第2話 TIME LIMIT


 沙織は、ペットボトルの底に残っていたお茶を喉の奥に流し込んだ。

 時刻は午後二時十五分。雨はもうほとんど降っていない。青空が顔を覗かせ、陽が照っている。ただ、新幹線は動いていない。


 沙織は焦っていた。

 予定されているプレゼンの時間――二時二十分に間に合わないのは仕方がない。制限時間タイムリミットは、先方と交渉して取り付けた三時四十分。サッカーで言えば、後半の試合時間終了後に設けられるアディショナルタイムみたいなもの。それまでにメイシン精機のオフィスに辿り着けば、後ろめたいことは何もない。

 しかし、そのためには、二時二十五分までに新幹線の運転が再開される必要がある。あと十分しかない。新幹線が動かなければ、希望はついえてしまう。沙織がプレゼンの機会を失うだけではなく、会社がビッグチャンスを失うことになる。


「雨は止んでいます。なぜ運転を再開しないのですか?」


 溜まりかねた沙織は、忙しそうに通路を行き来する、小太りの車掌を捕まえて強い口調で尋ねた。


「申し訳ありません。現在、線路の点検作業を行っています。今しばらくお待ちください」


「作業はいつ終了しますか? 私、三時二十五分までに名古屋駅へ行かなければいけないんです!」


 声を荒らげる沙織に、車掌は、銀縁の眼鏡のブリッジを指で押し上げながら申し訳なさそうな顔をする。


「ご迷惑をお掛けして申し訳ありません。ただ、終了時間は未定です。安全が確認され次第、担当部署から連絡が入ることとなっています。今しばらくお待ちください」


 型通りの説明を終えると、車掌は軽く一礼をしてそそくさとその場を後にする。丸っこい背中を恨めしそうに見つめながら、沙織は深い溜息をつく。


「これじゃあ、本当にまな板の鯉だよ」


 沙織の口からそんな言葉が漏れたとき、メールの着信音が鳴る。白河からだった。「状況はどう?」。たった六文字の短い文章から深い思いが伝わってきた。白河だけでなく、社長以下みんなの思いが感じられた。

 「状況は変わっていません」。返信メールを作成した沙織だったが、送信ボタンを押すのが躊躇ためらわれた。新幹線が止まっているのは雨のせい。不可抗力以外の何物でもなく、沙織には何の責任もない。にもかかわらず、罪悪感のような何かが沙織の身体に重く圧し掛かる。


「私の提案、間違っていたのかな……?」


 沙織の口から、らしくない、弱気な言葉が漏れる。

 周りに目をやると、どの乗客もシートをリクライニングにして目をつむっている。そんな様子を見ていたら無性に腹が立ってきた。

 次の瞬間、冷静さを失っている自分に気付いて頭を何度も左右に振る。


「大丈夫。きっと上手くいく。しっかりしろ、沙織」


 自分に渇を入れるように、両手で左右の頬をピシャリと叩いた。

 すると、それが合図であるかのように、車内にチャイムの音が鳴る。沙織の心臓がトクンと音を立てた。


「本日も東海道新幹線をご利用いただき誠にありがとうございます。ご乗車のお客さまに連絡事項がございます」


 チャイムに続いて流れたのは、先程と同じ車掌の声。まさに沙織が待ち望んでいたものだった。


「現在、当列車は大雨の影響で運転を見合わせております。先程、連続雨量及び時間雨量が基準値を下回り、線路の点検を実施したところ、安全であることが確認されました。つきましては、間もなく運転を再開いたします。ご迷惑をお掛けして大変申し訳ございませんでした。なお、各駅の到着時刻ですが、名古屋には十五時三十分、京都には――」


 アナウンスの途中で外の景色が流れ始める。新幹線が動き出した。


「よし!」


 小さくガッツポーズをとると、沙織はメールを打ち始める。「新幹線の運転が再開されました。名古屋駅到着は三時三十分です。ギリギリ間に合います」。返信ボタンをクリックしてフッと息を吐いた。しかし、その顔には、どこか緊張の色が見て取れた。まだ予断を許さない状況が続いていたから。


 名古屋駅に到着してから制限時間タイムリミットまでは十分。歩いていては間に合わない。ひたすら走らなければならない。

 沙織の服装は上下ビジネススーツ。身体のラインを細く見せるペンシルスカートにかかとが三、四センチ上がったパンプス。どう見ても走りやすい服装とは言えない。しかし、決して走れない服装ではない。


 頭の中で、駅に到着した後の行動をシミュレーションする。

 新幹線の扉――ホームのエスカレーターに一番近い扉の前に立ち、扉が開いた瞬間、競走馬のように勢いよく飛び出す。エスカレーターを降りて改札を出たら、中央コンコースを桜通り口へ向かう。

 外に出て桜通りを四、五百メートル行ったところが名駅メイシンビルディング。八階がプレゼン会場。桜通りは駅から真っ直ぐに伸びる幹線道路。迷うことはまずない。


 名古屋駅に到着したことを先方へ知らせることも考えた。「少し遅れるかもしれません」。暗にそんな意図を伝えて、遅れたときの免罪符とするため。

 ただ、制限時間タイムリミットは決まっている。にもかかわらず、更なる譲歩を引き出そうとする姿勢に疑問があった。権藤の紹介だけに先方は許してくれるかもしれない。ただ、プレゼンに参加したという実績を得ることに固執するあまり、今以上の特別扱いを受けるのはどうなのだろう。

 沙織は思った。「権藤が自分に期待してくれたのは、プレゼン能力の部分だけではなく、『約束を守る』とか『誠意を尽くす』といった、基本的な部分を含めてのことではないか?」と。


★★


 沙織は、満を持して八号車の扉の前に立った。

 肩にはショルダーバッグ。右手にはパソコン専用バッグ。左手には新幹線の切符。ネットで検索したところ、そこがエスカレーターに最も近い扉だった。


 車内放送が、間もなく列車が名古屋駅へ到着することを告げる。

 沙織の後ろにはたくさんの人が並び、列は八号車の中央まで伸びている。同じことを考えている人が結構いるようだ。


 新幹線が減速を始める。沙織はパンプスを履いた左右の足首を軽く回して来るべきときに備える。

 周りの景色が、住宅街からビル群へと変わっていく。初めての場所だったが、看板に書かれている企業名や商品名は知っているものばかり。品川や東京とあまり変わらない。

 駅の構内に入った新幹線は、さらにスピードを落とし徐行運転に入った。

 ホームはたくさんの人で溢れ返っている。平日の昼間とは言え、日本の大動脈が二時間も止まったのだから影響は大きいようだ。

 そんな様子を目の当たりにしたことで、沙織の緊張が高まった。混雑した構内を進むことで予想以上に時間がかかることが懸念されたから。


 新幹線が動きを止めると、沙織は乾いた唇にペロリと舌を這わせる。

 プシューという音とともに扉がゆっくりと開いた。


 沙織は勢いよくスタートを切る。ホームに溢れる人の波をスラロームしてエスカレーターに辿り着くと、階段を下りるようにエスカレーターを降りていく。「危険ですのでエスカレーターを駆け上がったり駆け下りたりしないようお願いします」。注意喚起を促す放送は耳に届いていた。ただ、聞こえない振りをした。

 自動改札を抜けて中央コンコースに出た。そこもかなりの混雑ぶりで、特に緑の窓口の周辺がひどい。ダイヤが乱れていることもあって、普段は機械の前に並ぶ人が有人窓口へと押し寄せている。

 桜通り口を目指してひたすら走った。構内は、物音や人声が渦巻き、雑然とした雰囲気が漂っている。ただ、パンプスのかかとが床を打つ、コツコツという音と、心臓のドクンドクンという鼓動ははっきりと聞き取れた。


 外へ出た瞬間、まるでサウナのような、熱風が沙織の全身を包み込んだ。

 この時期の雨上がりは、東京でも湿度は高いが、それに輪を掛けたような状況は不快そのものだった。ただ、今はそんなことをとやかく言っている場合ではない。

 たくさんの人が行き交うスクランブル交差点を足早に進んだ。

 スマホに目をやると、時刻は三時三十五分。制限時間タイムリミットまでは残り五分。目的地までは残り四百メートル。


『大丈夫。いける』


 心の中で呟くと、沙織はスピードを上げる。

 ところ狭しと立ち並ぶビルの名称を一つひとつ確認するように、視線を遠くに向けて走った。そろそろと思ったあたりで目を凝らすと、五十メートルほど先のビルの側面に「名駅メイシンビルディング」と書かれた表示が見えた。


「間に合った!」


 沙織の口から歓喜の声が上がる――が、次の瞬間、目の前の風景が変わった。

 目に映っているのは、熱気が立ち上るアスファルトと、陽炎かげろうのようにゆらゆらと揺れる街並み。そして、無造作に転がる、パソコンのバッグ。全身に焼け付くような感覚が広がっていく。


 何かに右足を取られた沙織は、歩道の上にうつ伏せに投げ出されていた。

 すぐに冷静さを取り戻すと上半身を起こして立ち上がろうとした。

 しかし、それはままならなかった。右足の足首に激痛が走ったから。苦悶の表情を浮かべ、言葉にならない声を発しながら、沙織は焼けたアスファルトに両手と両膝をついた。

 


 つづく

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