第14話 新たな世界へ

 看護師にこの三日着ていた入院着を渡し、ナナシは荷物を鞄に詰め込んだ。もともと身ひとつで入院したこともあり、服や洗面道具以外に持つべきものもない。

腹部の弾も肩の弾も拳銃弾だったこともあり、大した怪我にはならなかった。三角巾で吊った左腕を動かすと痛みが走るが、そうかからずに治るだろう。

ベッドに腰掛けて窓の外を眺めると、空は綺麗に晴れて雲が浮かんでいる。

「もう退院して大丈夫なのか」

振り返ると、高上が見慣れた気難しそうな顔で立っていた。ライフル弾が右肩を貫通したはずだが、何事もなかったようにすら見える。

彼とどう話していいか少し迷った。しかしグループ子会社の代表で多分上役にあたるのだし、多分年上だから少し改まった言葉遣いを選んだ。

「ええ。治療費を出して頂いて、ありがとうございます」

「そのぐらいしか俺に出来ることがないからな」

今度ははっきりと、眉間にしわが寄る。

 高上はナナシの遺伝子検査を正式に行い、重大な損害を被った社員として遇するべきだという報告を本社に提出していた。しかし返ってきたのは、ナナシを社員だと確認できないという返答だった。

一度入社した社員なら遺伝子データがあるはずだが、那智以下六人の記録が破損していて証明ができない。ナナシ自身の記憶もないのでは如何ともし難いという。

他社への情報漏洩で処分された伊東がデータにアクセスした際に破損したと思われる、という見解が添えられていた。

名浜グループが全てをうやむやにしようとしているのは明らかだったが、ナナシはそれを糾弾も追及もする気にはなれなかった。

 那智が部下と顔を交換してまで守ろうとしたのが名浜グループであり、彼は信念に従って情報を漏らすことなく死んでいった。

その信念を共有できるかはともかくとして、遺志は酌むべきだと思う。

「あの矢間って人、どうなるんでしょう」

 あの日、三階に到着した警察に、高上は所属不明の集団に襲撃されたと説明した。矢間は錯乱した社員と称して高上が強引に連れ帰り、名浜グループの病院で治療がてら聴取が行われていたのだ。

高上を暗殺するための狙撃をナナシに防がれたのが相当にショックだったのか、当初は茫然自失だったという。

思い出したくない名前を聞いた高上が素直に顔を歪めた。

「吐かせられるだけの情報は吐かせた。明日警察に引き渡される。君の言っていたグールの施設が摘発されて名前が挙がったからな」

結局のところあの男がグールの施設と繋がっていたのは、自分に都合の悪い結果を隠蔽する為――ナナシの事例で言えば、『本当の那智を死なせて情報を得られなかった』ばかりか、『遺体が警察経由で名浜グループに戻れば自分の不手際が判明する』ことを避ける為だったからだという。那智の死にざまを知れば名浜グループは彼を賛美するだろうし、それが北海警備、ひいてはMEISEKIの上層部に知れれば自分が下手を打ったとわかってしまうからだ。

何もかもがおかしいと思う。矢間はもちろん、企業のありかたも。

グール施設の警察による摘発は、史狼たちによる密告だろうとナナシにはわかっていた。彼らは未公開の情報を恐らくはあのFという男に売って報酬を得、かつ、自分との約束を守ったのだ。

ナナシとしては何よりも、あの忌まわしい施設が白日の元に晒されたこと自体に安堵していた。

「安心しました。年金貰えないのはショックですけど、なんか、おれがこうなった意味はあったかなと思うので」

もともとこういう性質だったのか、ふっ切れたのか、自棄なのかはわからないが、ナナシは心から笑って言った。以前なら……以前の己の記憶はないが、仕事も住むところもないなどという状況になったら途方に暮れていた気がする。

「そうか」

笑いもせず真顔で頷いた高上が口を閉じ、躊躇ってから切りだす。

「……聞かせてくれ、俺を救ってくれたのは……」

「待って下さい」

高上が言おうとしていることを察してナナシは制止した。

「反射みたいなもんだったんです。すいません……おれは那智さんじゃないし、その、那智さんの思考アルゴリズムですか。それが仕事したのかって言われたらわかりませんが」

那智として助けたかったと言えれば、綺麗な話で終わっただろう。

だが多分違う。

 あの瞬間、あそこからなら楽に撃てるなと思ったのは自分で、開いた窓を見て誰かいると確信したのも自分で。それは多分自分がそうした、狙撃行動を得意としていたからで。

『彼』の要素はないのだ。

「でも那智さんのアルゴリズムがあったから、あなたを助けられたと思っています。電話でおれが那智さんみたいに喋らなかったら、会って貰えなかったでしょうし。おれ自身も救われていたんだと思うんで」

 一生懸命説明するナナシを見ながら、高上も、彼は違うのだと実感していた。

よく見知っているはずの顔が、見たことがない表情で笑っている。

子供のころからよく聞いていた声が、聞いたことのない話し方をしている。

ナナシは高上に撃たれたことを気にしなかったが、銃を向けられたから撃ったなどと、自分の知っている那智なら水に流したりはしなかった。間違いなく殴り合いになっている。

那智はもういないのだ、という現実を突きつけられ、無意識に表情が歪んだ。

それでも、信じていることはある。

「……やっぱり、俺は那智に助けられたんだな」


耳の中でこだましている声がある。

あの瞬間の、避けろという叫び。

同じ現場で任務に就いていた時、一度だけ那智が叫んだ声と、同じだった。



 病院の玄関を出たナナシは、待機している無人タクシーに目もくれず駐車場へ向かった。特に約束はしていないし、退院日も伝えていない。でも彼らはいるはずだ。

広い駐車場には病院へ来た綺麗な車が並んでいる。そんな中でやけに広く開いたところがあると思ったら、その中心に見慣れたセドリックが堂々と駐車していた。

クラシックカーだと言い張ればそう見えなくもないのだが、何故か近づくべきではない雰囲気を撒き散らしている。そのせいか付近に見事に他の車が近づいていない。

本能が退化していると言われる人間だが、こうした時には如何なく発揮されているようだった。

車にもたれていたキエロがひょいと手を振ってくる。

「やあナナシ。思ったより元気そうだね」

途端に助手席のドアを開け、花鈴が足早にやってきた。

「退院おめでとうございます。鞄持ちますよ」

「いや大丈夫。このぐらい持てるから」

遠慮しながら後部座席に乗り込むと、史狼が運転席に陣取っていた。バックミラーごしにちらりと視線を投げてくる。運転席の後ろにはエレオノーラがいて、続いて乗り込んできたキエロと挟まれたナナシは苦笑した。

「二人とも、怪我はもう大丈夫なんだな」

入院中ずっと気になっていたことだ。警察には高上に『名浜グループの関係者』と説明された一行は、騒動で連行されるのを免れていた。

史狼は今度は視線すら動かさなかった。

「あの程度で寝込んでいられるか」

あの程度と言うが、史狼は結構な出血だったのをナナシは覚えている。皮下装甲でいくらか傷が防げるとはいえ、彼の戦闘スタイルは捨て身すぎた。

「グールの施設が摘発されたことは聞いたけど、君たちの利益にはなったのかな」

「あら、私たちが警察に情報を送ったことは知っているのでしょ?」

意外そうにエレオノーラに目を瞠られて、ナナシは慌てて手を振った。

「知ってるよ。けど、警察がすぐ踏み込むような施設の情報だったから、安く買い叩かれたんじゃないかと思って」

「ご心配をありがとうございます。でも大丈夫ですよ、一日経ったら警察に情報が流れるっていう期間限定だと説明したうえで売りましたから」

にこやかな花梨の脚へ目をやったが包帯らしきものはなかった。顔色もよくて元気そうなことに安心していると、エレオノーラとキエロが両側から期待に満ちた目で見つめてくる。

ジャケットの内ポケットに手を突っ込み、ナナシは苦笑した。

「はい。とりあえずこれだけ」

エレオノーラに分厚い封筒を手渡すと、中を覗き込んだキエロが歓声をあげる。

「わお、現ナマだ! さすが大手企業、気前がいいね」

「口座振込みするわけにいかないのよ。ナナシが在籍していた証拠は消してしまったし、いざ正体不明の人間相手となると規定に触れてできないからでしょう」

さすがに元は企業にいたエレオノーラには事情がよくわかっていた。

彼女が言ったとおりのことを名浜グループの代理人に聞かされたナナシとしては、苦笑するしかない。無論、だいぶ言葉を分厚いオブラートにくるんではいたが。

そういう事情で、ナナシはかなりまとまった額の現金を渡されていた。

「これお見舞い金ですよね。これからのことも決まってないのに、大丈夫ですか?」

助手席に戻った花鈴が心配そうな表情になる。

「心配してくれてありがとう。でもなんか、おれが貰った気がしないから。これでリセットできる気もするし」

「君がいいならいいけど、お払い箱にされただけなの、わかってるのかい?」

キエロが説教じみたことを喋り始めるのを、ナナシは不思議な感慨で眺めていた。鮮やかな翡翠の光を宿した瞳を初めて見た時は怖かったが、今こうして見ると綺麗だと素直に思う。

エレオノーラが数え終えた札を抜きだすと、4分の1ほど残った分を封筒に戻してナナシへ渡した。

「残りは当座の生活に使いなさい」

「でも……」

「貴方が思っているほど、非合法活動者の生活って簡単でも楽でもないの。全額返済して貰わないうちに死なれたら私たちだって困るわ。それに、これからどうするんですの?」

エレオノーラが不意に顔を寄せてきて囁き、ナナシは飛び上がって距離をとった。

ずっと思っていたが、彼女は美人すぎて近くにいると落ちつかない。エレオノーラとキエロに触れないように後部座席で縮みあがりながら考える。

「どうって言われても……住むところはないし、仕事も探さないといけないし」

病院では傷の手当てはこれでもかというほど丁寧にされたが、記憶については一切触れられなかった。戻っても困るという態度があからさまだ。

実際記憶が戻ったわけではないから、自分に何ができるのかもわからない。

自分という人間のデータが失われ、自分の元の顔形すらわからない今、ナナシは前にも増して手のつけられない中ぶらりんの状態にあった。

見慣れたぶすっとした顔で史狼がセドリックのエンジンをかける。轟くような空噴かしの後で車は動き出し、病院の駐車場をゆっくりと出た。

「君たちは、その、仲間の募集とかはしてないんだよな?」

「ない」

間髪いれずに史狼が応え、見事な素っ気なさにナナシは乾いた笑いをこぼした。

「だよなあ」

史狼にも少し慣れた気がしていた。まず九割方誤解か勘違いなのだろうが、いくらかましに会話ができるようになってきたと思う。

結局、彼に言われた通りになった。


『答え』はもうどこにもなかった。

『かつての自分』は失われた。

残ったのは他者の思考アルゴリズムが刷り込まれた、あやふやな己だけで。

それでも己に向きあって、新たな自分として生きて行くことはできる、と思う。

史狼たちのように生きて行くのは簡単ではないだろう。しかし自分も身を証すものを持たなくなった今、彼らのように社会の隅に居所を見つけていくしかない。

己自身の、そして人生のリロード。

それはそれで楽しそうに思えるのは、ここ最近の激動の生活に麻痺してしまっているのだろうか。


ふと思い出して、ナナシは隣のエレオノーラに向き直った。

「そういえば請求書をくれないか。ちゃんと働いて返すから」

「あらそう? じゃあ、はい」

彼女の胸元からひらりと出てきたのは、きっちりと請求書の体裁を為した一枚の紙を収めた封筒だった。

史狼とエレオノーラ、元企業勤めだったと思われる二人がいるだけにこういうところはしっかりしている――と思ったナナシは、総額を見て声を裏返らせた。

「いやいやいやいや待ってくれ! これ前に見た時と金額違うぞ?!」

「当たり前だよ、前は治療が終わった段階のものだったんだから」

何を馬鹿なことをと言わんばかりにキエロが肩をすくめる。

言われてみればあの後から身元調査が始まったわけで、となると調査費用や食事代なども込みの金額になっているということか。

「いくら弾と気を使ったと思ってんだ」

青ざめるナナシに振り返りもしない史狼がぼそりと唸った。

そこでハイと言えないのがナナシである。なにしろ請求額は当初の倍近い。これではいつ金を返し終えるのかわかったものではないではないか。

「待ってくれ、これ絶対ぼったくり」

「いい度胸だ。残りの金の回収方法を決めたぞ」

がちゃんと音をたてて、史狼の肩ごしに逆さになったベレッタの銃口がナナシの額をロックオンした。それぐらいのことで運転に支障があるはずもなく、動ける範囲で頭を動かしても銃口はぴたりと追ってくる。

「うわっ、危ないそれ!」

「花鈴、藪医者に電話しろ。こいつの臓器を言い値で売るとな」

「史狼……」

溜息をついた花鈴の反応に一瞬期待したナナシだったが、予想を裏切る言葉が続く。

「藪医者じゃなくて先生ってちゃんと言わなきゃ」

「そこ?! 今言うべきことってそこかな?!」

必死のツッコミだが史狼の銃口はぶれもせず、花鈴は彼の銃を持つ手を押さえてもくれない。

慌てるナナシとキレ気味の史狼、最近すっかり見慣れた風景だが、さすがに改善される様子がないナナシの不用意な発言にエレオノーラが眉間を揉んだ。

「本当、なんていうか……こういうのを雉も鳴かずばっていうの?」

「わーお。天然ものの臓器は需要が高いよ、ナナシ」

一方のキエロにはもはや一連の流れが娯楽の一種らしい。手を叩いて笑う彼女の反応にナナシは涙目で訴えた。

「えっ、バイオウェアより高いのか? いや高くても売らないけど! 史狼、頼むから銃を仕舞ってくれ!」

ナナシの絶叫の尾をひきながらセドリックが加速した。

曇天の冬を越え、春を迎えた北の地で梅や桜の香を含んだ甘い風が吹く。


色も形も失った過去から、未来へ。

ただ生きるために、前へ。

何も持たない一人の非合法活動者アウトソーサーが生まれた。


持っていたものを失っても、再びうつろな己を積み替え。

からっぽの己に意思と感情を再び装填して。

人は生きて行く。

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