第30話

「…さゆ?」

「みぎゃあ?」


 はたして、部屋の前を通りのぞいて行った王子さまに目を覚ましたのはまさきであった。まさきは青の女王、不可測の逆鱗と呼ばれる女王のいぬだ。女王の駒は仲間以外の気配にはひどく敏感で女王が治める学園以外では完全な眠りは取れない。しかもそれが偽体ではなく本体ともなれば余計に。


 そっと襖を閉め切った王子さまの行動に、怖い夢でも見たのかな? と図らずとも王子さまと同じことを考えたが、気配的に違う気がする。今の王子さまの気配はひどく重く、足取りは引きずるようだった。行きたくないと思っているのが丸わかりなくらいに。


 王子さまは文字通り1国の王の子で、何かを強制できる立場にあるのは王さまと王妃さまだけである。あんなに嫌そうな気配で、それでも行かなければいけないということはそれがなにがしかの役目に繋がっているからだろう。そしてそれを命じたのは王さまだとしたら。


「おれの、出る幕じゃないかな…」

「みぎゃ…」


 まさきの声に起きてしまった治小が眠たげにごろごろとまさきに懐く。だが、ぱさりと落ちてきたまさきの長い髪に治小は顔を上げると。憂い顔をしたまさきに心配そうにぽちぽちと小さな前足で慰めるように叩く。それを見て、まさきは尋ねる。


「でもさおれ、さゆの婚約者なんだ」

「みぎゃ」

「婚約者が嫌がっていることをやってるのに、自分だけ寝てるのってなんだか目覚め悪いよな」

「みぎゃ」

「おれ、さゆになにしに行くのって聞きに行くけど、お前はどうする?」

「みぎゃぎゃ!」


 眠たいのが吹っ飛んだように元気に返事をして、治小はよじよじとまさきの髪を伝って肩まで登ると、まさきが着ていた作務衣の胸もとに入った。

 一緒に行くということなんだろうと判断したまさきは作務衣のままそっと布団を抜け出して、王子さまを追おうとして襖を開けたところで、そこに影も形も気配もなく聞こえてきた声に、まさきは眉をひそめた。


「お戻り下さいませ、伏御まさき様」

「おれはさゆの婚約者で、さゆが嫌がっていることをさせたいとは思いません」

「…我々も、それには同意見です。ですが現状ではこれが最上なのです。それに、もし貴方さまがお怪我をされたら王子さまは悲しみます」

「あなたは…」

「はい?」


 まさきを止めるその声に、まさきはぎゅっと拳を握る。ぎりりと歯を噛みしめうつむく。

 震える様子に、怖がっているのだと思ったノノウがさらに言葉を並べようとしたところで。まさきがゆっくりと顔を上げる。


「そんな場所に…?」

「は」

「おれが怪我? このおれが、怪我をするような場所に、さゆを送っているんですか?」

「あ…」


 戦うことに、戦闘に慣れたもの特有のぎらぎらとした瞳。呑みこまれそうな、殺意にも似た感覚にノノウはぞわりと背筋を粟立てた。


 なんだなんだなんだこれは。


 思わず天井。手が腰につけたウエストポーチの中に潜ませたクナイに伸びようとするのを、それさえも視線の1つで制したまさきは。にぃっと八重歯を見せながら笑い。酷く冷たい、底冷えするような残忍な目でノノウの顔を見る。そう、気配もないはずのノノウの居場所を完全に捉えていた。


「人間、お前たちは1つ間違って覚えてるみたいだけど」

「…」

「俺たち影族は、その愛情深さでも知られるんだ。たとえおれの意思がそこになくても、さゆはおれの婚約者になったんだからおれが愛する対象だろう?」

「は、い」

「なら、ここを通してくれませんか? おれのさゆが危ないんだったら助けに行かないと」

「御意思の、ままに」


 無表情の、怒気にも近い圧迫感に。息ができなくなる。張り詰める糸の上をぎりぎりの感覚と呼吸で歩かされている気分に陥って、ノノウは声を喉奥から絞り出すようにかすれた声で答える。

 これ以上、この存在の不興を買ったら。自分は粉々に砕かれてしまうのではないかと思われる。戦闘能力に特化した存在である影族の不興。それを考えただけでぞっとした。

 存在を認識していると悟ったノノウは跪き、その格好のまま深々とお辞儀した。


 その言葉に満足したのか、まさきは電気もつけていないささやかな月明かりが差し込む廊下と部屋の間のところで。にっこりと華やぐ笑顔を見せる。まるで周りには大輪の光の花が咲いたようだった。


「じゃ、行ってきますね」

「…御武運を」

「ありがとうございます!」


 嬉しそうに笑ってひらひらと手を振ると、まさきは音もなく廊下を駆けだしていった。

 それを見て、ノノウの1人である陽だまりはいまだ震える膝を押さえて、まさきが王子さまのもとに向かったことを伝えるため、走りだしたのだった。


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