偽装の心理 6

翌日の朝、鳴海徹也は真代橋署捜査一課のデスクで、

鑑識から渡された報告書を丹念に読み返していた。


 昨夜、帝應大学の研究室棟でユングの娘―――氷山遊は

この報告書に書かれたどこかに興味を示したように思えて、

それがいったいどこなのか興味を覚えたからだ。


 鳴海は時折、腕時計に目を落とした。

午前十時を少し回ったところだ。

今日は河井聡史とともに、衣澤康祐の死体を最初に見つけた―――

第一発見者である『龍来軒』の主人の妻、

静江にその時の状況を詳しく訊くつもりだった。

鳴海が椅子から立ち上がろうとした時、河井が彼を呼ぶ声がした。


「鳴海さん、今から聞き込みに行くんですよね?」


「ああ、そうだ」


「あの、氷山先輩が捜査に同行したいって言ってるんでけど」


「帝應大学に寄ってる暇は無い。また今度にしてくれと伝えてくれ」

鳴海は頭を掻きながら、うんざりした顔を河井に向けた。


「それが、彼女、署の玄関まで来てるんです」


「何だと?」

鳴海は赤いダウンジャケットを掴むと、捜査一課を後にした。

河井もコートを手にして、鳴海を追いかけた。


二人が真代橋署の一階に降りると、

警務係と住民相談係にいる署員たちの雰囲気が

いつもと違っていた。妙にざわめいている。

特に男性の署員たちは落ち着き無く、

玄関の方へちらちらと視線を走らせていた。

中には見とれているような様子で、

書類を手にしたまま突っ立っている者もいる。


彼らの視線の先に、その女性は壁に上半身をもたせかけて立っていた。

襟元と袖に淡いピンクのファーの付いた、

鮮やかなワンレッド色のプルオーバー チュニックを着て、

すらりと伸びた雪のように白い脚に、

これも血のように赤いハイヒールを履いた、

清楚で端正たんせいな顔立ちの美女だ。

髪は艶やかな漆黒しっこくのセミロング。

手には小さな黒いレザー製のトートバッグを提げている。


 氷山遊―――ユングの娘だった。


「テツさん、テツさん、氷山先生を待たせちゃダメでしょ」

そう鳴海に声を掛けてきたのは、警務係長の中谷だった。

もう定年間近の年齢にも関わらず、頬を紅潮させている。

そんな中谷係長を見て、鳴海は苦笑を抑えきれなかった。


「何笑ってんの。さっさと行きなさい!」

中谷に背中を叩かれて、鳴海は少しよろめいた。

すぐに姿勢を戻すと、氷山遊のところまで歩いていく。


「ここまでお偉い学者先生にお越しいただいて、

ご足労申し訳ないですな。

それにあんた、署員に人気があるみたいだな。特に男性職員に・・・」


鳴海の言葉は、必要以上な慇懃さを醸し出していた。

聞き様によっては嫌味めいて聞こえる。

ただ氷山遊は壁から背を離して、鳴海に一瞥をくれただけだった。

ガラス細工のような彼女の視線からは、何の感情も見出せなかった。


「無駄話はいいから、仕事に取り掛かりましょう」

彼女はそんな鳴海の言葉も意にかえさない様子で、

玄関に向かって足を向けた。

鳴海は思わず心の中で舌打ちをした。


黒髪を翻して玄関へと向かう氷山遊から、

微かな甘い香りが鳴海の鼻腔をくすぐった。

それは甘く、魅力的な香りだが、

何か危険をはらんでいるように鳴海には感じられた。


鳴海徹也、氷山遊、河井聡史の三人はタクシーを止めると、

河井は助手席に鳴海と氷山遊は後部先に腰を下した。

鳴海が行き先を告げると、

隣にいた氷山遊が正面を向いたまま、鳴海に問いかけた。


「今からどこへ向かうのかしら?」


「衣澤康祐の死体の第一発見者、

市来静江に当時のいきさつを訊きに行く」

鳴海も負けじと、事務的に答えるように意識した。

氷山遊はそれにも返事もせず、バックシートに身を預けたまま、

トートバッグから、銀紙に包まれたマカデミアナッツチョコを口にした。


三十分ほどして、タクシーは市来ビルに着いた。

三人は車を降りると、そのビルの一階にある『龍来軒』の前で立ち止まった。

店の前で鳴海は思わず舌打ちをした。

暖簾は出ておらず、『本日定休日』と

書かれた掛札が下がっていたのだ。だが、と鳴海は思い返す。

たしかここは店舗兼住居だったはずだ。

建物の隣を覗くと細い路地があった。

鳴海は無言のまま、その路地に入った。

河井聡史、そして氷山遊もその後に続いた。


その先には、玄関らしき扉があった。

表札も出ていて、市来吉雄と妻、静江の名がある。

鳴海は玄関横にある、

古く黄ばんだインターホンのボタンを押した。返事は無い。

しかし、鳴海は何度も押し続けた。

留守なのかとあきらめかけた時、

インターホンのスピーカーから、誰何する声が返ってきた。

聞き覚えのある男の声だ.市来吉雄に違いない。


「真代橋署の鳴海です。少しお時間いいですか?」

扉が少しだけ開いた。

わずかな隙間から顔だけを出して現れた市来吉雄は、

上グレーのスエットスーツ姿だった。

白いものが混じった無精ひげを生やしている。


「ちょっと、散らかってるんで、

  急に来られても困るんですよ」

市来吉雄は露骨にしかめ面をつくった。

あきらかに拒否の姿勢だ。この事情聴取は任意だ。

あくまで拒絶されれば、引き返すしかない。


鳴海がなおも言いかけた時、

彼の背後にいた氷山遊が口を開いた。


「ご迷惑をおかけしてすみません。少しだけお話を伺えませんか?」

琴線をつまびくような、澄んだ声だった。

それも昨夜の機械的で、平坦な彼女の口調ではなく、

微な抑揚の含まれた、聞いていて心地の良い、

まるで静かな浜辺に寄せては返すような漣みのような波長だ。

市来吉雄は目を丸くして、彼女を見ていた。


それにつられたように、

思わず振り返った鳴海は、さらに驚いた。

あのユングの娘が微笑を浮かべていたのだ。

能面のような表情しか知らなかった鳴海にとって、

そのギャップは衝撃的ともいえた。

彼女の微笑みは、心癒されるような優しさをたたえ、

見る者の心を穏やかにさせ、やわらかく包み込むような魅力に満ちていた。

鳴海は数瞬の間、彼女の笑みに見とれていたが、市来吉雄の声で我に返った。


「あ、あんたはどなたさんで?」

市来吉雄はぎこちない笑顔で言った。

つい先ほどとは打って変わって、態度が柔和になっている。


「この女性は帝應大学の学者さんで・・・」


「氷山遊といいます」

氷山遊が鳴海の言葉のあとをとって答えた。


「少しの間だったら、話を聞くよ。あがってくれ」

鳴海徹也と河井聡史、そして氷山遊は玄関で履物を脱ぐと、

六畳ほどの和室に通された。

その部屋にはコタツにテレビ、そして現代ではほとんど見かけなくなった

古びた水屋箪笥があった。

三人は市来吉雄の出した座布団に腰を落ち着けた。

台所から静江が、湯気の上がる湯飲みが三つのった

盆を手にして現れた。鳴海たちに湯飲みを差し出すと、

対面して胡坐をかいている市来吉雄の隣に座った。


「いやあ、大学の先生に、こんなべっぴんさんがいるとはね。

  最初見た時はモデルか女優さんかと思いましたよ」

市来吉雄は本当に驚いているようだった。

それに対して、氷山遊は、はにかむような、無垢であどけない笑顔で返した。


まるで別人だな―――。


彼女の美しい横顔を見ていた鳴海はそう思った。

昨夜会った時の、能面のような表情は微塵も無い。

若い女性にはおよそ似つかわしくない、

あの過剰なほどの怜悧な雰囲気も。

果たしてどちらが本当の彼女なのだろうかという疑問が、

彼の脳裏をよぎった。


鳴海はお茶を一口すすり気を取り直すと、

静江に向かって口を開いた。

彼の隣では、河井がメモを取る準備をしている。


「衣澤康祐さんの死体を最初に発見したのは、

  奥さんだそうですね。ショックだったでしょう。

  これから不躾な質問をいくつかさせていただきますが、

  お気を悪くしないでください」

鳴海の丁寧な言葉に、静江は俯き加減で微かにうなづいた。


「その時の状況を詳しくお話していただけませんか?

  どうしてあの日、あの時間に彼の部屋を訪ねたんです?」


静江は一呼吸おくと、ゆっくりとしゃべり始めた。


「あの日、衣澤君がアルバイトが休みだと聞いていたので、

  お昼にチャーハンを持っていってあげたんです」


「チャーハン?

  いつも彼に食事を持っていくような間柄だったんですか?」

その鳴海の質問に、鈴江に代わって市来吉雄が答えた。


「衣澤君はね。うちら夫婦にとっちゃ息子みたいなもんでね。

  女房は栄養のあるものをと、

  たびたび彼のところに食事を差し入れしてたんですよ」


「市来さんたちに、息子さんがいらっしゃるんですか?」


しばらくの間、市来夫婦は押し黙っていた。

市来吉雄は天井を見上げて、記憶を辿るような素振りを見せてから言った。


「息子がいたと言うべきでしょうな。

  うちらの息子は、十年前にバイク事故で他界したんです。

  もし生きてたら、衣澤君ぐらいの歳だったもんで、

  女房も放っておけなかったんでしょう」


「なるほど。これは失礼しました」

鳴海は素直に頭を下げた。


「それで衣澤さんの部屋に入ったそうですが、

  状況・・・というか、その時には彼はすでに死亡していたんですか?」

鳴海の問いに、静江は顔を上げた。


「ええ、そうです」

彼女の声はか細かったが、

鳴海の顔を正面から見つめてはっきりと聞こえた。


「それともうひとつ、衣澤さんを発見した時、

  部屋には誰かいませんでしたか?

  それとも何か第三者がいた形跡とかには

  気づかれませんでしたか?」


静江の顔が、わずかだが強張ったように見えた。

彼女は一呼吸すると、毅然と答えた。


「誰もいませんでした。それははっきりと覚えています」


「そうですか」

鳴海は肩を落とした。やはり自殺のセンが有力のようだ。

そこで鳴海は思い起こしたように、もうひとつの質問を投げかけてみた。


「衣澤さんは、アメリカ軍のライフルに着剣する

  M7という銃剣で刺されていました。

  その銃剣を彼が、以前から持っていたというようなことは

  知っていましたか?」

静江は俯いて、何かを思い出そうとしているような

素振りを見せていたが、すぐに面を上げてゆっくりと答えた。


「そのようなものを持っていたことは知りませんでした」

鳴海は正直、落胆する気持ちを抑えられなかった。

やはり、事件解決に結びつくようなヒントは見つかりそうも無かった。


「このお店、もう長いんでしょうね。

  お客さんに評判がいいからからかな」

唐突に、氷山遊が口を挟んできた。

彼女は笑みを浮かべながら、

世間話をしているような明るい声で市来夫婦に語りかけた。

それを隣で聞いていた鳴海は、事件とは何の関係も無い、

そんな話題を投げかけた氷山遊の真意を測りかねて、

彼女の横顔をただ見つめていた。


彼女の問いかけに、静江の表情は少し和らいだようだった。

静江は視線を上げて、思い出を探るようにして語った。


「そうですね。常連客ばかりだけど、

  うちのラーメンは最高だって言ってもらってます。

  作ってるのは主人ですけど・・・。

  私はチャーハンが得意なんです」


「奥様のチャーハン、いつか是非賞味させていただきたいですわ」

氷山遊の快活で優しい声が、

それまでの陰鬱な空気を吹き飛ばしたようだった。


「ああ、今度来て下さいよ。

  あんたみたいなべっぴんさんが来たら、

  オレが腕によりをかけてご馳走します。

  むさくるしい男ばかりの常連客があんたを見たら、

  卒倒するでしょうな」

市来吉雄は豪快に笑った。


それからしばらくして、鳴海たちは市来夫婦宅を辞去した。

外に出ると、鳴海徹也は大きなため息をついた。


「これといった収穫はなかったな。

  まあ、無駄足も刑事の仕事なんだけどな」


すると、鳴海と河井の先を歩いていた氷山遊が、ふいに立ち止まった。

ワインレッド色のプルオーバーチュニックを翻しながら、

鳴海たちを見据えるような視線を投げかけた。

振り返った彼女の顔は、昨夜会った時の能面のような無表情に戻っていた。

さきほどの社交的で、優雅な女性の面影は、すでになかった。


そして、彼女は無表情な顔のまま言った―――。


「彼女、嘘をついてる」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る