士はこのサイファーに魔力を送り込み、それを通じてフェアリーへの魔力供給を行う。

(やべ、忘れてた……)

薙斗は懐から取り出した指ぬき型の黒い手袋を両手にはめる。埋め込まれていることにより、突出の少ないサイファーは、手袋越しに大きく膨らんで違和感が出ないようにはなっている。数回、両手を握る、開くという動作を繰り返す。活動に問題がないことを確かめながら、薙斗はゆっくりと街の方へと足を進めていく。

「ねぇねぇ、マスター」

レキナが歩き出した薙斗の視界に腰を曲げながらひょい、と入ってくる。

「レキナ……街に出る。マスターはやめろ」

「おっといけない。いやごめんねー。私結構鈍感なもんでさー!」

少しきつく言ってしまったかなと思ったが、対してレキナは苦笑しながら頭を掻いた。彼女のこんな快活としたところには、精神的にとても助けられている。レキナが笑っていられるならば、自分もまだ、なんとかやっていけるという論理的根拠のない自信に包まれる。

「いや、俺も悪かった……少しきつく言ってしまって」

「あはは、じゃあお互い様、だね!」

苦笑が満面の笑みに変わったのを見て、薙斗はまた救われた。ふっ、と笑みを零しながら、連れ立って街へと歩を進めていった。


 街の中は家族連れがやたらと目立った。近くにこの辺りでは最大規模のショッピングモールがあることにも起因しているだろうが、理由はもう一つある。

「ああ、今日は日曜日か……」

母親に手を引かれながら、あるいは父親の手を引きながらはしゃぐ子どもたちの声とすれ違いながら、そんなことを思い出した。

「薙斗、たまには学校行ったら? 曜日忘れるくらい行かないって……シュッセキニッスウ? 足りるの?」

呼び方を変えてレキナが聞いてくる。人の往来の多いところで不登校気味なことを言われるのはあまりいい気分ではなかったのだが、レキナとしては一分の悪気もない、純粋な心配からくる言葉であるが故に、強く反論ができない。

「まぁ去年はなんとかレポート提出で代用できたけど……今年は卒業だからなぁ……変に難癖つけられなきゃいいけど……」

薙斗が不登校気味なのはここ二、三年に始まったことではない。昔から、魔力やフェアリーに関しての興味が深かった薙斗は、その研究の歴史や成果を綴った映像や論文を読み漁り、独自に研究を始めていた。だが、十年前後の時間をかけたところで、過去の研究を理解することで精一杯で、彼自身の研究成果と呼べるものはない。研究という名目で、名前だけ学校に籍を置き、ほとんど登校することのない薙斗は、休日、平日を問わず、自宅に籠るか、今日のように魔力制御の鍛錬のために人気のない場所へと足を進めるかのどちらかだった。

「まぁ、今の状況を考えれば、学校に行って面倒事を増やすのは得策じゃないかもだしねぇ」

他人事のように――というか彼女にとってはほぼ他人事なのだが――そう受け答えしながら、レキナは軽い足取りでショッピングモールを横目に歩いていく。鼻歌まじりに少し先を歩いていたその足が、ふと、止まる。その視線は、ショッピングモールの外からも鑑賞できるよう設置された展示用のテレビモニターに釘付けになっていた。レキナに追いついた薙斗も、ふとその映像に目をやった。テレビからは音質の良さも売りに出したいのだろう、音声もしっかりと聞こえてきていた。

『――昨夜、召喚士によるものと思われる銀行強盗が発生しました。銀行強盗が行われたのは今月に入って三件目となり、警察は、監視カメラ等から捜査を続けていますが、犯人は未だ見つかっておらず――』

淡々と読み上げるキャスターの言葉に、薙斗は目を伏せた。

 人類の新たな可能性の象徴ともいえるフェアリーとの遭遇。それを生活の中に取り入れるべく行われていたフェアリー召喚士適合者選定試験は、今はもう行われていない。一年前――狭霧薙斗という最後の召喚士を生み出した、それ以降には、一度も。力を持った人間は、どうしたって己の欲望に忠実になってしまうものなのだろう、と薙斗は時々思う。魔力だけならともかく、新たな生命と共に強大な力を得た一部の人間は、それを犯罪に利用するようになった。そのころはまだ召喚士試験は行われていたが、一年前――薙斗が召喚士として認められた直後に起きた召喚士達による集団テロリズム事件によって、世間は一気に反召喚士の立場を取るようになっていった。薙斗が手袋をしているのも、左手のサイファーを見られて余計な騒ぎを起こされることがないようにしたいからだった。そういった対策を取っている召喚士は薙斗に限ったことではない。ほとんどの召喚士は、自らの身分を隠して生活せざるを得なくなってしまった。

「……レキナ、行くぞ」

未だ視線を離せないレキナの左肩をぽん、と叩きながら薙斗は再び歩き出す。どんな感想を抱いたところで、これが今の世論であり、今の召喚士の立場なのだ。この流れに対して逆らうことそれそのものは許されたとしても、その行動が評価されることは微塵にも期待できないだろう。最悪、新たなテロ組織だと言われる可能性すらあるだろう。だから隠れる。だから紛れる。そうでもしないと、今の世界は生きにくい。

「召喚士っていうのは、ああいう奴らなんだっていうのが、大半の人間の考えていることだ。一度嫌なところが見えたら、もういいところなんて見えないもんだ」

つくづく、自分もタイミングが悪かったと、薙斗は思う。テロが起きなければ、あるいは、それが起きるのがもっと後であったならば。多少なりとも、生活が豊かになったのかもしれない。もっとも、召喚士になって間もなくそういう境遇に立たされた薙斗にとっては、生活の優劣は憶測でしかつけようがないのだが。

「まぁ、うん……そう、だよね。前向きにいかなきゃね!!」

たとえ虚勢だったとしても彼女のこの性格は大いに見習うべきところではある。この前向きさ、ポジティブシンキングの体現は、薙斗には真似しきれない。

「――マスター」

傍にいた薙斗だけが、辛うじて聞き取れた言葉。薙斗はその言葉に足を止めた。召喚士と気づかれることを恐れて、街中ではマスター呼びをさせないようにしていたが、今、それを咎めることはなかった。彼女の声音が、「何かが起こっている」と感じさせるに十分なものだった。

「あの二人……」

レキナがまたしても小さく呟く。少し小太りの男と、黒基調の衣服に身を包んだ女。レキナが感じ取ったのは、黒衣服の女の方だ。

「……フェアリーか」

「……うん。あの子多分、さっきの銀行強盗の犯人」

レキナがそう考えるのは、黒服のフェアリーから漏れ出す魔力の感覚というものらしい。フェアリーは、他のフェアリーから放出する魔力から、そのフェアリーの雰囲気や、辿ってきた記憶の極一部を感じることができる。そして、フェアリーの魔力を構成するのはマスターたる召喚士の魔力。召喚士の記憶の一部もまた、フェアリーから溢れる魔力の一つということらしい。相手の召喚士やフェアリーがこちらに気づいていないのは、レキナの魔力を、黒服のフェアリーが感じ取っていないからだろう。魔力は人間のうちに存在しながら、大気を流れていくもの。今この時は、風向きというものに助けられたらしい。

「追いかける?」

相手はおそらく、三度に渡って周囲に悟られることなく盗みを成功させた相手。場合によっては厄介な技を会得している可能性がある。戦闘になる可能性が否定できない以上、下手に関わるのは、よっぽどに強力なフェアリーを従えた正義感の塊の人間か、戦いのみを望む血の気の多い輩か、あるいはただの馬鹿だけだろう。

「――もちろん、追いかけるさ」

薙斗には悪人を懲らしめたいという正義感はない。特に好戦的というわけでもない。彼はただ、自身の研究の大部分を占めているフェアリーへの興味というただ一つの衝動に駆られて、それに飛び込んでいく大馬鹿者なのだ。

「安心しろ、何かあれば、俺は全力でお前を守る」

「私も、全力で薙斗を守るよ!」

互いの互いへの信頼は、二人の間に自然と笑顔という形となって現れる。黒服のフェアリーと、そのマスターと思われる二人組は、狭い路地へと進んでいっている。路地に消えた二人の後を追いかけ、人目と喧騒が徐々に遠くなっていく。姿を見られないように、足音を最小限に。日の光がほとんど届かない建物の裏手で立ち止まった二人組が、ようやく口を開いた。

「しかしまあマスターもうまいこと回せるもんだねぇ。その手腕、私にも欲しいもんだよ」

「お前あってこその商売だ。得したいやつに得な話を持っていけば、こちらもおのずと儲けられる――昨日の報酬をもって、すぐに奴らもにこやか顔で来るだろうさ」

その会話の真意までは今この段階で汲み取ることはできないが、少なくともいい話をしているようには思えなかった。薙斗はちら、と後ろに控えていたレキナに目をやる。その視線に気づいたレキナが、一つうなずく。薙斗も頷き返し、一歩、前に踏み出し、二人組へとその姿を晒した。

「あぁん? なんだ小僧。ガキがこんなところに来るもんじゃねぇぞ?」

一番に口を開いたのは、話し込んでいた男だった。薙斗に続いて、レキナもまた、その姿を現す。レキナの姿を見て、黒服のフェアリーが口を開いた。

「いや――あんた召喚士か。連れはフェアリーのようだね」

黒服のフェアリーは、レキナの姿を見て警戒心を露わにしていた。男の方はまだ状況を楽観しているように思えたが、そんなことは薙斗にもレキナにも関係のないことだった。

「まぁその通りだ。何やら悪巧みをしていそうなフェアリーと召喚士を見かけたもんで着いてきただけだ」

「はっ、分かってて来たってわけか――悪いがその悪巧みをお前らに教えるわけには――」

「面白いこというなぁ、おじさんよ。俺は悪巧みしていそうと言っただけなのにわざわざ正体を明かしてくるとは」

薙斗は両手で敢えて煽って見せた。薙斗にとって興味があるのは、黒服のフェアリーがどんな力を持っているか。それに限る。そのためだけにわざわざ関わっているのだから。

「ちっ……おい。ラクア。こいつら、絶対に消し去るぞ」

「あいよ、マスター」

ラクアと呼ばれた黒服のフェアリーと男が臨戦態勢を取る。それを見て、薙斗は内心高揚した。それを表には出さないように。ただ静かに、それに対する構えを取る。

「関わったこと、後悔しろや!!」

言うなり、男が動き出す。両手の先から黒い煙のようなものを立ち昇らせ、男の姿を隠す。あれだけの啖呵を切っておきながら逃げ出すとは考えづらい。なにか仕掛けてくる。

 瞬間、黒煙の動きが変わる。意志を持ったかのように形を変え、真っすぐに薙斗とレキナに向かって突っ込んでくる。

「マスター!」

レキナが叫ぶ。薙斗はその声を認識するよりも早く、左手の手袋をひっぺがす。甲に埋め込まれたサイファーが淡く光る。

「一陣は止める! 壁を使え!」

薙斗はレキナから求められた指示を一瞬にして返しながら、右手の中に剣を形成する。巨大な蛇のようにうねりながら突貫してくる黒煙の進路に向かって、剣を二振り。二つの盾が形成され、黒煙と衝突する。盾は弾け飛んだが、同時に黒煙もまた、威力を失って霧散していく。薙斗は、その黒煙を突っ切って接近する。

「甘いねボウヤ!」

煙の中から聞こえてくるフェアリーの声。薙斗の背後から質量をもった蠢きの音が聞こえてくる。先ほどの黒煙が、再びその形をもって動きだす。

「なるほど、触れてなくても動かせるってわけか……!」

だが、この場に至っては薙斗だけが甘いわけではなかった。

 薙斗は反転しながら剣を振りぬき、後方に盾を展開する。盾に衝突した黒煙は再び霧散する。その間にも正面から発生源の黒煙をうねらせて薙斗に向かって突進させてくる。

「レキナ!!」

薙斗は叫びながら剣を正面に向かって剣を振る。黒煙を間一髪のところで防ぐと同時に、薙斗の上空からレキナがその姿を現す。黒煙の攻撃に紛れ、路地を形成していた廃ビル二棟を蹴りあがりながらその姿を敵の視界から消していたのだ。

「煙に隠れてるつもりなら……煙ごと!!」

レキナが両手に魔力を集中させる。レキナが貯めこんだ魔力は電撃へとその姿を変えていき、たちまち彼女の両腕が電気を発し始める。その感触をレキナ自身がしっかりと認識するよりも先に、突き出した両手の先から電撃を打ち込む。この雷こそ彼女の魔力特性。シンプルであるからこそ、その力の使い方は数多ある。雷の放出力と指向性を持たせた脚力の向上、至近距離で雷を叩き付ける格闘戦術、そして、距離を開けて雷を打ち出す砲撃戦術。

 突如上空に現れた――ように相手には感じられた――レキナに抵抗しようと、黒煙が真っすぐにレキナへと襲い掛かる。レキナは体をひねらせながら攻撃を回避しようとするが、右足に黒煙が衝突する。

「うっ……!!」

一瞬のうめき声。だが、痛みに顔を歪ませながら、その目は相手を――黒煙を捉えている。相手の攻撃による勢いを利用して体を一回転させ、再び雷を打ち込む。

「ぐぁっ!!」

「くうっ……!」

雷は煙の中にいる二人を確実に捉えていた。煙に紛れているということは、間違いなく煙の中にいるということ。多少乱雑な方向に放たれている電撃だったとしても、煙にさえ当たっているならば、ほぼ確実に対象には命中する。

「煙の動きが止まった……」

ひとしきり雷を打ち込み終えて、きれいな着地を決めたレキナが、動物的な動きのなくなった煙を見て呟いた。煙はただ大気に任せて、徐々にその場から離れていく。

「黒煙で各種監視装置の目を塞ぎ、その黒煙に質量を持たせて警備員や金庫を打倒していった、ってところか――戦闘能力がそこまで高いとは思えないが、盗みの後のリスクを最小限に抑えるには適した厄介な魔力特性だったな」

レキナの雷を受けて失神している二人を見ながら、薙斗は一人、饒舌に分析を始めた。成果のない身であるとはいえ、彼も研究者である。研究対象について考え込んでしまうのは、ある種の性であるというものだ。

 だが、そんな考察も長くは続けてはいられなかった。遠くから走りこんでくる足音が複数聞こえてきたからだ。

「さすがに騒ぎすぎたかもな――レキナ、行けるか?」

「うん、マスター」

恐らく、路地裏から聞こえてくる異様な戦闘音を聞きつけた警官が迫ってきているのだろう。世間体の悪い召喚士とフェアリーが――たとえ相手が犯罪者だとしても――誰かを打倒しているシーンなど、どう考えても不味い。犯罪者を倒してみせた嫌われ者というハイリスクな名誉よりも、身を隠す方がまだ懸命な判断と言える。

 この場から離脱するために、レキナの脚力を利用してこの場からの離脱を試みる。だが、薙斗を抱えて両足に力を入れたところで、レキナの身体ががっくりと崩れた。

「いっ……」

半ば投げ出される形になった薙斗が、レキナを見やる。右足を押さえたレキナが、顔を歪め、痛みに耐えるように目に涙をためていた。

 このままここで立ち止まっては警官に捕まってしまう。薙斗の決断は早かった。すぐにレキナの側面に回り込んだかと思うと、軽々と彼女を持ち上げて、足音とは反対方向に走り出す。

「わ、わ、マスター!?」

「こっちの方が今は確実だ! まだあいつらの残した煙で、少しは時間を稼げる!」

男達の残した煙はほとんどが霧散していて、決して多くはなかったが、ないよりはましだ。使えるものは使っておくべきだ。

「しっかり捕まってろよ!」

煙を突き抜け、更に走る。ちょうど路地の角を曲がるところで、警官が先ほど戦闘を行っていた路地に到着する。

「いたぞ!」

「あいつらを追え!」

後方から聞こえてくる声に耳を貸している余裕はない。ひたすらに薙斗は走った。路地は太陽が遮られ、薄暗い。足元の不注意で転ぶことだけはないよう細心の注意を払いながら、それでも速度を緩めることはなかった。

 だが、警官の方が僅かに速力は上だった。逃げ切れる自信はなかった。どうにか細かく入り組んだ路地にさえ入り込めれば、まだ逃げ切れるチャンスはあったが、生憎目につくビル群は巨大なものばかりで、とても割り込める隙間が見当たらない。

「だ、駄目だよマスター! 私なら後からなんとか逃げられるかもだし、囮にして――」

「んなことできるか! それよりだったら迎撃してもらった方がましだ!」

「マスターも巻き添え食らっちゃうからぁ!!」

半ば自棄を起こしたような声で互いが否定の言葉を言い放っていた。それぞれが互いのために反論しているがために、打てる手も打てない状態だった。

「お前を置いていくくらいなら俺が捕まって時間稼ぐわ!!」

「馬鹿! 馬鹿! マスターの馬鹿ぁ! マスターが逃げるための時間稼ぎなら私の方ができるもん!!」

ぎゃあぎゃあと文句を言いあいながらも、薙斗の足は止まることなく動き続け、その目は常に次の道を探していた。だが、確実に警官との距離は縮まってきている。このままでは捕まるのも時間の問題だ。身体はもがき続けていながら、内心、諦めを感じ始めていたその時――。

「お二人さん、こっち!」

聞きなれない女性の声が前方から聞こえてきた。角を曲がった直後のことだった。女性は手を振ってアピールをしていた。この際なんでもいい。少しでも逃げ切れる可能性があるのならばそれに賭ける。薙斗は全力をもって女性の方向へと走る。女性が走ってくる薙斗の姿を確認すると、手振りで誘導しながら角へと消える。薙斗も迷わずそれに従う。

 角の先で、ビルの扉が開いていた。古ぼけていて未だ誰かが働いているようには見えなかったが、その外観はまだ死んでいるようには見られない。このまま放置していても数十年は持たせられるような状態だった。

「入って! 奥まで走って!」

言われるがまま、薙斗はビルの中へと駆け込み、十数メートル駆け抜けた。女性が扉を閉め、魔力を行使し始める。薙斗は一気に失速し、膝をついた。それでも、レキナをぞんざいに扱うことなく、ゆっくりと床に降ろす。無意識のうちに雑な呼吸をし続けていたせいで、それを意識した瞬間、喉の痛みと共に激しく咳き込んだ。レキナが片足を庇いながら背中をさすってくる。ひとしきり息を整えたところで、薙斗は誘導してきた女性に視線を送った。

「いやぁ、よかったよー。無事にここまで逃げてこられて。ゆっくりしていくといいよ」

女性は眼鏡を掛けなおしながら額の汗を拭い、薙斗とレキナを歓迎した。

 これが、彼女――池川璃子いけがわ・りことの出会いであった。

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