第7話 絵画盗難捜査 2

 陽炎の指示の下、怪我人は病院に搬送され、残った鑑識が慌ただしく仕事を続けていた。

 杏はスマホで現場の写真を撮りながら、思考を組み立てた。

 額縁ごと奪われた絵画のあった壁には四隅を留めていたネジとセンサーの跡が荒く付いていた。その傍らには何らかの道具の跡もある。傷の形から棒状のものだろう。

 最高でゼロが八つ並ぶ絵なら動機はおそらく金儲けかコレクションの二択が有力だ。

 だが、どうやって絵を運び出したのだろうか。縦54センチ横78センチくらいの大きな絵画を持っていたらかなり目立つはず。正面から出られるわけが無いし、裏口はセキュリティシステムが障害になる。目立たずに逃げるならどうすればいいか──……


 杏は一度離れたところから壁を見た。

 痛々しく傷の残った壁はまた使われる時を静かに待っていた。たった一枚の絵を飾るために作られたスペースというのもなかなかに滑稽なものだ。しかし、それだからこそ絵画の魅力が引き立ったのか。


「…………『死者の歌声』、なぁ」


 杏はプレートに刻まれたタイトルをなぞって呟いた。

 てっきり『水』がテーマだと思っていたが、まさか『死』だったとは。つまり滝壺に浮かんでいた竪琴が『死者』を表し、自然は耳を傾ける『生者』か。

 脳裏に焼き付いたあの絵の美しさは確かに見る人全てを虜にする。本能的に惹きつけて魂に訴えかける。

 芸術にさほど興味の無い杏さえその美しさと魅力を知った。『創造主ダ・ヴィンチ』の魔法ともいえるその能力ちからに屈さぬ人がいるとは思えない。彼の絵画を欲する人の気持ちがよく解る。全財産を投げだしても後悔しないくらい素晴らしい絵だ。

 耳の奥で竪琴の音と自然のさざめきが聴こえた。それはまるで歌う竪琴を称えているようで。

 ――聴覚が反応するくらい、すごいっちゅ―ことやな。



「こらぁ!やめなさいっ!!」



 不意にひととせが叫んだ。杏が反射的に振り返ると、絵馬が窓ガラスに絵を描いていた。左手をパレットみたいに使い、細い筆を使い分けてこれまた見事な五重塔を描く。細部まで丁寧に色を重ね、本物のように――



「いや描くなや!いつの間に描いてんねん!」



 絵馬が五重塔の周りに中世ヨーロッパの街や竹薮たけやぶを描き始めた辺りで筆を奪い取った。だが絵馬はベレー帽から短い筆を出して続行する。

「やめろォ言うてるやんけ!」

「杏ちゃん、絵馬くんから目を離したら駄目だよ。勝手に動くから」

「知っててんけど、捜査してたからうっかり……」

「まぁ、俺も別行動したからこれ以上言わないけどさ……。こら、やめなさいってば。公共施設だって言ってるだろ」

「…………水性アクリル絵の具だもん」

「じゃあ洗えば落ちるか」

「だとしても止めろや」


 ついでに窓の外に目をやった。事情聴取のために残され、溢れかえっていた来場客は一人もいなくなっていた。


「アレ、帰ってもーた!?」

「帰したぞ。必要なことは聞いたでな」


 陽炎が新戸を連れて戻ってきた。

 凝り固まった肩をぐるぐると回し、懐から畳んだ和紙を広げた。


「事件当時の状況はお主たちの報告とほぼ同じじゃ。待機中に不審人物は見ておらん。清掃業者の車が一台来ただけじゃ」

 続いて新戸が手帳を開き、報告をした。

「科捜研からの報告で、スプレー缶は発煙弾であることが判明しました。壁付近に落ちていた粉末は塗料で、杖などに使われているもだと」


 ──やっぱりあのじいさんか。


 ひととせはメモしたスプレー缶のメーカー名を確認した。

「あれが発煙弾ですか?一般の消臭剤メーカー名があったんですけど」

「どうやら改造して作ったみたいです。面白いことに、爆発して破片が飛ばないようになっているんですよ。作った方はかなりの専門知識と技術を持っていますね」

「カメラの映像も白くなってて何も映っていません。絵画の上に設置していたカメラが額縁が外れる映像を一瞬残したくらいで」

 陽炎は少し考える仕草をすると、杏に目を向けた。また少し考え、袖をパタパタと振った。


「追跡した道順は覚えとるかの?」


 杏は頷いて三人を案内する。だが、コーナーを出るなり足元に鉛のような重い感覚が当たった。目線を落とすと、数十分前に気絶させた警備員がまだ倒れていた。

 陽炎は警備員の首に指を当て、杏を見上げた。

 杏は目を泳がせて拳銃を叩いた。

 陽炎はさすがに笑えず、杏の額に軽く中指を弾いた。ひととせは警備員の服をめくって火傷の痕を確認し、救急車を呼んだ。

「気をつけよ、と言うとるじゃろうが。支給の拳銃とて危険な品じゃぞ」

「コレうちが持ってるヤツより威力弱いねん。それに飛距離も速度もいまひとつやから、えっとな、その……はぁい。気をつけます」

 杏は警備員を隅に運んで案内を再開した。


 ***


 室内に乱立するオブジェのコーナー。

 あの時はちゃんと見ていなかったが、炎のようにしなやかな形の青い作品や絶妙なバランスで立つ木工作品があり、正直なところしっかり見ても理解出来なかった。

 杏はオブジェの隙間という隙間を縫うように歩き、催涙スプレーを吹き付けられた所で足を止めた。

「すんません。ここまでしか追えてまへん」

「ここまでか。じゃがなかなか長い距離を追ったものじゃな」

 陽炎は館内地図を開き、現在地を確かめた。

 犯行現場から生け花のコーナーを抜けて陶芸のブースを曲がり、彫刻の回廊を過ぎてこのオブジェコーナーに着く。美術館内は広く、オブジェが置けるくらいなのだから距離だって相当あるはず。

 新戸は地図の距離を確認して杏に感心した。

「よく体力が持ちましたね。頭に栄養が回ってないだけ有り余ってるんでしょうか」

 だが、嫌味が混ざってどうにも喜べない。悪気がある無いに関わらず、新戸に怒りが湧く。


「いらちくるエテ公やな。自分、器こんまいんとちゃうか?」


「はっ?いらち……?」


 頬を膨らませ、嫌味で返す。意味が分からない新戸を陽炎は堪えきれずに笑った。ひととせは咳払いで笑いを誤魔化した。

 新戸はニュアンスで「馬鹿にされている」と理解し、杏に言い返そうと口を開いた。

 その口を陽炎が地図を丸めて突っ込み塞いだ。

「犯人はどっち側に逃げたんだ?」

 ひととせに尋ねられ、杏は関係者入り口のある通路を指さした。

「多分そっち側や。左に行っても行き止まりやし」

「ということは、犯人は関係者入り口から出入り出来る人間……」

「事務所に確認しに行こか」

「げほっ……。わ、私が行きます」

 新戸が胸を押さえて言った。

 吐き出した地図をポケットに入れ、そのまま事務所の方へ歩いていく。陽炎は手を振って見送ると、踵を返して歩き出した。

「どこ行かれるんですか?」

 杏が聞くと、陽炎は袖を振った。



「絵馬に事情聴取せんとな」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る