第2話

「ついにーー」

 書物は、ちょうど彼の腰の高さ程度の台座の上にあった。

 錆びた青銅の表紙には、不気味な浮き彫りがしてあるのが見てとれる。

 いったいどのくらい前の代物なのだろう。

 伝承通り千数百年前のものなのだろうか。

 山中には、もっと昔からこの書物はここに鎮座していたように思えてならなかった。

 しかし、そんなことは山中にはどうでも良いことなのだった。

 俺が、今日、ここに来るのをこいつは待っていたのだ。

 それで良いのだ。

 そのとき山中は、表紙に何か記号らしきものが刻まれているのに気がついた。が、ラテン文字やアラビア文字、まして漢字でもない不可思議な記号のため、山中には解読できなかった。

 いや、たとえ世界屈指の言語学者、考古学者であっても、それを解読することは不可能なことだった。

 なぜなら、それは、地球上には現在、過去、そして未来にも存在することのない文字だったからである。

 山中は、書物を手に取った。

「……重い!?」

 それは、もの凄い重量の本であった。

 台座に置かれてあったおかげで持つことは出来たが、これを持ち帰ることなど到底不可能だ。

 ましてや、もし地面の上に置かれてあったら、持ち上げることすらかなわなかっただろう。

 焦燥で、思わず笑いがこみ上げる。

 ここまできたのに……。

 沸き上がる笑いで頬をヒクつかせながら、山中はそれでも来た通廊を戻ろうと、執念で踵を返し、一歩踏み出したとき、その瞬間、全身を電流のようなものが刺し貫いた。

 刹那、山中は元初がんしょの闇を観想した。

 砕け散り、流れ飛ぶ超銀河団の光を感じた。

 動けなくなった。

 指一本、ピクリとも動かせなかった。

 電流のようなものが疾った瞬間、彼は生ける彫像と化していたのである!

 心臓の脈打つ音と呼吸音だけが響く世界に別の音が加わったのは、それから数十秒後のことだった。

 古びた書物が、山中の手から滑り落ちたのである。

 青銅の表紙が地面に激突した音が、地下空洞内に陰々と反響する。

 得体の知れぬ記号と奇怪な浮き彫りのある表紙が上になって落ちていた。

 山中は、それを拾うことすら出来ずに、ただ呻くばかりである。

 熱かった。

 全身が、内側から炎であぶられているかのような熱さを感じていた。

 溶けて…しまう。

 煮えたぎった灼熱そのものを体内に流し込まれている、そんな感じがする。

「くそっ」

 と言葉を声に出して叫んだつもりでも、それは心の中で叫んだだけだった。

 声が出なかった。

 そして、そのことが彼にある事実を悟らせたのである。

〝変わるのだ…〟

 彼は思った。

〝人間でない何かに、変わるのだ〟

 その通りだった。

 変化は、すでに始まっていたのである。

 それはまず、肉や骨から起こった。

 山中の見た目はそのままに、皮一枚を隔てた内側で、どろどろに溶かされた肉や骨が、全く別の形をしたものに再構成される。

 その次は皮膚だった。

〝化け物になるのだ〟

 山中は、その運命を当然のことのように受けとめていた。

 なぜ、自分が化け物になるのか。

〝ああ、この宝には、人間が手を出してはならぬ何かがあったのだろうか…〟

 もしそうであったなら、今までの自分の人生は何だったのか。

 このような場所で、誰の眼にも留まることなく、化け物になって、そして、死ぬのか…。

 これが…俺の…運…命なのか。

 白くなり始めた腕を見つめていた眼で、もう一度足許あしもとの書物を見た。

 その視界も白濁し、見えなくなりつつある。

 そして、この行為が、山中の人間であったときの最後の意志であり、記憶になった。

 ――

 もはや、ここに山中の姿はない。

 ただ、彼の衣服と、そこから這い出したと思われる、おぞましい化け物がいるだけだ。

 その白くて小柄な化け物は、ひどく餓鬼に似ていた。

 細く、骨と皮だけで作られた手と足。それとは対照的に不気味に膨れ上がった腹。この化け物こそ、山中の変化し終えた姿なのだ。

 四つん這いになって、化け物が書物に向かう。

 化け物に備わった新たな意志、または本能がそうさせているのだろうか。

 餓鬼が細い腕を伸ばして書物を取り上げようとしたとき、別の腕が横から伸びて来て、ヒョイとそれをかすめ取って行ってしまった。

「――これが、朱の血族復活の鍵を握ると云われる『血の預言書』か…」

 化け物は、瞳のない赤色の眼で、声を発した人間を見上げた。

 自分のすぐそばに、いつの間にか別の人間が立っていた。

 気配すらなく立つその人間は、美しい若者だった。

 着流し姿の若者は、白い影だった。

 身に着けている着物が白いのだ。しかし、真っ白ではない。ところどころに赤い花――いや、炎か?――が染められている。

 そして、袖口から伸びた手も白く、その美貌もまた白かった。

 少し長めの髪だけが黒々とし、白い相貌にかかっていた。

 今、若者はその白い繊手で、書物を軽々と持ち上げているのだった。

 このとき、もし化け物と化した山中に意識が残っていたら、彼は間違いなくこう思った筈である。

〝何故、こいつは平気なのだ〟

 と。

 確かにおかしなことだった。

 髪の長い美青年は、書物を軽々と手にし、しかも化け物に変化せずにいる。

〝何故、自分だけが…〟

 と思ったかも知れない。

 悔しくてたまらなかっただろう。

 だが、化け物となった今、そういう感情は彼には浮かんでは来なかった。

 若者が、そんな山中を見て微笑を浮かべた。

「道案内、ご苦労だったな。君は、俺の掌の上で踊っていたに過ぎないのだよ」

 わかるかい?

「――これは、君たち普通の人間が考えているようなものじゃない。もっともっと恐ろしい目的が、これにはあるのだよ。――まぁ、今さら言っても仕方ないがね」

 美しい若者が何か言っているようだったが、化け物となってしまった今の彼には、そんなものはどうでも良かった。

 今の彼の心にあるのは、このもの凄い空腹感――飢餓感をどうするか、であった。

〝この男、喰ってやろう〟

 それは、化け物の意志であった。

 その意志を遂行すべく、カッと大きな口を開いて、彼は若者に飛びかかった。

 無数に並んだ鮫のような歯で、若者の頭から喰らい尽くそうという気でいるらしい。

 若者は着物をヒラリと翻して、化け物の牙を躱した。

 馬鹿め、と嗤う。

「――こうなったのも、ここで俺に殺されるのも全て、生まれの不幸と思えよ!」

 若者が言うのと、彼の背後の通廊の壁を蹴って、化け物が襲いかかるのと、ほぼ同時であった。

「シャ――ッ!」

 化け物の口から異様な咆哮が迸る。

 刹那、若者の唇がキュウと吊り上がり、右手の指が何かを弾いた。

 シュン!

 と空気を射抜いて飛来したそれは、化け物の狭い額に命中した。

 何の変哲もない小石だ。

 しかし次の瞬間、耳を塞ぎたくなるような音をたてて、化け物の額に小石がめり込んで行く。

「あごごごごご…」

 彼は奇怪な声をあげる。

 小石は、まるで銃器から発射されたかのような勢いで化け物の額を貫通し、緑色の液体にまみれ、通廊の壁にぶつかって地に転がる。

 化け物は反動でのけぞるように宙に舞い、やがて、ずんっと音を立てて地面に落下した。

「ふぅ。――では、そういうことで…」

 と呟いて男が背を向けたとき、化け物はすでに息絶えていた。

 若者は、ゆっくりと来た道を戻り始めていた。だが、数歩も行かぬうちに、彼は足を止めることになる。

 二人の男が、彼の眼前に姿を現したのだ。

 それは、突然の出現であった。

「参ったな、気づかなかったよ」

 若者は笑いながら頭を掻いた。

 いつからそこにいたのか。

 若者は、自分に気配を感じさせることなく、二人の男がここにいたことに驚きを隠しきれなかった。

 しかも、自分同様、着ている衣服に汚れ一つ、乱れ一つない。

 この標高までどのような手段でやってきたのか。

 やはり、普通の人間ではないらしい。

「我らの宝を狙う盗人め。何がおかしいか」

 二人のうち、背の低い方の男が怒鳴った。

 餓鬼の面構えといい勝負だな、と若者が思うほどの醜男だった。

「――別に。ただ、まさかあんたたちが現れるとは思ってもみなかったものでね」

「我々を知っているのか」

 背の高い方が、よく通る低い声でそう訊いた。

 黒いマントを羽織った、美貌の持ち主だった。髪は黒く長く総髪、そして額には奇怪な紋章が刻み込まれていた。

「当然さ。あんたたち、『朱の血族』だろう?」

 若者の言葉に、長身の男はニヤリと笑った。

 男の額に刻まれた紋章の意味を知っていた。

 そう、それは、今手にしている古びた書物の表紙に浮き彫りにされているものと同じものなのだ。

 魔王紋。

「――では、貴様は、それが我等の秘宝『血の預言書』と知って、なお盗もうというのか」

「これは、俺があんたたちより先に見つけたものだ。だから、俺のものだ」

 若者は、鋭い刃のような笑みを浮かべて、眼前の二人に言った。

「こぞう、貴様……」

 と、歯をきしませる醜男を制して、

「我等の放つ妖気を身に浴びながらも抵抗するとは、貴様、何者だ?」

「人に名を問うときは、自分から名乗るものだぜ、お二人さん」

「良かろう。私は『朱の血族』五十五代目頭首『羅邪ラージャ』」

 と美形。

「俺は『招羅ショウラ』」

「その名に対して名乗ってあげよう。俺は、くれないと言う」

 着流し姿の若者が名乗ったとき、羅邪の口許に魔性の如き妖しい笑みが浮かんだ。

「紅か。知っているぞ。裏の世界では零とやらとともに有名だな」

「嬉しいね。幻の一族の頭首に名を知ってもらっているとはね。で、俺からこの書物を取り戻して、どうする気だ?」

 紅の笑みもまた、魔性のそれであった。

「君こそ、どうする気なのだ?」

「もう正義ぶって妖魔調伏ようまちょうぶくするのにもうんざりしてるんでね、こいつの力を試してみるのもいいかな、なんて」

 と紅が言ったとき、招羅が気にさわる声でヒヒと笑った。

「愚かな奴よ。その書物『血の預言書』が、我が一族の者以外に開けられると思うてか」

「招羅の言う通りだ。しかも、その書物が秘める力を余すところなく受けられるのは、頭首、つまり、この私だけなのだ」

 羅邪が引き取った。

「なるほど、それは残念」

 紅が肩をすくめる。

「では、俺が持っていても意味がないな。――ならば、捨てるまで」

 凄絶な笑みを浮かべて紅が告げ刹那、鋭い呼気を放って、小柄な影が身を屈めて飛んだ。

 招羅が古びた書物を奪い返そうと、紅に攻撃を仕掛けたのである。

 奴は、いつの間にか手に鋼鉄製の爪をはめていた。

 その鋭く伸びた鉄爪を、紅はふわりふわりと着物をたなびかせて、ことごとくかわしていた。

「無駄だ。あんたに俺は殺せない」

「よせ、招羅」

 紅がわらうと同時に、羅邪の叱咤が響いた。

羅邪の命令は絶対なのか、即座に攻撃を中断すると、身を翻して、音もなく主の隣に片膝をついた。

 その顔は、しかし、怒りと屈辱に鬼相と化している。

「――どうして止めた。今ここで俺を倒さないと、こいつは手に入らないぞ」

「入るさ」

「なに?」

「我等と手を組まないかね」

 その申し出に驚愕したのは紅だけではない。招羅もである。

 何を言い出すのか、という表情で、羅邪の美貌を見上げている。

「貴様もわかっているはずだ。ここから抜けるには、我らを殺すか、それとも……」

「二者択一、ね。確かに、『血の預言書』を渡しただけでは、素直に帰してくれそうにないな」

 紅が自嘲気味に肩をすくめる。

「そういうことだ」

 羅邪が笑う。

「我等は、古都の三角陣を破り、儀式をやり遂げなければならん」

「一族の再生復活を賭けた、祖先の英霊との融合、か」

「さすがだな、よく知っている」

「しかし、そんなことをすれば、奴が動くぞ」

「――零か。そのために、君を仲間に加えると言うのだよ。もちろん、全世界を統べた後は、貴様にも国をやろう」

「ここから抜けるには、それしかないか。――良いだろう、仲間になるよ」

 と答えると、紅はあっさりと魔道書を羅邪に手渡したのである。

「――では、我等が闇に案内しよう」

 羅邪が宣言したとき、闇が三人を包み込むように広がり、彼等はその場から姿を消した。

 やがて、通廊に静寂が戻ってきた。が、この闇の邂逅は、この後起こるいくつもの異様な事件の開幕に過ぎなかったのである。

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