二章 悲しみが宿る前に
第6話 沈黙
彼女がいた日常は、何色もの宝石を宙に散りばめたように、きらきらと輝いていたことに、僕は今更気づいた。本当に大事なものは、いなくなった後に気づく、そんな当たり前なことが、僕には分かっていなかった。今、僕が生きている、いや、今僕は生きているのかさえ分からないが、日常は味気なく、目に映る景色は、名作映画のように白黒だった。
「・・・」
僕はここ数日、声を出すこともなく、じっと、薄暗く重苦しい空気が漂う部屋の中で、一人、塞ぎ込んでいた。あらゆることに関心が持てない今は、きっと、目の前で人が死に瀕していても、その人を助けようとはしないだろう。千尋が死んだ世界は、あらゆることがどうでもいい。
誰が入ってこようが干渉する気がなかった僕は、玄関の扉の鍵を閉めずにそのままにしていた。そこから、僕にばれないように、というつもりを一切感じさせずに、声を出しながら、一人、女性が入ってきた。
「は」
僕は顔をうつぶせ、目を閉じている。だから、今、その女性がどんな行動を起こしているか正確には分からないが、彼女は、僕を気遣うことなく嘲け笑った。
「ったく、うだうだしやがって、女々しいったらねぇな」
僕は何も言わない。その声と口調で、彼女が誰だか分かったが、今は誰とも話す気にはなれない。僕は体制を微塵も変えず、置物のようにその場に留まった。
あ~あ、駄目になってやがる。そんな声が、台所から聞こえた。彼女は僕に一言述べた後で、台所へと向かったようだった。少しすると、ガスのぼっという音がして、とんとんと一定のリズムがなり、ぐつぐつと、料理を作っている音が、香りとともに聞こえてきた。5分ほどたっただろうか、食べな、という声を添えて、料理が運ばれてきた。僕は薄目でそれを確認する。
がしゃんという音がなり、何かが転げ落ちる音がした。情緒が不安定で、まともな理性など持ち合わせていない今の僕は、彼女が作ってくれた料理を見るやいなや、すぐさま手で払い、地面へと落とした。いつもならやらないこんな行動も、蚊を手で潰すときのように、まったく心は痛まなかった。
「・・・」
声は聞こえてこなかった。気まずさではない沈黙が、場を支配した。これは、もう帰ってくれという、僕なりのメッセージだった。怒るといった感情を表してこないことから、彼女は納得してくれたのだろうと思ったが、次に彼女から出た言葉は、つい先ほど聞いたものだった。
「食べな」
彼女は地面に落ちた米やおかずなど、味噌汁のように液体ではないものを拾い、もう一度皿に盛り付けた。ずっと部屋の掃除をしていない床に落ちた食べ物に、埃が付いていることは、子供がつく嘘よりも余程明らかだった。
僕は顔をあげ、彼女に物申そうとした。心無い一言でもぶつけて、帰ってもらおうとした。しかし、僕が顔をあげたその一瞬は、百人一首の札が読まれる時のように、彼女にとって狙い済まされたものだった。
「・・・っ」
僕の、文字通り目の前にやってきたのは、彼女が今まさに作った味噌汁だった。僕が払い僅かだけ残った味噌汁のお椀を持って、凄い勢いで僕に押し付けてきた。僕の体は後ろに飛ばされるように倒れた。
「・・・どうだ」
痛さとか、熱さとか、怒りとか、戸惑いとか、僕が最初に感じたのはそういったものではなく、意外にも、美味しさだった。閉ざした筈の口に、ほんのわずかの味噌汁が入ってきた。
「・・・旨い」
僕は言った。
「だろ?」
楓は笑った。
いいから食えよ。楓は言った。想像もしなかった行動を身に浴びたからか、僕は素直に従った。
「冷蔵庫見る限り、ここ最近、全然飯食ってねぇんだろ。腐ってたのもあったし」
僕は千尋が死んでから、一切食事を取っていない。水も取っていない。
「・・・痩せたな、随分」
楓は、僕の顔を久しぶりにきちんと見て言った。楓の顔は物悲しそうだった。食え、足りないならまだ作ってやる、楓は言った。もう餓死してもいいと思っていた僕だったが、体の方は正直で、待てを解かれた犬のように、一度食べ始めるとそのまま食べ続けた。しかし、冷静になって考えると、やはり、どうしても人と会う気分でない僕は、楓が作った料理を食べ終えて、おかわりをもらうこともなく、感謝を述べることもなく、帰ってくれ、と言った。
「・・・頼むから」
楓は僕の事情を知っている。だから、聞いてくれると思った。ここから出ていってくれると。だが、楓は再び僕の予想を反した。
「来い!」
楓は無理やり僕の手を引き、僕を玄関の外へと引っ張った。遊びが我慢できないわんぱくな少年のように、僕と楓は靴を履くこともなく外へと飛び出す。もう時間は黄昏時だった。楓に振り回されて、白黒だった世界が、ほんの少しだけ色みがかった気がした。
僕は楓に引っ張られ、なすがままに連れ回された。楓は僕の手を強く握り、逃げられないように施した。僕は楓の後を追い、久しぶりに走った。風を感じる。全身を縛る思い鎧が、ゆっくりと吹き飛んでいくようだった。全力疾走で駆けていく楓は、ミステリーツアーのように、僕の目的地を教えることなく、ひたすらに進んだ。じっと動かないでいた体は、本当は躍動したかったと主張するように、疲れて立ち止まることなく進んだ。楓は僕を引き、坂道を登る。あ。僕は小さな吐息を出した。坂道を全力で駆け上がる楓は、無邪気な子供のように、楽しそうに笑っていた。
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