第3話

「へ…?」


 甘い砂糖の香りが吸い込んだ息とともにまさきの鼻腔へと飛び込んできた。

 白い壁、陽光を取り入れる大きな窓、黒いガスコンロに光を跳ね返す銀の蛇口。白木の作業台に白い臼。砂糖の樽。白い清潔な壁には紋章の描かれたレリーフが飾られていた。その奥には白木に金色で植物の装飾のなされた美しい観音開きの扉。いままで廊下を歩いてきたはずなのに、立っていたのはまるで工房の作業場のような場所だった。

 何より。


「長?」


 目の前を先導していたはずの祖父がいなかった。

 まさきはぱちりと目を瞬かせる。ついできょろきょろと周りを見回すが誰もいない。伏御えまきは職人気質で、仕事中でも私事中であってもこんなふうにふざけたりはしない。さすがに不安になってきて、何回も長と呼びかけるが返事がない。

 いや、返事はあった。というべきか。


「みぎゃー」

「は?」


 それは祖父の声ではなく動物の声だったが。

 思わずむっと顔をしかめたまさきは悪くない。飴細工は「幸せの糧になる」と信じられている神聖な食べ物だ。作業場はいつも清潔で、動物を連れ込むなんてことあってはならない。昔、馬車で飴細工売りをしていた者ですら、作業場である馬車の中で寝泊りすることはなかったと聞いている。

 それが動物の声がするなんて。


「誰だよ、連れ込んだの…!」


 怒りのあまり、声を潜めたまさき。ぎゅっと道具入れを持っている右手に力をこめるとずかずかさっきまでの不安も忘れて声がする方に歩いて行く。


「ここか?」


 作業場からどこかへと繋がる扉があった。白い木に金の装飾のなされた美しい扉だった。観音開きになっており、軽い力で開くようになっていた。それに首を傾げて、もう一回声をかける。


「誰かいるのか?」

「みぎゃう」

「返事してるのかよ…入りますよー」


 まるで「はい」と返しているかのようなタイミングのいい返事にがっくりと肩を落として、ノックの後に声を掛けから扉を押したまさきは。扉の中の光景にその怒りも落胆も吸い取られることになる。

 開いた扉の向こうはただの真四角の部屋で窓もなく、明かりもなかったが。なぜかまさきにはその光景がはっきりと見えて、ひゅっと息を呑んだ。


「なんだ、これ…」



 そこに飾られていたのは3方を囲んだ祭壇に乗せられ、透明な箱に入れられたたくさんの飴細工たちだった。


 手のひらに乗るような小さなものからまさきが抱えきれそうにない大きなものまで。それはただ静かに呼吸をするように、一瞬を閉じ込めたようにそこにあった。

 尻尾のうねり、一本一本の鬣も再現された足の筋肉の筋すら雄々しいライオンに、花弁、葉の一枚一枚が色の違う羽で作られた蔓薔薇、両手のひらにのるほど小さいのにこの中のどれより繊細で壊れそうな。薄い羽や艶々輝く赤い実、ふわふわした亜麻色の髪と華奢な四肢、風にはためくドレス、ヴェールのような羽をもつ妖精の箱庭。


 まさきの腰の高さほどの棚の上に白い体躯は青い縞模様の虎で丸い耳の下には2本ずつの角、足には雲を履いて尾は金魚のひれみたいに優美な白、世界録上の生き物である治小をデフォルメしたような手のひらサイズの飴細工もある。定期的に掃除が為されているのか、ほこりも透明な箱には被っていなかった。

 ただ美しい瞬間だけを切り取ったもので、その部屋はあふれんばかりだった。


「すごい…こんなの、見たこと」

「みぎゃぎゃ」

「あ」


 忘れてた。

 動物の声がしたからここに来たのだった。その動物はどこか、鳴き声からして猫か虎かといった感じなのだが。辺りを見回したまさきはどこにも動物がいないことに不思議そうに首を傾げた。いや、居ないわけない…はずなんだけど。


「どこだー」

「みぎゃー」

「そこか! ってあれ?」


 鳴き声がしたのはこの辺だったはず。治小の飴細工がおかれた棚を見るが、そこには治小の飴細工しかない。そこでまさきは気付いた。この治小の飴細工だけ透明な箱を被っていないことに。まさか落ちてしまったのかと思ったが辺りにそれらしきものは落ちていないし、何より窓もない部屋だ。風も吹かないのに落ちるはずがない。


 なんでだろうと顔を近づけて治小の飴細工を見る。埃一つないどころか、まるで本物みたいな艶やかで触り心地の良さそうな毛をしている。


「…まさか、お前じゃないよな?」

「みぎゃう」


 そうだよ! と返事でもするかのように飴細工が鳴いた。いや、飴細工じゃない。これは


「ち…治小?」

「みぎゃう!」


 嬉しそうに鳴く治小…のデフォルメバージョン。

 ゆらゆらと揺れる白い金魚の尾が優雅で美しかったが、それどころじゃない。


(え、え…え? ほ、本物? え? 本当に治小?)


 ぐるぐる回る思考で考えても結論が出ない。え? え? と戸惑うばかりだ。むしろただの神話だと思っていた存在が本当にいるなんて、玉都って、都会って怖い。と内心まさきは震えていた。

 顔を治小へと近づけたまま引きつらせていたまさきに、ぴょんと治小が跳んだ。そのままぷらーんとまさきの顔にぶら下がる。


「わ!」

「みぎゃぎゃ!」


 バランスを崩しそうになったまさきだったが、ここには繊細さの代表ともいうべき飴細工たちが揃っていることを思いだして何とか耐える。ぐっと腰に力を入れてふんばったまさきを、面白そうに治小は笑った。いや、笑っているかどうかわからないが、不愉快気な雰囲気は感じないのでたぶん笑ったのだろう。


 さすがに片手でつまみあげるのは失礼かと思ったまさきは、治小が座っていた棚の上に自分の道具入れを置くと両手で治小の身体を掴んで顔から引き離した。


「危ないだろ?」

「みぎゃぁ」


 しょんと耳を垂らして、申し訳なさそうに鳴き声のトーンを高くして鳴く治小に、わかったならいいよとまさきはにっこり笑う。それにつられたように、治小は両前足を腹を支えているまさきの指にかけると身を乗り出して。みぎゃみぎゃ鳴きながら甘えるように、近づいたまさきの顔に自らの顔をこすりつけてくる治小。


 デフォルメされているので威厳としてはゼロだしつい忘れてしまったが、この世界を安定させている神とも呼べる存在である。治小はそれなりの尊敬を持って接しなければならない存在だ。


「あー…失礼か。申し訳ありませんでした、治小様」

「!」

「え…おい?」

「みぎゃ、みぎゃぎゃ!」


 そんな寂しいこと言わないで! と言わんばかりにうりうりと顔を寄せてくる治小に、まさきは困ったようにへにゃと笑った。どうすればいいかわからない物事に直面した時のまさきの癖である。

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