公爵夫人の人魚姫
篠崎琴子
1 リーエンリッテのお嬢様
「俺、あんたの事わりと好き」
ねえさまそっくりの
その頃わたしは年の割にはものをしらない幼げな娘だったから、彼の言葉に「ほんとう?」と首をかしげて、少しばかり頬がゆるむのに任せるのでした。
「ほんとだよ。可愛いものは大好きだからね。それにあんたは、リーエンリッテのお嬢様だし。つり目がちだし、顔立ちはちょっときつめだけど、金色の髪はきらきらだし、リーエンリッテが宝物みたいに扱うからさ。そうやって、リーエンリッテに大事にされてるお嬢さんはかわいいよ。俺とおそろい」
「あなたの鱗もきれいだものね、人魚さん」
そうやってわたしがはにかむと、公爵夫人に飼われているきれいな人魚の男の子は、「はいはい、ありがと」とそっけなく返すのでした。そしてにっと笑いながら尾ひれで、わたしにバスタブの水を浴びせるのです。
わたしはきゃーっと甲高い声をあげ、笑いながら兄嫁の浴室を駆け回って、名前も知らない人魚の少年が仕掛けてくる、水しぶきを避けながらはしゃぐのでした。
やがてねえさまが窓から光のさしこむ浴室にやってきて「お嬢様、お茶の時間よ」と手招くまで、わたしはねえさまの素敵な人魚さんに遊んでもらったものでした。
猫足のバスタブに飼われた、公爵夫人の人魚姫。奇妙で奇特な公爵夫人の、呪い損ないの愛玩品。まろやかなすみれの双眸と、栗色の髪を肩に届かぬほどに切りそろえた人魚を、わたしがそれ以外の言葉で呼ぶ事はついぞありませんでした。
だから人魚が聖堂に狩り出され、もうこの屋敷のどこにもいない今となっても……彼にとってのわたしはついぞ、リーエンリッテのお嬢様。
それを寂しいとは思いつつも、わたしは彼に名前を尋ねる事、彼に名前を名乗る事、どちらも躊躇われてしまったのでした。
なにせその頃、わたしの生まれ育った家の、どこを探してもみあたらないと信じていた愛情が、あのバスタブと人魚を擁す、公爵夫人の浴室にだけは、あったので。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます