あなたとわたしのやるせない恋
街子
第1話 5月25日
法律サークルの新歓コンパで、福原龍樹は律子の斜め前に座っていた。
龍樹は、幼少の頃からさぞや美少年だったろうという見目美しい人間だった。
山形から上京して、大学がある池袋駅のすぐそばに一人暮らしをしているという。
顔が良いこの男をなんとしてでも入会させようと息巻くメンバーとの会話を、横耳でこっそり聞いていた。
地方出身者にも関わらず、洗礼された喋り方をした。ささやくように話すのに、その声は耳にしっとりと余韻を残す。
この時、もうすでに龍樹に魅了されていたのだろう。出会って5秒、一目惚れというものは本当にあるのだと知った。
だが、恋愛に馴染みがなかった律子は、自分自身それに気づいていなかった。
唐揚げやポテトが大量に運ばれてくる。ビールを一気飲みする威勢のいい新入生もいるが、法律を扱うサークルという性質上、大学一年生が酒を飲むのはほどほどにという空気のようだ。
先輩たちは気ままに席を移動し、入会意欲を高めてもらおうとサークルの良さをひたすら説いていた。
「法律ディベートとかも活動にあって、就職にも役立つしさ。もちろん飲み会もあるし、楽しいよ」
律子の隣に座っていたのは早瀬というサークルの副幹事長で、司法試験を目指している大学3年生だった。
茶髪で喋り方も軽いため、ぱっと見は授業にはろくに出ず、学食でたむろってそうな印象だったが、どの授業でも最前列に陣取っているのだと早瀬の奥に座る女子学生が教えてくれた。
「佐野さん、真面目そうだしさ。うちのサークル合ってると思うよ」
「あ、はい。入会しようと思ってるのでよろしくお願いします」
黒髪を後ろの低い位置でひとつ結びにした律子の第一印象は、いつも「真面目」だった。
埼玉の女子校出身ということもあり、化粧も覚えずに大学生になった。洋服はそれなりに気を遣っているものの、垢抜けなさがあるのはそのせいだ。
入学式で大学の正門をくぐった時にはキラキラとした男女の多さに慄いたが、法学部のオリエンが行われる大教室に集まった学生たちは、自分と似たりよったりで安心したのだった。
このサークルは法学部の真面目さをさらに煮詰めたような集まりで、司法試験志望者を中心として法律の勉強会を行っている。
律子は司法試験を目指している訳ではなかったが、せっかく法学部に入ったのだからと入会を決めていた。
「佐野さんは、もう入会決めた?」
宴もたけなわとなった23時過ぎ、終電があるので早めに抜けて靴箱の前で自分の靴を探していると後ろから名前を呼ばれた。龍樹だった。
すぐそばで見ても、遜色ない綺麗さだった。
「あ、うん。入るつもり。福原くんは?」
「俺も入る。じゃあ来週からよろしくね」
座敷に座っていた時には気づかなかったが、龍樹は身長が高かった。150弱しかない圭子は、肩くらいまでしかない。
整った顔と透き通る声、まるで少女漫画の王子様のようだった。
−
結論から言えば圭子はそれから1ヶ月後、龍樹の部屋にいた。
本入会が決まった5月の飲み会の夜、終電がなくなった圭子は隣に座っていた龍樹に「泊めてよ」と冗談めかして言った。
男女の友情に無意味に価値を見出すのは、女子校出身者のこじれた特徴のひとつだ。女を売りにしないことに妙な誇りを持ち、ゆえに男の家に泊まっても何もされない自分を自分自身で評価したがる。
だから、泊めてよというその言葉に色っぽいニュアンスは含まれない。
「別にいいよ、泊まりに来れば」
今思えば、普通の年頃の男女なら性行為も織り込み済みで当たり前なのだが、その頃の律子は、後から考えるに龍樹も、そんな東京の感覚を持ち合わせてはいなかった。
龍樹の方は、これは後から聞いた話だが、複雑な家庭環境から泥沼のような幼少時代を送っており、恋愛に耐性がなかった。
その日の飲み会は、顧問弁護士が来る公式的なもので、学生でも全員スーツ着用だった。弁護士にたらふく飲まされた後では、律子と龍樹が二人で池袋東口過ぎて要町に向かって歩いていても、誰も気づきはしなかった。
住宅街に差し掛かったところにあるアパートの鍵を龍樹が開け、後に続く。整頓されていると云うよりは物が無い殺風景な部屋だった。
ネクタイを抜いてジャケットをハンガーに掛ける後ろ姿を酔った視線で見るうちに、今更ながら龍樹が男であるということを認識した。とはいえ処女だった律子は、特に差し迫った身の危険や興奮を感じることもなかった。
深夜ドラマが終わり、コンビニで買ってきた梅酒の炭酸が抜け切った頃、「そろそろ寝ようか」と龍樹が言った。他愛もない会話は、その一言によって終わった。
開けっ放しの窓から、少しひんやりとした風が入る。
一目惚れしたと思ったほどの男が、密室空間で隣にいることの重大さに今更気づく。このまま寝てしまうのは惜かった。
「人に触られるの、嫌?」
スムーズにキスをすることも、されることも、律子の恋愛偏差値ではできない。
「別に、嫌いじゃないけど」
きっと、酔っていた。まだ酒を飲むことに慣れていない、18歳だった。嫌じゃないと言われたから、律子はぺたぺたと龍樹の顔や鎖骨を触った。
龍樹は枕代わりにしようとしていたクッションを律子の胸に押し付け、くすぐりあいが始まる。龍樹の腕が律子の身体をとらえて、そのままゆるく抱きしめた。
「肌さらさら」
「うん」
「柔らかい身体」
「女の子だから」
キスはしなかったし、きつくハグされることもなかった。二人とも、人肌に慣れていない。ただ、ぼんやりと小説や映画を参考に「それっぽい会話」と「それっぽい行動」を試してみた。だが、その先に進むほど成熟してはいなかったし、度胸もなかった。
結局、その肌同士の完璧に同じ温度になる前に眠気が襲ってきた。
肌寒くて目覚めたのは朝方だった。
雨が降っていた。カーテンの隙間から薄明るい光が、床にぼんやりと影模様を作る。
男の家に泊まったという事実は、素面の頭で考えるとそれなりに大きなことで、ましてやそれが好きな人だったという事実に改めて驚く。
律子は支度を整え、「行くね」とまだ寝ている龍樹にささやき、家を出た。
もう、ただの同級生ではない。
だが、既成事実になるほどの大きなことがあった訳でもない。
軽い男女ならすぐに恋仲になるのだろうが、そうでない自分たちはいったいどうしたらいいのか見当もつかなかった。
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