か
@carifa
纐纈
あらすじ 300文字
女子高生の理子は援助交際の繋がりからやくざの赤城隆治と出会う。そして、目の前で人が殺されるのを目撃する。その圧倒的な暴力と不条理な世界の仕組みに惹かれていく理子。だが、圧倒的な暴力を操るのが自分ではないと気付いた瞬間、熱を失う魅力的にみえていた不条理な世界。逃げ出すことも出来ない闇の入り口に立つ理子。
生きるとは、死ぬとは、見えている筈の現実が見えてはいないなにかと、不可解に結ばれることで引き起こされる。それは、二度と同じ模様を生み出すことの出来ない纐纈に似ていた。
●
纐纈。絞り染めとも呼ばれる単純な仕組みのこの技法は、繊細で複雑な模様を生み出す。それでも、それは布の圧縮を解かない限り目の前で行われている事にどんな結末が用意されているのか、正しい答えは誰にも解らない。
「私にも、やらせてよ」
小田原理子は先日知り合ったばかりの初老の男が、乳白色の布を藍色の染料が満たされた木製の桶に静かに浸け込むのを、作業場の一段高い座敷から身を乗り出すようにして見詰めていた。
「悪いな。本当はよ、理子ちゃんにもさせてあげたいけどね。これさ、上客の注文なのよ。梅雨時期は生地も敏感だし。だから、また今度な」
言いながら、男が桶から布を上げる。藍色に染まった生地の端を器用に摘まむ男の指先が薄黒く変色している。理子はその指先が数十分前に自分の中で卑猥に蠢いていたことを思い出す。同時に、自分が見知らぬ男に身体を開くことに躊躇いを感じなくなっていることを改めて自覚する。躊躇う理由など、初めから無かったのかも知れないとも思う。日常に飲み込まれた時間に意味など見出だせる筈もないとも思う。用意されていた結果を、今の自分は生きていると理子は思う。
「おじさん……約束だよ」
呟いて、スマホに視線を落とした。迎えの時間は随分前に過ぎている。佳奈のところでトラブルがあったのかも知れない。理子は、視線を作業を続ける男の姿に戻して、赤城隆治に電話を掛けた。呼び出しのコールが続く。赤城が電話に出る気配はない。
「これだから、ヤクザは」
理子は、吐き捨てて電話を切ると片膝を立てて立ち上がった。制服の短いスカートが捲れて覗いた下着を男が見ている。
「理子ちゃん。今度は個人的に逢おうよ。ホテルじゃない場所も、たまには良かっただろ? それに、絞り染めに興味があるなら色々教えてあげるからさ」
だらしなく弛緩した微笑みを向けて男が呟く。理子は男の前を横切りながら鞄を抱き抱えて答えた。
「おじさん。赤城さんに殺されるよ? マジでその辺、煩いから。あの人」
言って手を振る。物が溢れた作業場の細い通路をゆっくりと歩く。発酵を終えた染料が放つ土のような微かな匂いが理子の嗅覚を刺激する。赤城と初めて出逢った日のことを思い出した。
●
「死ぬ気が、あるのか?」
揺れるベッドの端に腰掛ける赤城が、目の前で床に正座している男に問い掛けた。赤城の静かな声と、自分の捲り上げられた衣服がベッドのシーツを擦る音が、見上げている白い天井に吸い込まれていくような気がする。理子は揺れる視線を正座する男に向けた。数十分前に出逢ったばかりの男。少しでも値切ろうと何度もLINEを送りつけてきた男。普段は相手になどしない。それでも、今日はなかなか良い客が付かなかった。仕方なく相場から少しだけ安い金額でホテルまで着いてきた。場末のラブホテル。男が、室内を写した色褪せたパネルを睨み付けて部屋を選ぶ。その後に立っていた理子は、背後に気配を感じて振り返った。赤城と若い金髪の男が立っていた。
「死ぬ気があるのか、訊いてるんだよ」
赤城の静かな声。
「死にたく……ないです」
正座の男が恐怖で閉じている筈の喉から声を絞り出して答える。同時に、理子には赤城の声に強い感情の動きがあようには思えなかった。
「それで良い」
赤城が、再度静かに言って男の頭を撫でる。そして、背を向けていた理子達に振り返る。
「死にたくないなら、素直に須田の居場所を言えよ。時間が無いぞ。このお姉ちゃんの具合次第で……いや、コイツの我慢次第でお前の寿命は、長くも短くもなる」
言って、理子の上で必死に腰を動かす金髪男の背を叩く赤城。理子は抗うことなく金髪の動きに自ら身を委ねた。生き残る術なら床にひれ伏している男より長けているようにさえ思える。
「オイ、雄司……姉ちゃんも気持ち良くさせてやれよな」
赤城が理子の頬を指先で撫でる。細く長い指先が強張る頬を弛緩させる。
「で……どこに、須田は居る」
赤城の問いに男が、俯いて黙る。赤城が立ち上がり、男が持っていた鞄の中を探る。
「姉ちゃん。アンタ、俺らに感謝しなきゃな。こいつは筋金入りの変態みたいだな」
言って赤城は、鞄から細く白いロープ、鋼製の手錠、紫色の太いバイブレーターを次々に取り出す。正座を続ける男の後頭部を、そのバイブレーターで殴り付ける。
「この、姉ちゃんを縛ってバイブで遊ぶつもりだったのか? 残念だったな。さぁ、早く須田のことを吐いちまって楽になれよ」
言いながら、スイッチが入ったバイブレーターを男の口に押し込み笑う赤城。笑い声は発しているが理子から見える赤城の目は決して笑ってなどいない。理子は金髪に犯されながら無意味に安心している自分に気付いたが声には出さなかった。
「なぁ、早く吐けよ。コイツは筋金入りの早漏なんだよ。お前、本当に死んじまうぞ」
赤城が笑い続けたまま、男の口に突っ込んだバイブレーターの根本を足で押し込む。男は、片手でいやいやの仕草をして、もう片方の手を喉元に当て声にならない籠った声で唸る。
「もう、ヤバいっ」
雄司と呼ばれた金髪が、同じタイミングで言って理子にしがみつく。肩口を掴まれ激しく突き上げられる理子。快感とは違う重く痺れるような感覚が内臓に染み渡る。痺れが荒々しく狂ったようにテンポを上げる。間も無く、金髪が自分の中で弾けたことを理子は感じた。
「時間切れだな」
ぐったりと緩慢に理子から身体を離す金髪を見て赤城が呟く。正座をしていた男はバイブレーターを口から抜き出し嘔吐を繰り返している。
「赤城さん。アザすっ」
金髪が言って、乳房と下半身が剥き出しにされたままの理子を置いてベッドから立ち上がる。自らの膝まで下げたジーンズを引き上げる。理子は自分の中から金髪の欲望の残滓が溢れ出す滑りを感じた。
「礼なら、宮原に言え。姉ちゃんを呼んだのは宮原だ。そして、ついでに車に乗ってもらえ」
赤城の言葉に小さく頷く金髪。素早く正座の男に駆け寄り、その腹を蹴り上げる。
「宮原さん。アザッす。アザーす。俺の車に乗りましょうね。アザッす」
嘔吐を続けるその男が身を丸めて金髪の蹴りから急所となる部分を護る。それを無視して蹴り上げ続ける金髪。
「姉ちゃん。アイツは種無しだから心配するな」
赤城は、正座の男を金髪の好きにさせながら、理子の髪を撫でる。理子は赤城の黒く大きな瞳に見据えられて息も出来ないほどの緊張を感じていた。それは自分の身に起こった暴力的な搾取に恐怖しているわけでも無く。又は、目の前で繰り返される直接的な暴力に怯えているわけでもない。それは、自分が存在している薄汚れたラブホテルの一室に充たされた気配のようなものに、じわりと首を締め付けられている感覚。明らかに心地よくは無いのに、手離すことの出来ない歪に強ばる何か。理子は強く唇を噛み締めながら髪を撫で続ける赤城の顔を見上げた。
●
車は海岸線の道を少し走ると直ぐに、細い山道を走り続けている。夕闇が山道の両脇から鬱蒼と繁る樹木の色彩を奪っていく。黒く塗り替えていく。理子は深く息を吸い込み。混乱しない。恐怖に支配されない。と、心の中で反芻し続けていた。
「赤城さん。助けて下さいよ。須田さんの居場所なんて、俺は知らないんですよ」
ナイロン製の結束バンドで後手に縛られた男が助手席から赤城と理子が座る後部座席を振り返る。
「身を乗り出すなよ。雄司の車が汚れるだろ?」
言ってから赤城が、男が座るシートを後部座席から蹴り押す。
「宮原さん。直ぐに着きますから。おとなしく座ってて下さいよッ」
金髪が車を一瞬止めて男の顔の中心に拳を叩き込む。呻き声を洩らして仰け反る男。暫く後、男は諦めたのか呻くのも止めておとなしくなった。その後、直ぐに車は細い道の端に停車した。建物もなにもない細い山道だけが闇の奥へと延びている。
「赤城さん。助けて下さいよ。須田さんのことなんて本当に知らないんですよ。赤城さん……」
男は何かを感じたのか鼻血を流しながら必死に懇願を続ける。
「姉ちゃん。どうする。車に残るか?」
赤城が男を無視して理子に訊く。理子は躊躇うことなく「行きます」と答えた。
「そうか……」
赤城が呟いて後部座席から降りる。続いて金髪が嫌がる男を車内から引き摺り降ろす。理子はその光景を眺めながら自分が薄く嗤っていることに気が付いた。それは、飼い猫が偶然出くわした鼠を遊び殺すように、純粋で悪意のない好奇心であり、コールタールのように粘りつく漆黒の悪意。理子は、その微笑みを誰にも気付かれぬように車から降りた。
獣道のような藪を暫く歩くと、朽ち果てた小さな祠のようなものの前に出た。少しだけひらけた場所に置き去りにされている信仰の証。理子は祠の中をゆっくりと覗き込んだ。
「これは俺達が運んだヤツだよ。中に神様なんて、ねーよ」
金髪が理子の後ろから呟く。振り返って、改めて見たその顔はどこか幼くて、理子は自分と然程変わらない歳のような気がした。
「なんでかな? 赤城さん。お前のこと気に入ったみたいだな。ここに連れてくるなんて信じられねえよ。それに、それを拒まないお前もどうかしてるよ」
金髪は独りごちるように言って、祠の前に立つ理子を押し退け。中からスコップを取り出す。
「助けて下さい。赤城さん。助けて下さいよ。俺は知らないんですよ……」
更に振り向くと、懇願を続ける男がラブホテルの一室でしていたように地べたに跪いている。
「赤城さん。助けて下さい。俺は本当に知らないんですよ……」
泣き出しそうな声で男が訴える。
「そうだな。お前は本当に何も知らないのかもな」
「だったら……」
目の前に立つ赤城の言葉に男がすがり付く。赤城は、腰を落とし男の顔前に片手を翳して、それを制する。
「お前は、須田のところにいた。そうだろ?」
男が頷く。
「お前は、俺らの会長が望んでることを知ってるよな?」
男は一瞬躊躇った後、素早く何度も頷いた。
「そうだ。お前は知っている。だから、俺達は須田をブッ殺さなきゃならない。分かるよな?」
赤城の問いにゆっくりと頷く男。理子は男が突然喚き出し、反撃してくるような気がして少しだけ後ずさった。だが、赤城は全く気にも止めない様子で話し続ける。
「俺達は、何かトラブルが起きても警察に助けて下さい。なんて言える筈もない。俺達のルールで解決するしかない。分かるだろ?」
男は頷くのも忘れたのか呆然と赤城の顔を見詰めていた。
「これは、ルールなんだよ。お前が須田の居場所に案内してくれれば、俺達は手間が掛からなくて済んだ。でも、お前は知らない。だからって、お前だけ逃がしてやるのは出来ない。お前は雄司の早漏と同じだ。直ぐに弾けちまう。それでもな、早漏だろうが遅漏だろうが擦り続ければいつかは弾けるんだよ。お前が須田のことを知っていれば、もう少しばかり長生き出来たのにな」
赤城が男の頬を軽く撫でるように数回叩いて男から離れる。次の瞬間。金髪がスコップの切っ先を男の喉元に叩き込んだ。男が、その場で転がり回り潰れた呻き声を漏らす。宙を掴むように何度も腕を伸ばして空を掻き毟る。男は暫く同じような動作を繰り返して、その後は小さな痙攣を起こした。
「これだけで……死ぬの?」
理子は男が続ける痙攣を眺めながら気が抜けたように呟いた。死ぬとは、もっと過酷な苦しみを長時間掛けて押し付けられるものだと思っていた。血が飛び散り、断末魔の絶叫が耳に焼き付くと信じていた。
「アレでやられると、喉の内側に傷が出来る。大量の血液がそこから噴き出して、そいつの肺に侵入する。窒息だよ」
赤城が言って、理子の手を引く。車に向けて歩き出す。
「雄司。いつも通りにしろよ」
「了解っす」
赤城の言葉に、まだ微かに動いている男の両足を握りながら答える金髪。
「それと、車のボンネット借りるぞ」
「好きっすね。へこまない程度にしてくださいよ、本当に」
金髪は言いながら男を引き摺り藪の中に消えていった。
「気持ち良くなって来たら、我慢せずに喘げよ。その方が良いからよ」
赤城が耳元に呟く。それに、何度も頷く理子。ボンネットの上で犯されながら、理子は初めて自分の肉体が暗く冷たい闇の底に堕ちていくような重たく深い絶頂に達っする予感があった。
●
纐纈の工房から出た理子は、大通り迄の路地をゆっくりと歩いた。小さな街。何もない街。そう思う。同時に、今の自分にはこの世界が全てだと理解もしている。手に入れることが出来るものは自分の器で掬えるものだけだ。今の自分に出来るのは、母を殴り、自分を慰み者とする義父から逃げる事。いつか、赤城のような圧倒的力を手に入れて、義父を現実の世界から消すために、今は、逃げる。
漫然と考えているとスマホが震えた。
「遅いよ」
「ごめんな。佳奈のヤツが、また客ともめて時間が掛かった」
反射的に発せられた理子の不機嫌な声に謝罪る金髪の声。
会員制の売春形体。以前の自分のように、SNS等から客を探し出す非効率で不安全な売春ではない。客の方も誰でもなれる訳でもない。それなりの金を積み、上質な快楽と安全を手に入れることが出来る、ある程度の金持ち達をカモにする。上質な快楽には若く見栄えの良い肉体が必要だ。それを調達するには暴力をチラつかせるだけでは足りない。甘い飴と、初めの一歩を踏み出させる仲間が必要だ。全てを操るには自分のような存在が必要だ。理子は自分の価値を安く見積もることはしないと決めている。赤城に抱かれたあの日から、そう決めている。
「佳奈は関係ないよ。私が言いたいのは、私が待ってるって事だけ。赤城さんにも連絡しといたから。とにかく、早く迎えに来てよ。この辺り、待つ所もないから近くまで来たら、また電話してよ」
理子は、電話を切ると視界に入っていた本屋に飛び込んだ。本の匂いが好きだった。文字だけが造り出す架空の世界が好きだった。だが、その事を理子は誰にも打ち明けたりしていない。その必要もない。今の環境から抜け出す為に必要なのは金と少しばかりの暴力だ。妄想は子供騙しの現実逃避でしかない。それでも、抑えつけた感情はバネのように力を蓄える。理子はスマホが震えるまで貪るように文字の世界に没入していた。
「どこにいる」
赤城の低い声。スマホの時計では金髪と電話してから二時間以上が過ぎている。理子は尖った声で訊いた。
「パース通りの本屋にいるよ。それより、迎えは、まだ?」
「雄司と一緒じゃないのか?」
「んなワケないでしょ? で、迎えは?」
「俺が直ぐに行く」
短く答えて電話を切った赤城の声色が、普段と違う気がして理子は強い不安を感じた。
●
「雄司が消えた」
ハンドルを握る赤城の声は、信じられない程に力を失っていた。
「さぼって、佳奈としてるとか? まったく…」
「闇スロをやらしてる奴が、須田らしい奴を見たと言っている」
理子が言い終える前に、赤城が苦しそうに呟く。
「須田って……」
理子の脳裏に薄汚れた祠の前で行われた事実が鮮明に甦る。金髪に脚を引き摺られて闇に消えた男の絶望に支配された表情が甦る。
「そいつが、佳奈と雄司君を?」
「今は、確かめようがない」
赤城の苦痛に満ちた表情。理子は赤城に向けていた視線を正面に直した。夕方の国道に詰め込まれた車のテールランプが不規則に点滅する。闇が完全に街を飲み込むまでに然程時間は必要なさそうに思える。
「大丈夫だよ……」
佳奈を引き入れたのは自分だ。理子は自分自身に言い聞かせるように呟いた。だが、まだ、脳裏には叫び出しそうな男の顔が張り付いている。闇に消された筈の男が側にいるような気がして、理子は今まで訊けずにいた事を赤城に訊ねた。
「須田って、あの人。一体なにをしたの?」
理子の問いには答えずに赤城は真っ直ぐに前を見据えて無言のまま運転を続ける。暫く進んで信号を二つ程越えると渋滞が嘘のように溶けていた。
「作り上げたばかりの複雑な仕組みが、正確に動くか確かめる為には、どうしたら良いか分かるか?」
スピードを上げながら赤城が呟く。加速する車体が路面に押し付けられるように沈むのを全身の感覚が捉える。真意の分からない問いに戸惑いながら理子は首を振る。「分からない」と、小さく返す。
「実際に動かしてみるしかないのさ。俺達は……いや、頂点に立つ一部の奴ら以外は、どれだけ虚勢を張っていても何かの歯車でしかない。どこかで聞いたような言葉だが、それが現実だ。大きく複雑な仕組みが動き出した時に邪魔になる部分は排除するしかない」
「意味が、分からないよ」
理子は対向車のライトに浮かんでは消える赤城の顔の陰影を見詰めた。考えてみれば出逢った日から、数え切れない程に身体を重ねて赤城の欲しがることを与えてきたつもりだが自分の質問に赤城が真剣に答えたことは無かった。「教えて」
理子はハンドルを握る赤城の手に自分の手を重ねて訊ねた。欲しがる時にだけ感じていた赤城の体温が奇妙な懐かしさを感じさせる。理子の感情に気が付いたのか、重なるその手を見詰める赤城。
「俺も、どうかしてるな。お前みたいな小娘に何を求めてるんだ」
赤城が卑下たように微笑む。
「教えてよ。私も、あの場にいたんだよ? 何も教えないなんて、酷い」
「そうだな。確かに、お前もあの…ッ!」
理子の言葉に赤城が答えようとした刹那。
鼓膜を引き裂くような痛みに似た爆音が響いた。強烈な衝撃が高速で走る車体を真横から弾き飛ばす。一瞬、身体が浮いて、胸に掛けたシートベルトが助骨を激しく締め付ける。衝撃。激痛。混乱。全てが閃光のように流れ込んで、理子の感覚を半濁としたものに瞬時に変える。
発狂した女の絶叫のようにタイヤが悲鳴を上げる。車体がスピンしながら路面を滑る様がフロントガラス越しの回転する視界から曖昧に判断出来る。重力が規則性を失い、硬直した身体があらぬ方向に押し付けられる。叫ぼうとして息を吸い込んだ次の瞬間。もう一度、絶望的な炸裂音と衝撃が響いて、理子の骨まで軋ませた。
「赤城さん。久しぶりです」
路肩の街路樹に食い込むように衝突し、変型た車体の割れた窓から見知らぬ男が覗き込む。痛みも感じない程に噴き出している脳内麻薬の作用で半濁としていた筈の感覚が研ぎ澄まされる。普段よりもクリアに聞こえる周囲の音や声。理子は目の前の男以外の数人の足音をハッキリと感じていた。
「須田……」
辛うじて声にした赤城の額からは大量の血が噴き出している。理子は赤城に手を伸ばそうとして自分自身も細かな傷で血だらけになっている事に気が付いた。意識はクリアに働いているのに声も出ない。
「赤城さん達には、色々と迷惑掛けたと思いまして。ご挨拶に来ました」
言いながら、ゆっくりと運転席側のドア横に移動する男。
「ふざけるな」
その胸元に腕を伸ばす赤城。ふらふらと揺れる赤城の腕を掴む男。理子の場所からもハッキリと歪んだ微笑みが見える。
「そうそう、アイツも最後まで見苦しく命乞いしてましたよ? 名前は……」
「お前、雄司と佳奈も……」
「そう! 雄司。アイツは本当に最後まで駄目な奴でしたよ。痛い、痛い、助けて、助けてってね。笑えましたけどね」
「須田、お前……」
掴まれた腕を揺らして必死に男のシャツを握り締める赤城。男がその腕を砕けた硝子の着いたドアに押し付けて梃子の要領で自らの体重をその腕にのせる。赤城が喉の奥から吐き出すように太い悲鳴を上げる。
「そう、そんな感じですよ。流石、兄貴分の唸り声は違いますね」
男が嗤いながら更に体重を赤城の腕に預ける。赤城の絶叫が更に大きくなる。「やめて!」助手席側から全てを見ている理子は、声の限りに叫んだつもりだったが、それが喉を喉を駆け上がることはない。
「もう、あと少しかな?」
男が冗談のように呟いたのと同時に、理子の視野から一瞬、男が消えた。同時に赤城の身体が大きくなる反り返る。理子には、ハッキリと赤城の腕の骨が折れた音が聴こえた。
「アイツは、ギャーギャーと女々しく泣いてましたが……流石ですね。まだまだ、楽しませて下さいよ。赤城さん」
言って男が赤城を車外に引き摺り出す。そのまま路上に転がすと直ぐに二人の若い男が赤城を跪かせて両腕を取り、押さえ付ける。
反対の車線で一旦止まり掛けた車が赤城たちの様子をみて慌てて走り去っていく。
「あぁ……これからなのにな……仕方ない。事故の通報が直ぐにいくかも知れないので時間が無いですね。赤城さんとは、色々と話をしたかったのですが、残念です」
言って、男が赤城の頬を拳で殴る。二発。三発。力無く微笑みながら赤城はされるがままになっている。
「イヤッ……イヤだ!」
理子は絶叫した。直感的に赤城に訪れる確実な死を全身で感じて絶叫した。シートベルトを外そうともがいて暴れて、それが壊れている事に気付く。
「赤城さん……相変わらず、モテるみたいですね。彼女達は事務所の書類で調べさせてもらいました。安心してください。アイツといた小娘にも、赤城さんが囲ってる女全員これからも組の為に引き続き頑張ってもらいますから気にせず逝って下さい」
理子に視線を向けていた男が、ゆっくりと言って左手を赤城の頭の上に乗せる。
「イヤッ! イヤだ! イヤ!」
理子は絶叫を続ける。衝撃に閉じた喉を抉じ開けて声を絞り出す。それでも、理子の声を無視して男が赤城の頭に置いた手で顔を動かぬように固定して、右手に握っていたナイフを喉に静かに突き刺す。それを、ノコギリを使うように前後に出し引きしながら横に切り裂く。赤城の喉から大量の鮮血が噴き出す。ナイフを握る男を、両肩を押さえ付ける男達を紅く染めていく。赤城は叫ぶことも出来ずに跪いたまま大きく身体を痙攣させ続ける。紅い鮮血の噴水が規則的に高く噴き上がる。
暫くして男達が手を離すと、赤城は路面に突っ伏すように倒れ込んだ。
「暫くしたらお前にも連絡するよ。全部調べてある。逃げられないからな。それと、お前は何も見てない。忘れるなよ。お前は、見てない。誰もだ……ヤクザのオジサンを甘く見るなよ」
閉じ込められた車内から見詰めている理子に窓から身を乗り出し男が言う。太く冷たい揺るぎない意思を感じさせる声。理子は呆然とそれに頷いた。
男達が去って、救急車両が到着しても理子が見詰めている間。もう、それっきり僅かにも赤城は動かなかった。
●
「おう、時間通りに来たのか? あと少しで仕事も終わるからよ。元気そうで良かった。復帰して安心したよ。赤城さんの事故で滅入ってるんじゃないかって、新しい兄ちゃんが言ってたからよ。気にしてたんだよ。助手席に乗ってたんだろ? 大変だったな。でも、事故は誰の責任でもねぇし。気にするな。これから、良いことばかりだよ、きっと」
着いたばかりの理子に矢継ぎ早に捲し立てる初老の男。作業していた手を止めて奥に消えると直ぐに出てきた。
「ほら、前に約束したろ? 楽しいこと、一つ目だな」
更に言って、理子の前に木製の桶を押し出す。夏の湿った風が窓を開け放った纐纈の工房の中を駆け抜ける。
「約束……そうだったね」
「おじさんはな。理子ちゃんの頼み事は、ちゃんと覚えてるんだよ」
得意げに言う男の微笑み。感じたことのない微かな痛みが胸の中で広がる。
「昔、本当の父親と夏休みの課題でやったの……図書館から本を借りてきて、二人して本を見ながら、こうじゃない。ああじゃない……って、悩みながら……」
生温かい藍色の液体。その中に浸した布を指先で摘まみ上げる理子。その布の所々には紐でキツく縛り込んだ塊があって、液体の浸透しないその場所は染料が染み込んだ場所と不可解に混ざり合い、二度と同じものが出来ない唯一無二の模様を生み出す。
おわり
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