第2話 純潔と料理

 外に出たのは、外の空気を吸いたかったからだった。公園まで行ったのは、じっとしておくことにつまらなさを覚えたからだった。健二は僕の顔を見て、覚悟を決めたと評したが、真に覚悟があるものなら、きっと無駄な動きなんてせずに、家でじっとその時がくるまで待っているんだろうと、帰りの道中思った。

 

 家に着いた。僕はアパートに一人で住んでいる。一階に四部屋、二階に四部屋の、計八部屋の小さなアパートで、僕の部屋は二階だった。階段を一段ずつあがってすぐの部屋だ。いつもなら、階段を上がる際中に何も感じないが、その時は、嫌な予感がしたとか、そういう第六感的なものではなく、単純に、視覚的に、異変を感じた。部屋の電気が点いている。このアパートは、全部で部屋が8つあるけれど、僕以外誰も住んでいない。だから、他の部屋の住人が来る線はなかった。普通なら、一体誰が、と不安を覚えるべきだろうが、僕は何も気にすることなく玄関の扉を開けた。そもそも鍵をかけることなく出たので、家に人が入る可能性は十分にあり得た。


 僕が部屋に入って真っ先に感じたのは、空き巣、もしくは泥棒と鉢合わせして、殺されるといった恐怖ではなく、良い匂いがしているという嗅覚だった。靴を脱いで、まっすぐにリビングへと向かう。台所、トイレ、風呂場、そして小さな、でも一人で暮らすには十分なリビングがあるというのが、僕の家の構成だ。

「・・・おかえり」

女の人の声がした。僕は結婚していないし、彼女もいないが、その女性は僕の知り合いだった。

「・・・真紀」

健二のときとは違い、僕は普通に驚いた。不登校だった子が、急に学校に来たような感覚だった。

「遅かったね。どこ行ってたの」

本来なら真紀が質問する前に、僕がどうして真紀がここにいるのかを質問すべきだと思うが、真紀の、自由奔放というか、つかみどころがない性格を考えると、家にいる理由も後回しで良い気もしてくる。公園だよ、近くの。僕は答えた。ああ、あそこね。真紀は返した。

「ちょっと話したかったから家訪ねたんだけどいなくて。鍵、空いてたからすぐ帰ってくるかなと思って家に上がってた」

僕が質問する前に真紀が説明してくれた。

「で、これは?」

だから、僕は違う質問を投げかけた。リビングにある小さなテーブルに、今作ったであろう料理が置いてあった。


「待つのも暇だったから、作っちゃった。お夜食、好きなときに食べて」

「料理、できたのか」

僕の口から出た言葉はそれだった。へへ、知らなかったでしょ?真紀はにやっと笑いながら言った。真紀が料理をするなんて、地球が完全な球ではなく楕円球であることを知ったときくらい驚いた。

「女の子っていうのはね、陰で努力してるんだよ?」

男も努力はするだろう、と言おうとも思ったが、野暮な気もしたので止めた。料理は味だ、と少なくとも思っているのでまだ断定はできないが、匂い、及び見た目は、食欲をそそられるには十分だったので、素直に感心する、と僕は真紀を褒めた。

「ありがと」

真紀は嬉しそうに笑った。


「食べてもいいか?」

そう言えば、小腹がすいていた。真紀自身が好きな時と言っていたから、確認する必要もない気もするが、僕は一応聞いた。

「・・・待って」

ところが、真紀は僕の動きを制止した。テーブルにつこうと真紀の側を通ろうとしたとき、真紀は僕の体をぎゅっと抱きしめてきた。

「真紀・・・?」

僕は思わず疑問符を浮かべた。真紀の顔が僕の胸に埋まっている。

「私ね・・・」

そのままの体制で、真紀は話し出した。黙って聞いて、何て言われなかったが、自分の主張をぐっと抑える方が物事がよく回るときのように、僕は空気を読んだ。

「決めてたんだ」

真紀はゆっくり、言葉ひとつひとつを噛みしめるように言った。それは、心地の良いピアノの音色のように、心にすっと入ってくるものだった。

「初めて料理を作るのは、私が好きな人だって」


「ねぇ」

真紀は僕の名前を呼ぶ。

「私、あなたが好き」

真紀は照れからか、僕に目を合わせることなく、そのままの体制で言った。人に大事なことを伝えるときは、まっすぐ人の目を見て言いなさい、なんて、教育として多くの人が教えられることだと思うが、法律が正しいとは限らないように、教育されることすべてが正しいとは限らない。事実、僕は目を見られずに助かっていた。僕の今の顔は、きっと、照れくさく、見るに堪えないものになっている。

「・・・あ」

こんな夜中の、周りに何の雑音もない空間。花火大会も行われていない所で、僕が真紀の言葉を聞き逃すはずがなかった。


「ふふ、びっくりした?」

真紀は僕から離れ、無邪気に笑って見せた。冗談だよ、という言葉は、びっくりした、の前にも後にも付随することはなかった。笑っていても、若干赤らめている顔を見て、嘘ではないことが容易に分かった。

「・・・ああ、びっくり、した・・・」

そのまま質問を反復することしかできないことからも、僕は戸惑っていた。

「ねぇ」

でも、そんな僕の都合など考慮することなく、真紀は話を進めた。


「私のこと、抱いてくれないかな?」

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