第3話 感想を聞かせて

 小・中・高と女子校に通った女子みたいな、初心で純粋ではない僕は、当然ながら、今、真紀が言った、抱いて、の意味が、外国人の挨拶を一例とした、抱擁ではないことは分かっていた。

「・・・ねぇ」

真紀はもう一度、僕に密着してくる。最初も緊張はしたが、ふとしたことで人が一皮むけるのと同じく、真紀がまるで別人じゃないかと感じるほどに、今の僕の胸の高鳴りは激しかった。

「・・・お願い」

意識するとしないでは、こうも差があるのかと実感するほどに、真紀の体の、言わば女の子の香りとでも言えばいいのか、また、柔らかく、男のそれとは確実に違う柔肌も、僕に男を感じさせた。


「・・・っ」

真紀は驚いた顔を見せた。僕は真紀の両肩を両手を使って掴み、ばっと、実際にはそれほど強い勢いではないが、腕を伸ばし僕と距離を置いた。

「・・・なんてね」

真紀は、これは冗談だよ、と含意する言葉を言ったが、それは仕方なしに、僕の反応を見た、苦肉の発言だったということはすぐに分かった。

「やっぱり、だめかぁ・・・」

真紀は少し悲しそうに言った。

「薄々は、分かっていたんだけどね・・・。やっぱり、あなたの中にはまだ、千尋が生きているんだね」

悔しい、真紀は付け加えた。

「私はまだ、千尋に勝てないんだ」


 僕のやったことは、もしかしたら最低なことだったのかもしれない。女の子にとって、真紀にとって、僕にした告白と、その後の発言は、きっと、とても勇気がいるもので、僕はそれを断ったのだから。男らしく、すっと、ではなくて、胸の鼓動を速め、揺れ動いた後に。そんな、自分がした行動によって、真紀を傷つけたことは、真紀が泣きそうな顔を浮かべたことから見て取れた。そんな彼女の顔が見たくないという、子供が親にする駄々と変わらない我がままで、僕は今度はばっと、強い勢いでばっと、真紀を抱きしめた。

「・・・真紀」

自分の体に二つの柔らかいものが当たっていることも、僕は気にしなかった。

「確かに、僕はまだ、あいつのことを引きずっている。だから、お前の気持ちには応えられない。でも・・・」

謝罪の気持ちが、必ずしも相手の心を静めるとは限らない。厳しい言葉が、必ずしも相手の心を沈めるとは限らない。感謝の気持ちが、必ずしも相手の心を納得させるとは限らない。それでも、僕は今、この言葉しか思いつかなかった。

「ありがとう。嬉しかった」

嘘じゃなかった。

「・・・ばか」

顔は見えないが、笑ってくれているような、そんな調子の声だった。


 咄嗟に僕は抱きしめてしまったので、真紀も苦しいかもしれないと、僕は回している腕を解こうとした。すると、いつの間にか真紀も僕の胴に腕を回していたので、僕は、真紀が落ち着くまでずっとこのままでいることにした。時間にして、五分くらいだったろうか。真紀は、僕から離れた。

「ごめんね、時間、ないのに」

ああ、そうだったと、時間のことを忘れるほど、僕は優しく真紀を抱きしめていた。

「そろそろ、帰ろうかな」

そう言って、真紀は玄関の方へと歩き出した。とは言っても、ものの数秒で着いてしまう距離ではある。僕は、一口もらっていいか、と聞いた。せっかく作ってくれたのだから、料理の味の感想を言いたかった。

「・・・一口、か」

真紀の答えを道端に立っている案山子のようにじっと動かず待っていた僕は、急な真紀の行動に、少しも反応できなかった。

「・・・!」


「はい、一口」

真紀は笑いながら、微笑みながら言った。僕の唇を奪った後で。

「私、まだ諦めないからね」

僕は呆気にとられて、しばらく動けなかった。

「私、もう帰るけど」

そんな僕を後目に、真紀は玄関の扉を開けた。後から考えれば、真紀なりのちょっとした、僕に対する復讐だったのかもしれない。

「今度、会ったとき、感想聞かせてね」

真紀はほんの少しだけ、今度、という部分を強調して言った気がした。真紀も、僕の事情は知っている。今度なんて無い事も、知っている。それでもあえて、真紀は言った。これは、真紀なりの、僕に対する励ましの言葉だったのかもしれない。

「料理の味と・・・」


「・・・私の、ファーストキスの味」


そう言って、真紀は出て行った。僕は一人、まだ心をふわふわさせながら、テーブルの側の座椅子に座った。真紀が作ってくれた料理は、定番の、肉じゃがだった。

「・・・ん」

僕は少し、顔を曇らせた。真紀は、暇だったからと、まるで僕がいなかったから思いついたかのように料理を作ることにした、と言ったが、考えてみれば、僕の冷蔵庫の中に、食材は一切入っていないんだった。もう要らないから。ならば、料理を作るためには、真紀が自ら食材を持ってくるしかない。この肉じゃがは、最初から、真紀が作ろうとしていたものだった。そんな肉じゃがに、人参が入っている。オレンジ色で、一人制服の違う転校生が如く目立っているそれは、嫌でも目に入った。良い歳をして、人参嫌いなんて恰好がつかないが、嫌なものは仕方がない。

「はぁ」

僕は溜息をついた。思えば、結局は真紀に振り回された気がする。真紀も僕の人参嫌いは知っているから。僕は箸で小さく切られた人参の一つを取り、それを他の皿に移すことなく、口に運んだ。

「・・・まずい」

僕は声に出して言った。真紀に対する、ささやかな反撃だった。

「・・・でも、味付けはいいな」

僕は綺麗に、肉じゃがをすべてたいらげた。

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