第2話 未完の火
帝国に着いたころには、あたしの噂が先に歩いてたらしい。
「穏やかなのに、怒れる兎」
帝国軍はそんなあたしを従軍奴隷として徴用した。
でも、あたしは怒れなかった。命令でなんて。
上官が言った。
「敵を憎め。——命令だ」
号令は、槍の穂先を一斉に同じ方向へ向けさせた。
けれど、熱は生まれない。
それは火じゃなく、影だった。
影は踏めるけれど、燃えない。
憎しみは、相手を固定して未来を閉ざす重りだ。
怒りは、境界を守るために立ち上がる呼吸だ。
そして「命令で出す怒り」は、借りものの心——空洞だ。
それでも兵士たちは怒るために号令を待ってた。
「敵を憎め」と言われなきゃ、何もできない。何もしない。
命令で怒るなんて、怒りの真似事だ。
「怒りを命令で出す?それは、心を借りることだよ。」
そう呟いたとき、あたしはやっと気づいた。
怒りを制御するって、抑えることじゃない。
本物を見極めることなんだ。
◆
砂漠で熱を知り、氷で死を見て、火で打ち直し、海で流し、そして帝国で、人の怒りの形を見た。
「怒りの真似事はいらない。」
あたしは小さく言った。
「あたしの火は、誰かの号令じゃ点かない。」
あたしの中で燃えるものは、もう暴れない。
静かに灯って、前を照らしてくれる。
怒りっていうのは、生きることそのものなんだ。
◆
帝国での暮らしにも、もう慣れていた。
朝が来たら槍を磨き、号令が響いたら顔を上げる。
怒れと言われれば怒り、冷めろと言われれば黙る。
そんな一日が、ただ続いていった。
けど、あたしの胸の奥は、もう動かない。
怒りは命令で出すもんじゃないと知ってしまったからだ。
そんなある日、兵舎の裏で妙な噂を聞いた。
王国の辺境――外壁の街に、「穏やかな軍」があるらしい。
狐姿のイシュの民率いる橙の近衛軍。
「穏やかなのに、怒れる兎」イシュの民の例外種。
それを実験的に造り出したという噂。
ややもすると諸刃の剣ともなり得る例外種で構成されているというのに、暴れもせず、狂わず、まるで呼吸するように秩序を保っているという。
その話は、兵舎のあちこちで囁かれていた。
だが、同時にこんな噂もあった。
「外壁の街の人間たちは、近衛軍を恐れている。」
街を守る軍――と名乗りながら、実際には近衛軍と人間の軍は別のものらしい。
帝国の常識に照らし合わせると、人間の軍は、規律と命令でしか動かない。
勝手に怒ることも、笑うことも、許されない。
命令で怒り、命令で冷める。
近衛軍は穏やか。
人間の軍は無感情。
その境界で街が回っている。
そんな奇妙な均衡が成り立っていると聞いた。
穏やかなのに戦う?
怒りを抑えて理性を保つ?
……あたしと、同じじゃないか……
同時に、別の噂もあった。
外壁の街。
かつてイシュの民が築いたという、あの伝承の地。リオナの生まれ故郷。
イシュの民が集まりやすいことも知られているのに、軍は人間で組織されているんだって。
それに、妙なことに、食料の輸入がやたら多い。
外壁の内側には、黄金の穀倉地なんて大層な名の付けられた、麦の名産地があるって聞くのに。
帝国の連中にとって、それは気味が悪い話だった。
「なぜ、豊富なイシュの民を戦に使わなくなった?」
「エレガン辺境伯は、あの力を温存している。」
まるで、何かを隠しているように見えた。
実際、外壁の街では実験的な政策が次々と許されているという。
家畜も、奴隷も、税も、他の領と違う形で運用されている。
その結果、強固な外壁があるというのに、辺境領を覆い尽くすように広がった森が、今では天然の要塞となっている。
帝国軍の調査部隊に志願するのは、簡単だった。
「外壁の街の動向を探る任務」という名目があれば、誰も怪しまない。
けど、あたしにとってそれは、ただの任務じゃない。
ガン・イシュを出てから、いろんな国を見て、結局、怒りのあり方をもう一度確かめたい場所が、そこだった。
抑えられたはずの怒りを、わざわざ呼び戻してまで穏やかに保つ――それは修理か、改造か、破損の隠蔽か。
砂漠の熱も、氷の冷たさも、火山の爆ぜる音も、海の静けさも、全部通ってきたあたしだから、見極められる気がした。
怒りを消して穏やかに見えるものが、壊れてないわけがない。
馬車の車輪が砂利を蹴る音を聞きながら、あたしはふと、砂漠の老人の言葉を思い出した。
「怒りは悪くない。ただし、飲み込むな。燃やして立て。」
外壁の街は遠く、深緑の森に包まれているという。
あの森の奥に、きっと答えがある。
怒りが、どうやって穏やかさと共に在るのか――
そう信じて、あたしは帝国を出た。
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