シーンD
■シーンD
「この頃から、ですよね?」
「え?」
船長の声に、ヒロキが振り向いた。
相変わらず口を笑みの形に歪めながら、船長は船を漕いでいる。
海は何事もなかったかのように元の灰色に戻っている。あたりには、櫂が水を掻く音だけが響いていた。
「自分には価値がない、誰からも必要とされていない、とあなたが思い始めたのが、ですよ」
もともとヒロキは自己肯定感があまり強くないという自覚はあったが、就職活動が難航するにつれ、それが確かな実体となって目の前に突きつけられていく感覚に陥った。
「……まあ、そうですね」
ヒロキはかろうじて大学の卒業要件は満たしたものの、卒業後の進路は結局決まらずという状況だった。一つ歳下の学生たちが就職活動を始める頃になると、すべてにおいてみじめな気分になり、何もかも投げやりな毎日を送っていたのだった。
「そしてそんなあなたにとって、恋人のハルカさんが、唯一自分を必要としてくれる存在だと思っていた」
「ああ、そう思ってた」何も見えない霧の向こうをぼんやりと眺めて、ヒロキはぽつりと言った。「でもそのハルカも、もう俺のことは必要ないって……」
「結局ハルカさんは、遠方の会社に就職。地元を離れることになったんですよね?」
「それで、一人暮らしを始めて……」
「ですがあなたが亡くなる数日前、地元に帰ってきていた」ヒロキの台詞を遮るように船長が言う。「そのときあなたは、ハルカさんが別の男性と一緒にいるのを見てしまった」
「……やっぱり知ってるんですか」
苦虫を噛み潰したような表情で、ヒロキが船長を睨む。
船長は笑みを崩さず、船を漕ぐ手だけを止めた。
「それで、こちらですね?」
船長が再び櫂で水面をたたいた。水しぶきが上がり、水面が揺れる。
ゆらゆらと像を映し出す水面を、ヒロキは見つめた。
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