7-3

 ホームルームが終わり、現国教師の小野坂が特徴のある歩き方で教室に入って来る。


 今日は現国からだったか。早速眠たい科目だ。


 今日は1日居眠りをせずに頑張ろうと思ってたんだけど、どうしてこの教師の声って眠たくなるんだろう。

 こういう時の居眠りで夢見ちゃったら、父さん出てくるのかな。

 でもフルで寝たって50分だろ?

 たった50分じゃネズミだけで終わっちゃうんじゃね? つうか、また今日もネズミから始まんのか?

 時間短縮っつーことで人型の父さんスタートでお願いしたいんだけどなぁ。


 視線だけは教科書に落とす。

 小野坂の声に合わせて文章を目で追うものの、内容はちっとも頭に入ってこない。何度も欠伸をかみ殺した。


 その時、俺の頭の中で声がした。


 ――もっと、敬意を。感謝の気持ちを。


「――ふぁ?」


 突然聞こえてきた声に、思わず声が出た。


 しかも、欠伸をかみ殺したせいで、何とも間の抜けた声である。


 さらに間の悪いことに教室内は静寂に包まれていた。長い文章を一気に読み上げた小野坂が、息継ぎをしたその瞬間のことだったのだ。否応なしにも教室中の注目を集めてしまう結果となる。


「どうした? 櫻井」

「いや、あの……ちょっとトイレ……良いっすか?」

「――お? 何だ、授業始まる前に済ませとけ」


 小野坂はそう言いながらも、教科書を持った手で出入り口を指す。行って来いの合図だ。


 愛想笑いを浮かべつつ席を立ち、クラスメイトに笑われながら教室を出る。千鶴のあきれたような顔が目に入った。


 トイレに行くと言ってしまったので、とりあえずはそこに行くしかない。仕方なく、教室から一番近いトイレに向かった。


 そうだ、そうだよ。

 敬意と感謝の気持ちって言ってた。

 さっきの声はやっぱり父さんか?

 夢の中だけじゃないのか?

 出て来てくれんのかよ。

 なぁ、父さん、敬意と感謝って何だよ。

 俺、ばかだからそれだけじゃわかんねぇって!


 トイレに着き、特に催しているわけではないのだが、何となく個室に入る。


 どうだ、父さん。

 ここなら誰にも見られねぇって、さっきのは何なんだよ。


 何度か問いかけてはみたものの、もうそれきり声が聞こえてくることはなかった。


「さすがにぼちぼち出ないと怪しまれるよな……」


 そう呟いて個室から出る。

 何もしていないが、一応、水を流した。手を洗おうとして蛇口に手をかける。


 敬意と感謝か。


 もしかして、魔法のヒントか?

 まさか……でも……。


 蛇口を捻り、左手で受け皿を作ってその中へ水を入れた。片手なのであまり多くは溜められない。そしてその中に右手の指を入れる。


 敬意と感謝と言われても。

 この水道水に対する敬意と感謝って……一体何だろう?


 えーと、いつも手を洗わせていただいてありがとうございます……?

 どうか俺に力を貸してください。

 増えてください。

 お願い致します。


 ……ってやっぱり何にも起きねぇか。

 あ、いけね、蛇口開いたままじゃん。

 もったいねー。節水節水。水は大事にしないとな。


 左手に水を溜めたままの状態で、俺は右手で蛇口を閉めた。

 すると、左手で作った受け皿の水が、みるみるうちに溢れてきた。

 溢れた、というよりかは、まるで温泉のようにごぼごぼと湧いてきた、という感じである。


「――ん? お? おおおお? ちょちょちょちょっと! ストップストーップ!」


 ある程度の耐性が出来てきたのか、それとも授業中だという理性が働いたのか、小声で左手に呼びかけた。

 しかししばらくの間左手の水はごぼごぼと湧き続けた。


 手のひらから湧いているのだとしたら、とりあえず下に向ければ良いんじゃね?


 というシンプルな解決策に辿り着くまで、俺はひたすら、小声で「ストップストップ!」と叫び続けていた。

 

「……町中とはいかないけど、手洗い場は水浸しにしちまったな……。あと、俺も……。どーすんだよ、これ」


 最初の混乱ですでにやらかしていたらしく、学生ズボンはものの見事にずぶ濡れになっていた。

 どうにもならないので、ズボンを濡らしたまま教室に戻った俺だったが、小野坂の第一声は予想通り「どうした、櫻井。間に合わなかったのか」だった。

 千鶴は下を向いて笑いをこらえている。


 まだこらえてくれるだけましか。

 何せ、教室内は爆笑の渦なのだ。


 もう帰りてぇ。そう思った。


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