あの時のぼくたちも、青かった

Nemesis

あの時の海は、きっと青かった



 砂の道を歩いていた。いや、道と言えるほど大層なものではない。人々が通るうちに自然とできた獣道。木の枝や張り出している草が、行く手を邪魔する。足元のさらさらとした砂。靴の底がわずかに埋まる。歩いているだけなのに、靴の中がざらざらしていた。

 このような道なき道を、ぼくは携帯電話のライトで照らしながら進んでいた。後ろを一人の女の子が続く。道が細いので、手をつないだまま二人縦に並んで歩いている。

「夜は冷えるね」

 彼女は言った。

「なんか羽織ってくれば良かった」

 三月中旬。そろそろ春目前という時期であった。ぼくたちの地元では三月末には桜が咲く。入学式は満開の桜の中で、というのはドラマや漫画でしか見たことがなくて、実際にはその時期には散ってしまっている。

 最近は三寒四温のなか、すでに日中は上着のいらないことの方が多い。気の早いちびっこが半袖で駆け回っている姿もちらほら見かけるほどだ。しかし、やはりまだ夜は肌寒い。

「ごめん、連れ出しちゃって」

「ううん、平気」

 獣道を抜け、コンクリートの堤防にたどり着いた。

「海の音、聞こえる」

 二メートルほどの堤防を登りながら彼女が言った。

「潮の香りも」

 そうして、ぼくたちは堤防の上に並んで座った。ぼくはあぐらをかいて。彼女は膝を抱えて座っていた。

 僕たちの目の前は真っ暗闇。携帯のライトの明かりなんか届くわけもなく、何も見えない。だが、この先には砂浜があって、そして海が広がっているはずだった。眼前の漆黒のほとんどは、青く広い海なのだ。

 


 枝葉の擦れる音。

 打ち寄せる波のせせらぎ。

 僕は携帯のライトを消し、折り畳みのそれを閉じた。閉じ際のカチッという小さな音すら耳に障る。そんな無機質な音は、今の空間には似つかわしくない。

 隣に座る彼女の息遣いが聞こえる。

 というと、なんだか艶めかしい感じに聞こえるが、その実、両手を口許に持っていって、はーっと息を吐いているだけだ。ついでに両手をすり合わせる音も聞こえてきた。

 ぼくは後ろに倒れるように寝転がった。

「すっごい綺麗」

 思わず口をついたのは、小学生みたいなすごく安直な感想だった。だが本当にすごいものを見たときは、なにがどうすごいとかここが素晴らしいとか、そんな理屈はどこかに飛んでいってしまう。

 それは、ぼくが彼女のことを好きであるのと同じだ。彼女のどこが好きなのか聞かれても困ってしまう。むしろ、ここが好き、と答えることができるようなら、まだその人のことを本当に好きだとは言えないと思う。

「宝石箱をひっくり返したみたい」

 布ずれの音のあと、ぼくの顔のすぐ右から声がした。彼女も僕と同じように、空を見上げて寝転がったようだ。

 右半身がほのかに暖かい、ような気がする。一度そう思ってしまうと、すぐ右にいる彼女の体温を意識してしまってむずがゆくなった。

「こんな星空、初めて見た」

「わたしも。あ、流れ星」

 空一面の星空。都会にいるとオリオン座とか北斗七星がかろうじて見えるくらいなのに、周囲に光がないここでは、星が多すぎてどれがオリオンなのか北斗七星なのか、かえって分からない。

 ナントカ流星群到来! みたいなニュースがない時でも、本当の星空では案外たくさんの流れ星が見られるということをぼくたちは知った。

「ねえ」

 しばらく流れ星探しをしたあと、彼女がぽつりと言った。

「話ってなに?」

 ぼくは反射的に右を向いた。頬がひんやりとしたコンクリートに触れた。

 暗闇に慣れた目にうつったのは、空を見つめる彼女の横顔だった。

 その瞬間、この一年ともにいた彼女の姿が脳裏に蘇る。ぼくは慌てて空へと視界を戻した。

 

 教室で友達と笑いあっていた優。

 授業を真剣に聞いていた優。

 テストの点数が悪くて「くっそーちゃんと勉強すれば良かったぁ」とケラケラしていた優。

 地区予選を見事突破して臨んだ県大会は初戦敗退。もっとみんなとテニスをしたかったと大泣きしていた優。

 運動会の応援団衣装を夜なべして縫って、授業でうとうとしていた優。

 文化祭でフリルのエプロンを着て少し照れていた優。

 

 図書室で向かいあって勉強した。ぼくは物理が得意で、優は英語が得意だった。分からないところをお互い教え、時には居眠りしてしまう優を起こした。

 それでも、テストで思うような点が出ず、「くっそーちゃんと勉強すれば良かったぁ」とみんなの前ではケラケラしていたあと、ぼくの前では本気で悔しがっていた。「でもあっくんに教わったとこはできた」と、少し笑顔も見せてくれた。

 部活を引退したあとも、週末はぼくをよくテニスに誘ってくれた。テニスなんかやったことなかったのにラケットも買わされた。だんだんとラリーができるようになるぼくを、自分のことのように喜んでくれた。

 運動会のクラス打ち上げ。途中でこっそり二人抜け出して、初めてキスをした。

 文化祭のエプロン、もう少しスカート短くてもいいんじゃない? と冗談を言ったらぶん殴られた。


 朝、おはようと言う。クラスのみんなはおはようと返してくれる。優はぼくをちらっと見て、笑顔を浮かべる。

 クラスではあまり話さない。多分照れくさかったから。

 その代わり、帰りは二人で駅まで並んで歩く。ぼくは自転車を押して、できるだけゆっくり歩く。それでもあっという間に駅についてしまう。

「また明日」

 バイバイ、と手を振る日々は、どれだけ貴重な時間だったのだろう。卒業式を終えた今となっては二度と戻ってこない、明日また会えることが保証された日々――。



 ぼくは優が好きだ。今ぼくの隣にいる、優。

 涙が星空をにじませた。

 たくさんの思い出が今のぼくを形作ってくれた。それはきっと優にとっても同じだろう。そんなかけがえのない全ての思い出を乗せて、ぼくは言う。


「別れよう」


 頬を雫が伝った。

「……だと思った」

 優が湿った声で言った。

「もしよかったら、理由を教えてくれる?」

 もしよかったら、と付け加えるところが彼女の気づかいだ。

「ぼくは……君の枷になりたくない」

 後半は嗚咽交じり。ぼくの声は情けなく裏返ってしまった。



 彼女は留学が決まっていた。四月からアメリカに渡り、語学学校に通う。九月からは晴れて大学生。

 優はこれから学びたいことを存分に学ぶのだろう。新しい環境で苦労もするだろう。たくさんの新しい出会いもあるだろう。辛いことがあっても乗り越えていかないといけないし、楽しむべきことは存分に楽しんで欲しい。


 でも、優の新しい世界の中にぼくはいない。


 優がもしぼくを必要とすることがあっても、ぼくは近くにいることすらできない。それどころか、ぼくの存在がこれから広い世界に羽ばたこうとしている優の邪魔になるかもしれない。

 だったら、

 ぼくは優が好きだから、

 ぼくは君の彼氏でいてはいけない。



「一年と十日」

 優が言った。

「あなたの彼女で幸せでした」

 あぁ……だめだ。

 自分で別れを告げておきながら――。ぼくにそんな資格などないことは分かっている。

でも、次々に浮かびあがる優の笑顔、声、思い出――。

「今までありがとう。好き」

 せき止められなかった。腕で顔を覆う、押し付ける。すぐに袖がぐしょぐしょになった。

 手にあたたかいものが触れた。何度もつないだ優の手だとすぐに気づいた。

 ぼくは目に押し当てている腕をほどいた。

そこには、覆いかぶさるように優がぼくを見下ろしていた。ただでさえ暗いのに、夜空の逆光で優の表情は全然見えない。でも、きっと優しく笑っているような気がした。

 優は両手でぼくの頬を包む。

そしてぼくたちは最後の口づけをした。



 砂の道を戻る。来た時と同じように、携帯電話のライトで足元を照らしながら。そして、後ろを一人の女の子が続く。二人縦に並んで歩いている。

 ぼくと彼女はもう手をつないでいない。恋人ではなくなったから。

 ただ、

「いいでしょ、これくらい。それに夜道はぐれたらどうするの」

 そう言う彼女は、ぼくの服の袖口をつまんでいた。

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