審判の日 告解 197

「そういう意味のないことは言わない」

「じゃあ、画家の卵」

「ああ、その線がきっと、正しいね。でも、それは現状であって、自分の真実の姿じゃないよね」

 浅倉くんが、こちらをまっすぐに見ていた。それはすごく何かを期待する視線で、私は妙にどぎまぎした。

「姫香ちゃんは、自分が女性だってことが何か忌々しいことだと思ってきたのかもしれないし、それで天使みたいな美少年に自分を託して王子様になりたいと願ったのだと、自分ではそう思っているのかもしれないけれど」

 浅倉くんの視線が痛かった。

 そのおっきな目で、強烈な目力をこういうときに発揮しないでほしい。ミズキさんの視線も私にはツライけど、浅倉くんのはこう、節度も何もなさすぎて、ほんともう、恥も外聞もなくいうと裸に剥かれてる気がするのよね。いちばん柔くて脆い皮膚をざらざらした熱いもので擦られてこそげとられてる気がする。

「ここで僕が、君が女性でも男性でも君を好きだと言っても、それで納得しないだろうから言わない。けど、ひとつだけ、訂正しておこうか。君は男も女も嫌いで天使を望んだわけじゃないと思うよ」

「でも、でもだって、ベルニーニの聖テレサの天使、なのよ? あれってだって」

 さすがに続きは恥ずかしくて言えないと思ったところで、浅倉くんが引きとった。

「神の愛を授かったっていう?」

 頬が熱くなって、うつむいた。それっていかにもカトリックの女嫌いに押さえつけられた修道女の欲求不満というか、性の抑圧が見せた幻想のような気がする。 

 ミズキさんが、小さな吐息をついた。

「ねえ姫香ちゃん、僕たちは不幸にして神殺しの時代を生きてるせいで、聖女たちの体験を文字通り色眼鏡で見る癖がついている。ビンゲンのヒルデガルドの例もあるし、そのほか聖人たちの幻視にも聖母の乳のはなしはある。僕はキリスト者じゃないからなんともいえないけど、そうしたあれこれは今の僕たちが考えるような体験とはまったく別物じゃないのかな」

 つまり、聖人聖女たちの聖なる至高体験を自分の欲望で穢していると口にされ、さらにうつむいた。浅倉くんが首をかしげ、私の頬のあたりを見ていた。それからおもむろに、

「l’amor che move il sole e l’altre stelle」

 あまりにも著名な『神曲』の結句を諳んじて、私を仰天させた。

「浅倉くん?」

「あれ、違った? 発音下手すぎた?」

 彼は私ではなくミズキさんを見て首をかしげた。

「いや、それで合ってる。〈太陽やもろもろの星を動かす愛〉」

 浅倉くんはびっくりしたままの私に顔をむけて、

「ブレイクから入ったんすけど、あれはすごいっすね」

 浅倉くんが詩をかくことを今の今まで忘れてたよ。そういえば、いっつもベンチで読んでたのは詩集だった。横文字だから講義で読んでたのかと思ってたけど、ほんとに趣味だったんだ。たしかに、ウィリアム・ブレイクも挿絵をかいてる。

「姫香ちゃん、君が今になってどうしてネオ・プラトニズムについて気になりだしたのか、僕にはその理由はすごく単純だと思うんだよね」

「あれは、だって」

 獏のことを口に出すことができなくて、私は唇をかんだ。ミズキさんはそんな私を無視して言葉をつむぐ。

「君の好きな《春》や《ヴィナスの誕生》はフィチーノ哲学、つまりはネオ・プラトニズムの絵画表現だったよね」

「それは、いろんな説があるから……っていうかそれって、ええと、パノフスキーのいうところの愛と美と快楽の関係ってことなの? それとも、天上の愛と地上の愛? 神から地上へ発する愛と、神のつくった人間がそれと一つになる愛っていうことを言いたいの?」

「僕は絵の解説を聞きたいんじゃなくて、君がなにを思ってるか知りたいだけ」

「なにをって……」

 ミズキさんに誘導されるのは嫌いじゃなかったはずなのに、いまは苛立ちのほうが大きい。いびつに声が尖り、その顔を非難の目つきで見つめている。

 けれどミズキさんはそんな私に構うことなく、満足で喉をゴロゴロ鳴らしそうな猫めいた顔で私を眺めた。

「それでこの一ヶ月、一日平均十六時間くらい姫香ちゃんのことだけ考えてやっとわかったのは、君は文字通り、『神の愛』をひとへ届けたいって願ってるってことだよ。どう、あたってる?」

 「神の愛」!

 は、恥ずかしすぎるよ……。

 だいたい今さらだけど、ほんとに何度でも思うけど、このひと、どこまで本気でしゃべってるのか、私にはちっとも、まったく、全然わからないんだけど。ううん、これも本気、なんだよね。じゃあ私、どこに突っ込めばいいのかしら。っていうか、ああもう、とにかくもう、神の愛とか言わないでよね。

 ゴッホじゃないんだから、僕は神の言葉を種捲く人になりたい、だなんて……でも、そういう気持ちがわかるって、二枚並んだ《種捲く人》を見て思ったこと、たしかに、ある。中学生のときに、たしかに、そんなことを思った記憶はある。

 サンドロの絵が好きなのも、ほんとはきっとそう。美しいもの、尊いもの、崇高なもの、それを、彼がかこうとしているから。

 世間ではあまり有名じゃないけど、ボッティチェリも『神曲』の挿絵をかいている。ダンテの同郷でありオタク気質で凝り性のサンドロらしく、詩文を至極丁寧に読み込んだ素晴らしい作品だ。絵としては地獄篇のほうが面白いけれど、煉獄篇にも美しい絵はあるけど、天上篇の荘厳を、なによりも彼が尊んでいたことがわかるから。あの第二十八歌、天使たちのこれ以上なく麗しい舞踏の一群。そのなかのひとり、生真面目そうな横顔をみせて穏やかに微笑む天使の手に、自分の名を記した札をひっそりと持たせたその気持ちがわかるからだ。いかにも敬虔な瞳をしたあの天使は、はたして誰がモデルだったのだろう。そして、目を凝らさないと見えない、けれど確実にそこにある画家の名前は、いつ見ても私の胸を熱くする。sandroのOの文字がほとんど小さく点になってしまっている、頼りない不安定さもいとおしい。

 たしかあれは「最後の輪はことごとく天使のことほぎの宴です」と詠われていたはずだ。いちばん下の位階のただの天使。でも、それが彼らしくつつましい。

 彼がその生涯に名前を記したのは、最晩年の絵とされる『神秘の降誕』とその素描だけ。もし今後、サンドロの絵が発見されても他に署名があるとは私には思えない。

 そういうひとだ。

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