第32話

「まさき…」

「大丈夫、さゆはおれが守ってあげる。おれが愛してあげる。さゆが悲しい思いをしないように、さゆが大切だと思うもの守ってあげる」


 耳元で囁くようにことことと話していたまさきは、そう言うと腕を伸ばして静かに離れる。ごそごそと作務衣の胸元から治小を出すと、それを正座していた王子さまの膝へとのせる。

 きょとんとしている王子さまに、まさきは艶やかに笑いかけた。暗闇の中なのに、その壮絶なまでに美しい笑みは確かに見えて思わずそれに見惚れている間に。まさきは御簾をめくり牛車から飛び出して行ってしまった。


「さゆが望むなら骸虫だって、助けてあげる」


 制止する1人と1匹の声も聞かず、ただそう言い残して走っていってしまったまさきに、治小を抱きしめながら王子さまは泣きそうな顔をした。


「無理だ。無理だよ、まさき」


 たくさんの研究者が、骸虫に食われ乗っ取られた骸たちを助けようと研究を重ねてきた。いくつもの論文が秘密裏に発表され、色んな方法が試されてこられたけど。それでも一度として骸虫に乗っ取られた躰は戻ってこなかった。


 一体どれだけの人が傷ついたのだろう、これから聞こえる叫び声はまさきのものかもしれない。骸虫駆除にもうすでに参加している弓削朔月や美羽琴乃、武村アルカードなど王子さまに近しいもののかもしれない。それが怖くて、王子さまは御簾を上げて外を見ることができない。


「みぎゃ、みぎゃみぎゃ!」

「治小様?」

「みぎゅ! ぎゅこここ!」


 王子さまの膝から飛び降り御簾を巻き上げる紐を小さな口にくわえ、懸命に引っ張りながら治小は王子さまに向かって威嚇した。まるでそれが臆病者と言われているようで、王子さまはぐっと息を詰める。王子さまは雄々しく穏やかで、以前の飴細工子爵がいたころの治小を知っている。こんなに小さくなってしまった治小だって御簾を上げて外を見ようとしている。まさきがしようとしていることを見届けようとしている。それが。それが王子さまにできないはずはない。


「御簾を、あげます治小様」

「みぎゃ、みぎゃん!」

「ただ、この牛車からは出ないでください。御簾を上げて外を見るだけ。まさきを見守るだけ。いいですね?」

「みぎゃん!」


 わかってる! そう返事をするように治小は鳴く。王子さまは腰を浮かせると膝立ちで御簾の前に来て、思いっきり両紐を引っ張ったのだった。

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