イデラでプロポーズした男が、上官に頭の上がらない訳


 ヤナイの町を北へ抜け、海岸沿いに牧草地を半日ほど馬車に揺られると、潮騒に包まれたイデラの町並みが旅人を出迎える。

 上質な漁場たる岩礁。そこから乳を食んで大きく育った石造りの街も、海を仕事場とする荒くれが食らう酒のせいで胃の腑をやられ、近頃では過去の栄光にすがり愚痴ばかり吐くろくでなしへとなり下がった。

 ゆえに石造りの景観は、中央の富裕層が過去にしがみつくようにそれを保つのみとなり、新参や若者たちは潮風におかまいなしとばかりに粗悪な木造りのあばら家を臆面もなく立ち並ベているのだ。


 かつては気に入りの休暇旅行先だったこの町だが、白い石材に包まれた甘い思い出は、十数年の間に黒ずんだ木板と嬌声とに塗り替えらていた。

 それだけの夏草を彼の地に踏んで過ごしていたことに、後悔は先に立たぬものと知る私だった。


「……薦めと言うから付き合ってやったが、随分と貧相な店ではないか」


 そんな町に、久々に訪れる機会が私に与えられたものだが、この仕打ちを福音と呼ぶにはいささか抵抗がある。

 向かいにエールを傾ける者が居辛そうにされるでは、こちらも腰の得物を外す気すら湧かないではないか。


 ――所領として迎えたいと、領主様がご所望されたデュラバルデュッケ。

 まずは誼を得るべしと使者の任を受けたのは、私と、そしてぬめりの絶えない木製のテーブルを挟んで座る上官との二人だった。

 年端も行かぬ女性を上官と呼ぶには未だに慣れぬが、剣闘会にて私の首元に二度もシミターの刃を突き付けた腕前は本物。

 永きの風習を違えること無く、彼女が私の上に立つことになったのだ。


 窓には天の帳が薄紫に靡き、夕涼みを運んでいた扉も閉じられて久しい。

 おかげで数軒先の木板酒場が発していた不快極まりない嬌声も届くことが無くなったのが、目下針の筵にある私にとって唯一の救い。


 彼らにとって石造りの建物とは、お高くとまった口うるさい老人。

 目の上の瘤ではあるが、まんじりとするばかりの先人をわざわざ刺激して起こす必要はないと、それなり線を引いて足を踏み入れることなく暮らしているそうだ。



 潮と脂に黒ずんだテーブル。

 上官のため息というエッセンスが否応なしに色彩を濁らせた皿の上には新鮮な海の幸が並ぶが、どれもかつてのような上品なハーブの香りは無く、流行りの下品な香辛料で赤く色付けされているようだ。

 私はグリルされたエビにナイフを入れて、慌ててそれをエールで胃に流し込む。


 なんとひどい味か。


 きっと時がこの町を、この料理を変えてしまったのだ。

 そして私の中にあるこの町もまた、時と共に美化されていったに違いない。

 記憶の中ではこの味が、豊潤な甘さと妙なる香味に包まれているというのに。

 現実にはこの通り、上官ばかりか、私自身もお世辞すら絞り出すこと能わない。


「一体、この店の何がお勧めだというのかね?」


 上官は私の様子を見て、供された姿のままの二皿目に、フォークとナイフを揃え置きながら問うてきた。


 こうなっては仕方がない。

 私はため息と共に、この店と自分とを弁護するため、真実を口にした。


「……ここは二十年ほど昔、私がプロポーズした、思い出の店だ」


 上官の柳眉は一瞬跳ねあがり、そして後に柔らかく三日月を形作る。

 私の思い出は心根の優しい彼女から悪態を奪い去り、そしてほんの一口だけ、そのレモンリーフのような瑞々しい唇にエビを運ばせるに至ったのだ。



 一昨日より別行動をとっていた我々がヤナイの外縁部で落ち合ったのは、昼下がりの事だった。

 私がデュラバルデュッケの『作られた神秘』に翻弄されている間にも、彼女はヤナイの市場を調べあげ、脱税や不当賃金など五件にも及ぶ不正を摘発していた。

 中でも、女性に対して過酷な労働を強いる節がある市場に対してはその場で行政指導を行い、領主様直属の上級武官として申し分のない働きを見せていたようだ。


 焦る気持ちはあれど、誇らしくもある。

 我が所領は、彼女さえいれば次なる世代に胸を張って継ぐことが出来よう。


 さればこそ、半年ほど虫歯で苦しんでいる彼女に苦痛を忘れさせようと目論んで案内したものなのだが、彼女の皿は、またもほとんど手つかずのまま下げられる。

 この体たらくに、先ほどから何度も椅子に尻を据え直し、もはや落ち着いて料理を味わうこともできずにいる私だった。


「して、そちらの首尾はどうだったのだ」


 もはやエールだけで空腹を満たしたのであろう、次の皿も一瞥したきりの彼女が言う。

 私に気を遣って不満を言の葉に乗せることがない分、却ってその仕草が我が胸をアザミの棘葉で撫でるのだ。


「……領主様の御意に沿うことはできなかった。ただし、この不手際も理由を添えれば容赦をいただけることだろう」

「ふむ」


 エールの代わりとして白ワインをグラスで頼む彼女がそれに口を湿らせるまでたっぷりと間を取り、私は報告を続ける。


「大時代的な生活に、資源や特産もない森。そこに暮らす、独自の風習に縛られし者たち。おおよそ従わせたとしても得るものなど何も無い。あの、魔性を夢で溶いたような場所に化かされることなく戻れたことが奇跡」

「ふざけた男だ。御意も果たさず、命あるのをそこまで祝うか」

「御意については話した通り、所領として払う物の方が遥かに勝る土地なれば、領主様も御意思を翻すことになろう。そして命については察して欲しい。大事な家族と再び会えるということがどれだけ嬉しいか」


 私の弁にかぶりを振って、グラスを卓へと置く仕草。

 かつて、あの晩にも見た覚えがある。

 この不機嫌を覆して求婚へと持って行った手管はいかようなものだったか。

 思い出せるはずもない過去を探る私の耳に、上官たる威厳が示された。


「任務はほぼ失敗ではないか。領主様になんと申し開く気だ」

「なんとも何も、ありのままを話すのみ。彼の地は訪れた物好きから金をだまし取り、そのいくばくかの金子を頼りに月に一度ほど山を降りては市場で雑貨を買う程度の村。領主様の遠大な視野にあって、小シミにすらならぬ」


 私の説明に嘆息するばかりの彼女は、給仕が皿を下げて良いものか少し戸惑っているのを見て咳払いと共に居住まいを正す。

 そして虫歯のせいで食が進まぬようだと伝えて納得させて、皿をデザートへと進ませると、再び私に問いかけた。


「金をだまし取るとはどういうことだ。看過できんではないか」

「いや、さほど悪質ではない。名ばかりの伝説に仕掛けして、それに気付かぬ者から情報料を巻き上げるという寸法だった」

「む? ……詳しく」

「彼の地にある祭壇に眠り、見る夢によって願いが叶うという夢物語。そして遊びとして仕掛けられた話は、夢の中に鎌が現れたら、誰もがその場で魂を抜かれて消えてしまったという件だ」

「バカなことを。今死んだ者が見ていた夢を、どうして知ることができる」

「然り。せっかく伝説にすがろうとしていたところを、その遊びに気付いて落胆したものだ」

「……待て。今、何と言った? 伝説にすがろうとしていただと?」


 しまった。

 私も食事すらままならぬままエールばかり既に三杯目。

 羽目が口にしっかりとかかっていなかったようだ。


 眉根がきつく寄った上官に逆らうなどできん。

 開いていた口には、蠅が入るのが道理というものだ。


 私は諦めを鼻から吐き出し、事情を白状することにした。


「どうしても叶えたいことがあり、まんまと夢の効果にそいつを上げられたのだ」

「なんとだらしのない。それで妖に命を託そうとしたのか」

「まあ、鎌の件ですぐに気付けたのだがな。その悪ふざけた仕掛けが無ければ、私は何としても貝の夢を見るべく幾夜もそこに眠り続けることになっただろう」


 度が過ぎた呆れは、正しき思考を変貌させるのだろうか。

 かぶりを振るばかりの彼女は迂闊にも果物のシロップ漬けを口にして、盛大に右の頬を押さえ付けてしまった。

 水を勧めたが、ねめつけにて返事され、虫歯の痛みが治まるまでに随分と時間を要することになってしまうのだった。



 ――結局それからはお互いに口を開くこともなく。

 飲み物も残すほどの有様を背にして、重い気を引きずりながら扉へと向かうことになった。


 領主様への報告の際、この厳しくも有能な上官は私の言葉を決して許しはしないだろう。

 自らの不手際と称し、その責を言い逃れすることなく被る気でいるのだろう。


 いくら私が領主様を納得させる弁を備えていても、振るう事の出来ぬ鞭ではその御心に届くはずはない。

 さて、どうしたものか。


 だが、悩む私に、慣れた左後ろという角度から声がかけられた。


「……貝の夢を見たら、どんな願いが叶うというのだ」


 これが、地獄から抜ける唯一の橋になるのか。

 そう言えば、あの晩も。

 この扉を開く直前、同じように何かを問われた気がする。


 確か、私は正直にその質問に答え。

 そして、輝くばかりの笑みを手に入れたのだ。


 ……私は過去の自分に倣って。

 ありのままを返事した。


「……家族の病が治るそうだ」

「そうか。…………伝説が出鱈目で、残念だったな」


 そう呟いたまま、私を置いて緑青の浮かぶ扉を開く彼女。

 それが驚いたことに、輝くほどの笑みで振り返る。


 かつて見たそれと寸分違わぬほど輝きに満ち溢れた笑顔は、私の心を鷲掴みにしたまま目を離すことも許さなかった。


「……私も今後は、それほどまでに家族を想うよう心がけるとしよう」



 話して、良かった。

 あなたがそう感じて下さるとは。



 私はいらぬ心配をしていたことを悟り、心の重荷を石の床に落とした心地に満足しながら上官の背を追う。


 小さいと感じていたその背からは、既に頼りがいを感じ取り。

 老兵は、最早席を譲るがよかろうと、口の端を上げながらそう思うに至った。


 闇に呑まれたアドリア海を目指す風が私を抜き去る。

 月に白く浮かぶ静かな石造りの町並みは、今は昔となり、ランタンに彩られた木目から漏れる喧騒が賑やかに響き渡る。


「で? 家族の病とは何のことだ?」


 記憶とは変わってしまった景色だが。

 それを悲しく感じていた我が身だが。


 改めて、この景色を良い物として胸に焼き付けつつ。

 私は上官の問いに返事をした。


「君の虫歯に決まっているだろう」


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