天国への船

脳内航海士

シーンA

■シーンA


 波の音がした。


 青年は目を開いた。仰向けになっていた体をゆっくり起き上がらせる。

 座った状態で、青年はあたりを見回した。そこは荒廃した港のようだ。彼には見覚えがない場所だった。灰色がかった海が、静かに波音を立てている。深い霧が立ち込めていて、遠くのほうはよく見えない。

 目の前には、船着き場と、一艘の小船。


 自分は何をしていたんだっけ、と記憶をたどりながら、青年は両手を閉じたり開いたりしてみた。……そうだ、俺は。そう思ったとき、誰かの足音が近づいてくるのに気がついた。

「気がつきましたか?」

 声のしたほうに顔を向けると、一人の男が立っていた。青年は冷めた目で怪訝そうに男を見た。

 男は浮浪者じみた格好をしていた。継ぎ接ぎのぼろ切れを身にまとい、裸足で地面に立っている。両目は前髪で隠れていたが、顔の下半分だけでもわかるほどの薄ら笑いを浮かべていた。

 男がどこを見ているのかは判別できないが、周囲には自分しかいないので、今の言葉は自分にかけられたものだろう、と青年は思った。

「……誰ですか?」

 青年が尋ねると、男は小船のほうにちらりと顔を向けた。

「私はこちらの船の、まあ船長とでも呼んでもらいましょうか」男は笑ったまま答え、大げさに両手を広げた。「ようこそ。天国への航海の旅へ」

「天国?」

「死んだ人が行くという、いわゆる死後の世界です」

 男は青年に歩み寄った。

「あなたは、家の前の道路に飛び込んで自殺を図り、病院に運ばれたものの間もなく死亡した、サイトウヒロキさんでよろしいですね?」

「まあ、はい」

 青年は答えた。船長と名乗ったその男はいかにも怪しげだが、嘘は言っていなかった。

 青年は男の言葉を反芻する。

 自殺を図った、という記憶にははっきりと心当たりがある。そのようなことをした理由も覚えている。その後の記憶は定かではないが、目の前の男いわく、どうやら自分は首尾よく死ぬことができたらしい。

「……やっぱり俺、死んだんですね」

 ヒロキという名の青年は、安心したように小さく呟いた。船長は笑みを浮かべたまま頷く。彼はヒロキに背を向け、ぺたぺたと足音を鳴らしながら船のほうへと歩いた。

「天国は、この海を渡った先にございます」

 船着き場で船長はしゃがみこんで船べりをつかむと、顔だけヒロキのほうに向けた。前髪の隙間から、怪しく光る双眸が覗く。

「今からこちらの船で、天国へ、航海の旅に出発することになります。よろしいですね?」

「わかりました」ヒロキはじれったそうに答えながら立ち上がった。「さっさと天国まで連れていってください。船、乗っていいですか?」

「ええ。では、こちらへ」

 船長がヒロキを促した。ヒロキが船に乗ると、船長もそれに続いて船に乗り込んだ。

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