冴えない彼女と即売会
じゅじゅる
第1話 冴えない彼女の冒険譚 (改)
祭りの賑やかさの消えた逆三角形が今年最後の夕焼けに染まる。最後に残された彼らの影は、ゆっくりとふたつに別たれる。
「私、今日は帰るよ」
今日は冬コミ当日、場所は東京ビッグサイト。開場前の設営準備に追われる慌ただしい時間帯、なのだが。
「頼む加藤! 頼れるのはお前だけなんだ!」
「私からもお願い!」
そんな近隣サークルの慌ただしさなどそっちのけ、よくわからない関係の人と親友に頭を下げられ、困り果てる恵であった。
「……えーと」
「このひとたちは、加藤さんに本を買ってきてもらいたいのよ」
分厚いコートとマフラーで身を包んだ霞ヶ丘詩羽が、読んでいた本にしおりを挟みながら補足をする。
「使いっ走り?」
「……オブラートに包まないとそうなる……買い子だ!」
渋面を作ったあと、オーバーな身ぶりで開き直るこの男は当サークル「blessing software」の代表を務める安芸倫也。あまりに声を張るから両隣のサークルに睨まれ身を縮める。開場前は何かと殺気立つものだ。
「包んでも変わらないわよ」
小説家でもある詩羽は言葉遊びには容赦がない。
「自分で行けば良いんじゃない?」
フラットな恵の当然の疑問が倫也に追撃を食らわせる。しかしこの男は引き下がらない。
「それが出来るなら! 今すぐここを飛び出したい! いや開場前に理由なくよそさまのサークル前をうろつくなんてマナー違反だからしないが!」
「相変わらずの倫理君ねえ」
「サークル主が私用でスペースを離れるわけにいかないんだ。いつどんなトラブルが起きるかわからないからな」
と、まっとうそうなことを言う。
「いてもいなくても一緒だよー」
「うっ」
倫也の胸に、恵による無慈悲な言葉の刃が突き刺さる。刺さった自覚があるなら、まだ良いほうだ。
「たしか、今日って予定してた数の10分の1以下しか用意してないんだよね? だったらそれさっさと売り切っちゃえば良いんじゃない?」
長身を活かして、壁に特大ポスターを貼る氷堂美智留。たとえ頒布物がわずかで、さらにそれが不完全版であっても、用意されたポスターに罪はない。この後店頭に完全版を委託するのだから販促しておいて損はない、ということで、バックヤードはほぼ空だが飾りつけはやたら豪勢なサークルスペースが出来上がりつつあった。
「これだから初心者は」
舌打ちせんばかりに悪態をつく澤村・スペンサー・英梨々。ツインテールが逆立つようないらだち。
「即売会は速さが命! 初手で動かないやつから脱落していくのよ!」
「そういうことはちゃんと手を動かしてから言おうね~」
「こっちはもう作業終わってんの!」
今にも飛びかからん勢いの英梨々。まあ実際の準備のほとんどは倫也と恵がしたものだが。
「いや、もちろんこれは頒布が終わってからの話だよ。美智留の言うようにこの量は午前ではけるだろうし」
「大手サークルみたいな事言うわね、いっちょまえに」
本物の大手サークル、「egoistic-lily」の柏木エリこと英梨々に凄まれてしまう。
「いやすみませんほんと! というわけで、頒布が終わったら今日の作業は後片付けだけでほぼ終わりなんだけど……。サークル主だけはここに残って、後から来た一般参加者に今日のお詫びとか委託の説明とかする必要があるんだ」
「それって安芸くんじゃなくてもできるんじゃない?」
「いや、これだけは俺にやらせてくれ」
倫也の顔からおちゃらけた様子が消える。土壇場で「間に合わなかった」手焼きのメディアが並ぶ机。本来賑わうはずだった当サークルの後始末を彼が自らつけようと言うのだ。
「うん、わかった」
恵はフラットさを若干崩した微笑みで返す。
「じゃあ残り時間は安芸くんに任せるとして。英梨々、手分けしていこうよ」
「私、人混みはちょっとあれなんで……」
とは言え、「あのサークル」には謝辞と敗北宣言をしにいかなければならない。孤高のイラストレーター英梨々はなるたけ殻に籠らんと抵抗する。すでにその人混みの中心にいるというのに。
「お前、内弁慶がすぎるぞ」
「っさい! 今日はパパママ仕事なのよ~、お願い!」
「霞ヶ丘先輩は」
「……えっ、なんですって」
ガバリ。
「今寝てたね先輩」
「何を言うの倫理君。そこらの鈍感主人公と一緒にしないで欲しいわ。寝てたけど」
「意外と素直だ……」
「霞ヶ丘先輩は欲しい本無いんですか?」
「私は町田さんに依頼済み」
「た、担当編集をファン○ル扱い……」
生唾を飲む倫也。
「仕事も兼ねてるんだから問題ないでしょ」
コミケがこれからの才能を発掘する場となって久しく経つ。年末恒例のお祭りも、出版業界の人間にとっては仕事の場なのだ。
「少しは外を見て回ってらっしゃいよ」
「くっ……、自分はアテがあるからって勝手なこと……!」
「英梨々、どうどう」
「とにかく、私は残る。氷堂さんは?」
「あいつ野に放ったら帰ってこないでしょ」
「しつけがなってないわね」
「聞こえてるからねセンパイ。倫也はあとで新技の研究に付き合って」
「それいつものやつ!」
そんなうかつな返答は自身の寿命を縮めるだけだと倫也本人だけが気づいていない。
「そんなわけで頼れるのは加藤だけなんだ! チャッと行ってバーッと帰ってくればいいから!」
「でも私、サークルとかよくわかんないけどひとりで平気かな」
「大丈夫、ここに細かい指示を書き込んだサークル配置図がある!」
「用意周到なことで……。まあいいよ、わかった」
「さすちょろ……じゃなかったありがとう恵!」
「安芸くんはともかく、英梨々からもそう見られてたのはちょっとショックかな」
「助かるよ、やっぱり最後に頼れるのは加藤だ!」
「はぁ……」
ただただ、溜息。
「最後尾に着いたら逐一メールな!」
「さいこうび?」
「行けばわかる!」
開場10分前のアナウンスが辺りに響く。
「よし、そろそろ頒布開始だ! みんな、最終確認しよう」
頒布物に興味本位で寄ってきていた数人が目の前から散っていく。サークル側はどこも臨戦態勢だ。
(まあ、なるようになるかな)
パイプ椅子にのほほんと腰をかける恵。数分後、自分の認識の甘さを痛感するとは知らずに。
『これより、第◯◯回コミックマーケットを開催します』
恵の冒険が始まる。
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