「見た目」と私

以前友人とドライブしていて、「障害者」についての話題になった時のこと。

今は、「養護学校」ではなく「支援学校」っていうようになったんだよね~、と聞かれました。

その時私が「うん。まあ、なんでも名前から変えたがるよね」と返答したんですが、それを聞いた友人に「なんて含蓄(含みがある)コメントなんだ」と言われました。


なんというか、私はいつも「物事の本質を捉えずに見た目だけ変える」傾向を毛嫌いする節があります。もちろん、見た目を変える、ということによる影響は確かにあると感じています(AAAのリーダーが金髪から黒に染めてたけど、あれは金髪のまま謝罪してたらもっとバッシングを受けていると思われる)。だから見た目を変えたほうがいい場面が存在するのも確かだと思います。


ただ、見た目を変えることにそこまで意味がある?と思うようなことも、実はあったりします(あくまで個人的な意見ですが)。今職場では「アルバイトの活気がない」ということで挨拶運動みたいなことをやっています。しかし、挨拶運動を一番ノリノリでやってる人たちは職場内で最もクレームが多い部門、という矛盾があったりします。活気があるところほど職場でふざけているわけです。また、挨拶運動をすることで挨拶をバイトがするようになった、ということをどこで判定するのかも微妙です。結局は個人の感覚ということになります。挨拶を頑張ったところで給料は上がりませんからね。頑張ってることが認められた場合給料が上がる、といったほうがはるかに効果的だというのが私の見解です。


「養護学校」から「支援学校」だったり、「障害者」から「障がい者」だったりというのは、確かに「気持ちの問題」としてそれで楽になる人はいるかもしれません。しかし、それって大人の自己満足だよね。とも思ったりするわけです。確かにお世話をする周りの大人もしんどいですが、それ以上に苦しいのは障害を持っている本人なわけで。本当に彼らのことを想っているのなら、名前を変えるのもいいけど、もっと大事な事(それが何かは人によって異なるものだが)を発信したほうがいいんではないか、と思ったりするものです。という、たわごとをしゃべる余裕はでてきたのかな、という最近の動静でした。

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