-17- 迫る美貌の竜騎姫に対抗せよ!


 牢獄に閉じ込められてから三日が経過した。


 退屈を持て余し、石壁に背を預けたアクネロは光の射しこむ格子窓を見上げた。耳を澄ませ、街の声を聞き取るのが唯一の娯楽だ。


 衛兵所の牢屋は窮屈だ。


 かさかさとしてざらついた黄麻の囚人服を着て番兵からの食事を受け取り、無気力に生きているだけでは、体の不自由な老人になったような感覚に陥る。


 牢屋番の兵は朴訥ぼくとつな男だった。

 相手がファンバード領主だと知って、過度なほど気を遣った。


 雑談に興じることもあり、ディタンが帝国に反旗を翻したことを否定はしなかったが、婉曲な言い回しで恐怖を伝えてきた。


 帝国への帰属意識は希薄だとしても、ルーツバルトへの忠誠が突然ポッと生まれるわけでもない。


 ごく普通に生活している民草は平穏を好む。

 争いごとで自分の生活がおびやかされることを怖れるのは当然だ。


「やべえな、パーティーに間に合わねえ……ていうか、戦争になるから中止だな」


 じゃらりと鈍い鎖を引っ張り、カラッポの手もとを見つめる。


 アクネロには捕虜になった経験がない。

 一応は人質の交換協定があるが、下手をすれば何年、何十年と虜囚生活は続く。


 裏返すと、手の甲には魔剣封じの魔術印ルーンが刻まれている。


 専用の塗料剥がしを使わなければ、しばらくは消えない。


 敵の行動を想像してみる。

 今はこのアイグーンを陸軍が占拠して下地を整えているのだろう。次へ次へと向かうための下準備だ。


 ルーツバルトの先遣隊である赤色竜騎士団は超々高機動部隊だ。

 空路を利用してどこまでも飛んでいくし、並々ならぬ攻撃力も備えている。


 クラーレの出産を契機に国境を越えてきたのは、敵ながら隙のない采配だ。


 竜の生態を熟知しているからこそ、守護者を弱体化させるために産卵をさせ続けたのだ。


 順当に進めば、まとまりのない各独立都市が押し寄せてくる数万の軍隊に対処できるはずもなく、各個撃破されていくだろう。


 帝都から援軍は難しい。

 自軍が態勢を整えるまでのタイムラグが発生する公算が大きい。

 少なくともファンバードの大部分は盗られるだろう。


 そこから徹底抗戦を選ぶかどうかは、絶対君主である皇帝次第だ。


 よしんば勝ったとしても無傷では済まない。

 対抗戦になるだけで得るものなどもない。

 それに無様にも敵に捕らわれ、挙句に失地した領主がどんな目に遭うかは想像に難しくない。


 ――死刑だ。


「おはよーう。三日ぶりね!」


 甲冑を脱いでいるレオーナは陽気に片手を挙げた。


 涼味のあるボウタイを結んだ綿のブラウスと、肌にぴったりフィットした茶色の乗馬ズボンを履き、金髪を一つにまとめて結っていた。


 デブ呼ばわりされたのを根に持っていたのか、わざわざ身体のラインを強調しているような風体だったが、自然な私服ではある。


 レオーナはしゃくっとリンゴを齧り、もぐもぐと飲み込んだ後に雑に手を振って看守を下げる。


 奥の壁にもたれかかり、足を投げ出して座っているアクネロの反応を窺う。


「処刑の日取りでも決まったか?」


「んーん、そうじゃなくってさ。そう、あれ、あれよ。勧誘よ。アンタ、殺すには惜しいかなって思ってさ。あ、リンゴ食べる?」


「食いかけなんていらねえよ。帝国の軍の情報が欲しいのか? それとも俺が欲しいのか?」


「うーん、どっちもかな。どうせ、この失態で厳罰になるでしょ。元々、アンタのファンバード領主って言っても形だけの職だし……今度は私たちが支配した土地をちゃーんっと統治させてあげるわよ。どう?」


 甘言はたまらないほど素晴らしい提案だった。

 命は助かるし、この苦境からも免れる。

 ましてや後ろ盾も得られる。

 おいしい話だ。


 ――が、裏切り者の十字架を背負うことになる。


 名誉が汚れた統治者など誰も認めてはくれないだろう。

 そうして、いずれは運命のときがくる。

 鼻で笑ってアクネロは別の提案を示した。


「俺を拷問しろ。そうすりゃなんでも、べらべらとしゃべり出す」

「それって戦時協定違反だし、嘘を吐かれても困るの」

「俺は正直者として有名なんだぜ」


「まーま、尖がってないで……お互いに腹を割って話しましょ。何が望み? 私はこう見えて王族なの。お姉様たちとは仲良しだけど、二人とも谷底に突き落として私が女王になるつもりだから優秀な配下が欲しいのよ。あ、秘密ねコレ?」


 茶目っ気たっぷりで片目を閉じたが、微かに野心の揺らぎが瞳に影をよぎらせた。


 寝そべりながらもアクネロは両足を振り上げ、下げた反動で立ち上がる。

 格子の前に静かに寄ってレオーナと相対した。


「俺の召使は無事か?」

「召使? ああ、ミスミスのことね……そこにいるわよ」


 親指を後ろ抜向けて廊下の角を示すと、すまなそうに猫背になりながらメイドが顔を出した。


 両手を丸めて胸もとに当て、おどおどとして不安そうに一瞬だけ上目遣いをしたが、すぐにアクネロから視線を逸らした。


「女が欲しいのならこの娘、あげてもいいわよ」

「……レオーナ様」


 恐ろしい提案にミスリルは息を呑んだが、主人は気にした様子はない。


「そいつはお前の所有物じゃねえだろ」


「いいえ、私の所有物よ。この娘はとある寒村の出身でね。アザラシ猟で生計を立ててる場所なんだけど、冬期が長引いたせいで口減らしで売られてたから買っちゃった。おかげで私のためになんでもしてくれたわ。例えば敵国の情報を逐一私に送らせることだってね?」


 俯いた顔としばらくの沈黙が裏切りの肯定となった。


 事実を聞かされたアクネロは唇を震わせて何かを言いかけたが、ぐっとつぐんだ。


 可能性としてはあることだった。

 情報戦も立派な戦いのひとつだ。

 三年間、権能のないスルードをあるじとし、困窮しているファンバード家に仕えたメイドならば。

 そうしていたとしても、なんら不思議ではないのだ。


 理解して飲み込むと、アクネロは片手で腹を抱えて忍び笑いを漏らした。


「くっくっく……やるじゃねえか! おいおいミスリル、そんな泣きそうな顔をするんじゃねえよ。勝ち誇れ。お前が勝ったんだ。勝者ならそれらしくしろ。俺は負けただけだ。こんなのは、どこでも、よくあることなんだ……お前がやったことは誰でもやることなんだ。俺がお前の立場でも同じことをする」


「ごしゅ……アクネロ様、実は私はあなたのおと――」


 ミスリルは押し寄せてきた感情の奔流に負け、ひとつの真実を告白しようとしたが。


「はい、私のお話が終わってないからね。さぁ、どうするか選びなさい。こんな暗い場所で生涯を終わらせたくないでしょう。私に従えば、今までの通りの人生が歩めるわよ。一緒に幸せになる道を歩みましょう?」


 会話を途切れさせたレオーナは、アクネロの頬に手を伸ばした


 どこか淫靡な指先で、すすっと愛撫でもするかのようにアダっぽく指先を這わせる。シャープな顎先から喉をさすると、加虐心のためかやや頬は紅潮していた。

 

 何もかも手中に収めようとする支配者の傲慢さが手つきに現れている。


 ぱしりっと細い手首を握られた。

 手枷の鎖がじゃらりと格子にぶつかって、甲高い金属音が鳴った。


 アクネロは顔をぎりぎりまで近づけ、驚いたレオーナの瞳を覗き込んだ。


「勘違いするな。お姫さんよ。俺がお前のモノになるんじゃねえ。お前が俺のモノになるんだ。近いうちに首輪をつけてペットにして飼ってやるから覚悟しとけ。それが嫌なら、今すぐ俺の首を刎ねるんだな」


「なるほど……気が合うわね。今まさに、私も同じことしようかなって思ってたもの……ま、屈服するまで気長に待つわ。行きましょうミスミス」


 レオーナは腕は振りほどいたが、力強く握られた腕は真っ赤になり手痕がついていた。


 何度も振り向くミスリルを従えた彼女は、背中を向けて廊下の出口へと進む。


「そうそう、帝国の王子様がフォルクスに来るらしいわね。絶好のチャンスだし、狩るわ。なよっちいって噂だから私の好みから外れるし、この街だけで我々飛竜の胃袋が満足すると思わないことね」


「あいつは最高に男らしい俺の一等のダチ公だ。お前に殺られるほど間抜けじゃねえぞ」


「そう、楽しみにしてて」


 かつーんかーつんと軍靴の残響が遠ざかっていく。


 アクネロが寝そべり直そうとしたが、かじり痕のない真新しいリンゴが格子のすぐ向こうに置かれていたこと気付いた。


 誰が置いていったのかわかっていたし、少しばかり逡巡してしまったが結局、指でたぐり寄せた。


 赤い果皮に涙が垂れ流れている。


「馬鹿が。甘ったるいんだよ」






 ∞ ∞ ∞




 

 気まぐれに訪れた順風に乗って護衛艦隊は進んでいた。総数は五艦。ひときわ大きな旗艦の戦列艦と、護衛を務める小型の戦艦が母狼に付き従う若い狼のように忙しげに這い回り、はるか彼方まで広がる海洋に鋭い眼を光らせてる。


 ファンバード地方への赴く皇太子、リンネ・サウードスタッドの護衛のために用意された海軍だ。


 近縁の取り巻きの貴族も多数存在していたが、彼らは窮屈な船旅をよしとしていないのか、涼しい甲板の一角に陣地を作り、上等な酒を飲みながら飽食し、召使つきのテーブルで談笑やカードゲームに耽溺するのみだった。


 五等海尉ホルスは露天甲板に直立し、静かに怒りを溜めていた。


 腰に手を回して休めの体勢のまま、奥歯を噛みしめる。


 不機嫌なのは乗客に質の悪さが原因だった。

 貴族の連中が出航の際、駄々をこねたことからまず始まる。


 彼らは海軍の計画を無視して、リンネと同じ船に乗りたがったのだ。

 媚を売るためか、仲間外れが嫌なのかはわからないが、結果として用意した船室が足りなくなり、ホルスたち士官はもっとも上質な部屋から粗雑な部屋へと玉突きで部屋を移動させられた。


 現在、艦長が四等海尉の部屋で寝泊まりしている。


 副長はギリギリ士官室に収まり、五人の海尉は水夫たち寝る場所にカーテンを引いて五人同部屋を作っている。


 それはまあ――稀にあることだと許容できなくもない。


 許容の限界点を突破したのは仕事への苦情だった。


 水夫に指示を与える号笛、少年兵の鳴らす儀礼太鼓、船同士の合図となり挨拶ともなる号砲をうるさいからという小生意気な理由で排除したのだ。


 普段、国家のために正確無比に行っている仕事を邪魔するのは高貴な身分の者とはいえ、その領分を越えているのではないか。


 艦長は芳しくないと認めつつも、自身の将来――準男爵の地位を得るまであと一歩と来ているのに、承認委員たちの機嫌を損ねたくない一心で受容せよと戒めた。


 士官もまた昇進は艦長の内証次第だ。

 決して逆らえやしない。


「君らは随分とピリピリしている。まるで電気ウナギみたいだな」

「はっ!」


 横から声をかけられ、相手が群青色の豪奢なローブをまとったリンネだと気付くと、ホルスは口をぴったりと貝のように閉じて直立不動の体勢に移行した。


 カカトをぴったりつけ、敬礼したまま目線は合わせない。


 冗談を噛み砕いて理解したが、返事をすることはできない。

 気安い言葉を受けたとしても、返すことはご法度だ。


「戦列艦はゆっくりと動くと聞いていたが、なぜそんなに神経質なんだい?」


 厳しさはなく柔らかさと親しみやすさだけが感じ取れる声質。


 赤い洒落っ気のある羽毛帽子の下の顔は中性的だが人目を惹くほど端麗であり、余すことない優しさが満ちあふれている。


「そちらにお見えになる同僚艦と違い、おっしゃいます通り本艦は約三十分ほどで方向転換をする比較的扱いの容易な艦です。その分、二百人ばかりの水夫は熟練者よりも未熟者が多いので、号笛なしではいちいち何をするでも声をかけなければならないからです」


 はきはきと受け答えしてから「しまった」とホルスは考えた。

 事実ではあるものの、不足があると告げれば非礼にあたるかもしれない。


「なぜ、ないんだい?」

「騒音のために禁止となりました。もっともだと思います」

「本当にもっともだと?」

「はい」

「しかし、ここでもっとも地位のあり、次代の皇帝であるボクはそう思わないな。ではもう一度聞きなおそう。もっともだと思うかい?」

「いいえ、まったく! もっともではありませんとも!」


 甲板上に騒がしい号令と笛の音が響き始めると、船尾楼の日陰で談笑している貴族たちが嫌な顔をしたが、今度は表立って文句を垂れたりはしなかった。


 ホルスは浮足立った気持ちで信号旗担当の四等海尉イヤードに笑顔を見せた。


 任務中のため、言葉は交わさないが目顔ではにかみあった。若年の者同士心を寄せ合っている。

 旗艦で唯一の情報発信源となった彼は風向きと風速にいつも以上に神経質になり、より消耗していたから今回のことは喜ばしいことだった。


 ホルスにしてみても王族に声をかけられたのも単純に嬉しかった。

 また、目上の者に心を理解してもらえるのは嬉しいことだ。

 帝国という大樹に寄り添い、仕える者としては上役に覚えがよくなるというのは掛け値なしでの喜びなのだ。


「ホルス海尉、イヤード海尉、二人に頼みたいことがあるんだ」

「はっ!」

「はっ!」


 わざと足音を立てないように忍び寄っているのではないかと疑うほどリンネは唐突に後ろから現れた。


 二人はくるりと回って敬礼する。


 相変わらず護衛がついていない――人目につかない左舷側の船尾楼に二人が集まるタイミングをわざわざ待っていたようでもあった。


「ボクは今回の旅を快適なものにしたいと思っている。しかし、ボクはこういう立場のため、彼らのような贅肉――もとい、帝国の功労者たちからは逃れられない。そこで一つ、港に着いたら酷い船酔いになりたいのだ」


「はい」

「はい」


 船酔いは帝国の快男児の恥だ。

 醜態を人目に晒さないように隔離するのも言い訳としては成り立つ。

 リンネの肌は病人のように白いが、瞳は生気に満ちているので、芝居を打つつもりなのだろう。


「君らは海軍仕込みの酔い醒ましを知っていることにする。ボクはそれに頼って港の医務室に行く。そして、逃げる」


「逃げる!?」

「逃げるのですか!?」


「しーぃ……静かに。大体、ボクは友達の家に遊びに行くだけだ。なんで千人単位の配下を連れて移動しなきゃならない。オフをオフとして楽しむ手伝いをしてくれ」


 ホルスとイヤードは困った顔を見合わせた。


 皇太子が警護から逃げる手伝いするなど、許さないことだ。


 後に起こるだろう軍法会議で極刑を申し渡されても、なんらおかしくはない。


「君らの艦長は承諾した。よほど、サーと呼ばれたいようだ。平民が貴族までのぼりつめるには華々しい軍功を上げるか、ボクみたいな人に気に入られるかだからしょうがないけどね。

 そして、君らもいずれ出世して自分だけの艦が欲しいと願うはずだ。そのとき、影なる者の力が働くかどうかは君ら次第だ。人の運命はエコヒイキなものだぞ。さぁ、ためらわずにボクの手を握りたまえ。ボクこそが君らの未来なのだから」


 爽やかな顔で差し出された両手。

 ごくりと生唾を飲んだホルスは片方を握った。


 冷たくも細い指先は女のように滑らかな手触りで心地よかった。

 これは毒蜜の誘惑だとわかっていても、飲まずにはいられない劇薬だ。


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