鍵盤豆腐

 私はピアノと共に人生を歩んできた。幼いころから毎日ピアノに触れ、ピアノを愛していた。明日は私のコンサートがある。世界中から私の演奏を聴こうと多くの人々が集まる。しかし、私の中にはある不安が生じていた。普段のコンサート前日の緊張感とは全く別物、それは、演奏中ピアノの鍵盤が豆腐になるかもしれない、というものだった。杞憂かもしれない。いや、常識的に考えて、これは杞憂だ。鍵盤が豆腐になると心配するよりは、隕石が落ちてくる心配をする方が現実的であるし理にかなっている。そんなことを考えながら、私は眠りについた。


 朝になった。今日はコンサートだ。ベッドから降り、シャワーを浴び、服を着る。そこであることに気付いた。昨日の心配事、鍵盤が豆腐になるかもしれないという不安がより強い実感として、私に近づいてきているということ。信じられなかった。あんなの寝ぼけ頭だからこそ浮かんだ考えではなかったのか。そうは言いながらも、今日のコンサートを中止することは出来ない。多くの人が楽しみに待っているのだ。しかたなく私は会場へ向かった。

 

 会場についた。スタッフの多くが私を待っていた。リハーサルの準備は万端だった。私は落ち着きはらって、リハーサルに臨んだ。調子は万全だった。三時間ほど弾き続けた。しかしリハーサルが終わった瞬間、またあの不安が頭をよぎった。いや、よぎった程度の話ではない。ハンマーで殴られたような感覚だった。そこで確信した。今日の演奏中、鍵盤は豆腐になる、と。

 そうはいっても時間を止めることは出来ない。本番がやってきた。私は、演奏中ピアノが豆腐になることを確信しながらステージに立ち礼をした。観客たちは私の礼を見て、一斉に拍手をした。あぁ、なんて哀れな人々だろう、彼らはこれから鍵盤が豆腐になるなんて、思ってもいないのだ。私の演奏を楽しみにここまでやってきたのだろう。申し訳ないが、私にはどうすることもできない。運命を、恨んでくれ。

 一曲目はベートーベン作曲、月光第一楽章。厳粛な曲だ。私は左手の親指と小指でドのシャープを、右手の親指でソのシャープを弾こうとした。

 ネチョッ。

 いきなりの、豆腐化。弾こうとした三つの鍵盤すべてが豆腐化していた。

 これには、鍵盤が豆腐化することを確信していた私も、少々驚かされた。月光ソナタは曲の多くに黒鍵が使用されている。豆腐と言えば白。よって私は、白鍵が多用されているワルトシュタインソナタあたりにおいて、鍵盤の豆腐化が始まると考えていた。今考えると、非常に観念的で、根拠のない予測だったが・・・。

 観客は静まっている。きっと私の指が豆腐を弾いた効果音も、観客までは届いていない。彼らは長い間私が鍵盤の上に指を置き続け、演奏開始に向け息を整え続けているとでも考えているのだろう。さて、どうしたものか。ここで気づいたのだが、私は鍵盤が豆腐化することを確信していながら、豆腐化した場合どのような対処をするか考えていなかったのだ。愚かだった。私は私に腹を立てた。

 私はしばらく凍り付いていた。時の流れが身に染みる。観客席からもざわざわと音が聞こえ始めていた。私は決めた。食べよう、と。

 次の瞬間、私は鍵盤にかぶりついていた。全ての鍵盤(豆腐化した)をがむしゃらに食べ続けた。観客からは悲鳴が聞こえた。もうどうにでもなれ。運命とは時に残酷なものなのだ。

 食べた。全ての鍵盤(豆腐化した)を食べ終えた。この世のものとは思えない旨さ。感無量、私はもう死んでもいい、人生を全うした気分だ。私は悠々と立ち上がり、悲鳴が聞こえる観客席を向いて、礼をした。

 ステージ裏に戻ると、スタッフたちが呆然と立ち尽くしていた。皆が私を見ていたが、誰も私に声をかけることは出来なかった。はははは、王になった気分だ。上機嫌のまま私はタクシーに乗り、帰宅した。

 素晴らしくいい気分だ。今夜は酒も女もいらぬ。そのままベッドに直行した。その夜は今までで最も心地よい睡眠をとることが出来た。


 朝になった。私は渇望していた。なにを。豆腐をだ。いや、元鍵盤の豆腐をだ。食べたい。食べたい。しかし、ない。元鍵盤の豆腐などあの時、あの場所以外で発見することは出来ないのではないか。私は絶望した。試しに自宅のピアノの鍵盤に噛り付いた。しかし、それは鍵盤であった。硬かった。試しに豆腐を買って食べてみた。それは豆腐だった。ただの、豆腐だった。元鍵盤の豆腐を食べた私にとって、それは最早灰同然。食べたい、元鍵盤の、豆腐を。あの快楽を味わってしまった、私。もうなにごとにも快楽を感じられないのではないか。いや、間違いない。大好きだったくるまエビさえ、トイレットペーパーのようにしか感じることが出来なくなっていた。


 皆の者、鍵盤が豆腐になっても食べてはいけない。待っているのは、一瞬の極楽と永遠の地獄。気をつけよ。

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