村雨の女騎士

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第1話 村雨の中で

 そろそろ、太陽が山の向こうに帰る時間であったが、今日はあいにくの天気で空を見ても正確な時刻は分からない。

 ぽつり、ぽつりと雨が降る中を一人の女性が当てもなく歩いていた。女性の名はエリーゼ・ルクスブルク。高貴な家柄を想起させる見事な金髪も、青空のように青い瞳も、今は捨てられた子犬のように元気が無い。

 エリーゼの頭の中では、今日の出来事がぐるぐるとリピートしている。

 小鳥が鳴く、晴れやかな朝だった。起きてすぐ、何をするよりも早く普段の習慣で剣を磨いた。騎士の魂である剣の汚れは、自分の汚れ。そう父に厳しく教え込まれたからである。

 それから身嗜みを整え、家族で朝食を取った。

「エリーゼ。今日は騎士試験の合格発表だな」

「はい、父上」

 エリーゼの父、ヴァーツラフは500年以上の歴史を持つルクスブルク家の当主であり、厳格で質実剛健な騎士である。優しい人間とは言えなかったが、エリーゼは幼い頃から父親の事を尊敬してきた。そんな父と同じ仕事がしたい一心で、13歳の頃から騎士学校に通っていた。そして18歳になるまでの青春を全て修行に費やしてきた結果が、今日の昼に出るのだ。

 先日行われた試験に合格することができれば、晴れて騎士の称号を与えられる。エリーゼはそれが楽しみで仕方なかった。

 幼少のころから、父はエリーゼと会話を交わそうとしなかった。家族の中で親しく話すのは、同じ騎士であり部下でもある長兄・ラインハルトだけである。商人になって家を出て行った次兄・サイモンのことは「妥協した愚か者」と一蹴し、縁を切った。

(きっと、騎士としての価値観を共有できないとダメなのだ)

 そう思ったからこそ、エリーゼは騎士を志した。そして、父に認めてもらいたかった。

 昼、自慢の愛馬に跨って試験場に赴いた。

 そこかしこに馬が止められており、結果を待っていられない同級生たちが、自分と同じように駆けつけてきている様子が見えた。

「よう、エリーゼ。遅かったじゃないか」

 同じように期待に胸を膨らませた青年、フランツが手を振って近付いてくる。

「フン。尻尾を巻いて逃げ出したかと思っていたぞ、フランツ」

 エリーゼは余裕の笑みを浮かべる。

 エリーゼとフランツは、騎士学校でのライバル同士だった。互角の実力と頭脳を持ち、常に一位と二位を争い合っていた。

「悪いが、今回の試験は俺の勝ちだ。座学であんなに頭が冴えわたっていた時は無かったんでな」

「それを言うなら私の勝ちだと言わせてもらう。馬上試合での技の切れは、人生で最高だった」

 二人は言い合いながらも、どこか上の空だった。結果が気になって舌戦にも身が入らないのだ。

「来た」

 フランツが、厚い扉の向こうから出てきた、巨大な板を持ってきた二人組の兵隊に指を差す。兵隊は慣れた手つきで土の地面にその板の柱を差し、固定する。

「ごくっ……」

 誰もが食い入るように板を見る。自分の名前がどこに刻まれているのかを探しているのだ。

 いち早くフランツが笑みを浮かべた。

「ははっ……俺が一位! 主席だ!」

 長年のライバルに勝利したことを自慢したくて、エリーゼの方を見た。

「……」

 エリーゼはガラスのように澄んだ目を細かく動かし、板を隅から隅まで見ている。無いのだ。自分の名前が、どこにも。

 主席はフランツ。二位にも自分の名前がない。10位以内に食い込んでいないのが残念だとか、そんな事を言っている場合ではない。どこだ。私の名前はどこだ。今度は最下位から順番に、丁寧に名前を追っていく。無い。無い。無い!

 五分は見ていただろうか。

「なあ……フランツ、私は……何位だったんだ? おかしいんだ……名前が見つからないんだ……。あはは、変だな……緊張で目がおかしくなったのだろうか」

「……目を覚ませよ、エリーゼ・ルクスブルク。あばよ。もうお前と争わないのかと思うと、残念だぜ」

 フランツは肩を軽く叩き、苦々し気な顔で踵を返した。

 空が曇り始めていた。

 エリーゼは会場から誰もいなくなるまで名前を探し続けたが、しかし、ついにエリーゼ・ルクスブルクという文字列を探すことは出来なかった。

 覚束ない足取りで家に帰ると、冷たい目をしたヴァーツラフが待っていた。

「ち……ちちうえ」

 顎ががくがくと震え、歯が細かく音を立てている。

「帰りが遅いので執事に結果を確認させた。落ちたのだな」

「あ……わ、私は」

「試験官に理由を聞いたが……試験後の誘いを断ったそうだな」

 エリーゼは泣きそうな顔で頷く。

 確かにエリーゼは当日、確かな手ごたえを感じた。合格を確信して帰路に着こうとしたとき、中年の試験官が話しかけてきた。

「いやあ、見事だった。女性騎士としては最高の結果を出したかもしれんな」

「はい、ありがとうございます!」

「ところで今夜、食事などどうかね? 将来有望な騎士の門出を祝わせてくれたまえ」

「……え?」

 エリーゼは答えに困ってしまった。試験官を務めた男が肩を竦める。

「この私に任せろと言っているのだ。そうすれば主席を約束しよう」

「えっと……おっしゃる意味が……」

「鈍い奴だ。女としての価値も試験してやろうと言っているのだよ」

 その時、全身を悪寒が駆け抜ける感覚がした。

「お、お断りします! 私は娼婦ではなく騎士としてこの試験に臨みましたので。お気遣い感謝しますが、これで失礼いたします」

「……後悔することになるぞ」

 エリーゼは敬礼し、早足で去った。

 その時の悪寒が、鮮明に蘇る。まさか、後悔とはこういう形でのことだったのか。

 ヴァーツラフは深く落胆したように溜息を吐く。

「つまり、お前はわが身の可愛さのために試験の手を抜いたという事だ。騎士になる以上、国家の危機に直面することもある。そういう時にお前は国家の為に身を捧げるのではなく、一人で先に逃げるという事だ」

「し、しかし父上! 私はそのような……操を汚すようなことを……」

「騎士たる女に操など不要‼ その覚悟すらなかったのだ、お前という女は」

 ヴァーツラフは懐から小さい麻袋を取り出し、エリーゼの足元に投げつける。金属が石の地面に鈍くぶつかる音がした。

「餞別だ。三カ月は衣食住に困らんだろう。お前の部屋にあるモノは全て持って行け。明日には何もかも処分する」

「え……あ、ご、ごめんなさい……ごめんなさい父上! 私が間違っていました。い、今からでも試験官の方に謝りに……」

「遅い‼ お前のような奴は娘ではない。俺がその首を刎ねる前に何処へでも出て行くことだ」

 エリーゼは頭を殴られたような感覚に襲われながら自室に駆けこんだ。そして愛刀を抱き締め、その恰好のまま玄関まで戻って来た。

 無機質な目をしたヴァーツラフに頭を下げる。

「今まで……お世話になりました」

「二度とその顔を見せるな」

 外は既に雨が降っていた。

 エリーゼはその恰好のまま、当てもなく外を歩き続けた。

(どうしよう……どうしよう……)

 何をしなければならないのか、自分が何をしたいのか、今のエリーゼには分からなかった。何も見えない。

 当てもなく彼女は歩く。足跡だけは一人前だった。

 もしかしたら、後から父が追いかけて来て許してくれるのでは……などと考えて、己の余りの楽観振りに思わず笑ってしまう。

 視界が薄暗くなってくる中、普段行ったことのないような、スラム街のような場所に辿り着いた。

 雨ですっかり身体が冷えたのか、指先が小さく震える。

 ――頬が濡れているのは雨のせいだ。そうだ、それに違いない。ここで泣いたら、父上に見捨てられる。だから私は泣いていない。

 小石に躓き、エリーゼは派手に転んでしまう。

 まだだ。泣いて堪るか。

 ぽたぽた、と土の地面に雫が落ちる。顔に付いた泥を拭うと、雨の勢いが一層強くなった気がした。これは雨だ。雨なんだ。

 廃屋の壁に背中を預ける。自分が来た道をちらと見ると、誰も追いかけて来ていないことが分かった。本当に、捨てられたのだ。

 もう、誰も自分を必要としていない。存在すら許されていない。もはや雨だと強がれない量の涙が溢れてくる。消えてしまいたい。このまま、ここで凍死してしまいたい。エリーゼの中で生存への欲求が消えうせようとしていたその時だった。

「酷い格好だ」

 雨が、止んだ。

 低く、落ち着いた声が聞こえた。見上げると、エリーゼの目の前に軍人のような格好をした男が立ち、傘を構えて雨を防いでくれていた。

「それに、酷い顔だ」

 男は表情を変えずにそう言う。

「帰る家が無いのか?」

 エリーゼが俯いた。

「ならば来い」

「……結構だ」

 エリーゼは掠れた涙声をやっとの思いで絞り出す。極めて不愛想で、傘を差してくれた人間に向けるような言葉ではない。

 男は傘を下げ、溜息を吐いた。

(礼を言うべきだった……。でも、ダメなんだ。そんな気力すら、湧かない……)

 エリーゼが口惜しさに唇を噛み締める。

 だが、親切な男は大雨が降る中でエリーゼの横に腰を下ろした。

「これは失敬した。先ほどの態度は偉ぶるに過ぎていたな」

「……っ」

「しかし、こんなところでは風邪を引くぞ、レディ。どうだ? 暖かいスープの一杯でも馳走させて、男の顔を立てては貰えないだろうか?」

「なんで……見ず知らずの私に……」

「そうすべきだと思ったからだ」

 そう言うと、男はエリーゼを抱えて歩き始めた。

 雨はまだ、止みそうにない。彼の足跡を、ぐちゃぐちゃの土がしっかりと刻んでいた。

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