審判の日 悔悛 165
私は身体をひねって紙コップをテーブルにおいて、両手をひざのうえに組み合わせて目を閉じた。
「明日の天気をあてるような他愛無いことだけど、でも、自分にはなにか特別なしるしがあるのかもしれないって思ってた……。なにかどうしようもなく凄いことがあるんじゃないかって、実際はなんにもなかったけど、バカみたいにあると思ってたのよ。願っていたっていうのかな。些細なことで、大した能力じゃない、でもヒトトチガウ。そのことでずっと、自負心と負い目の両方に引き裂かれてとても、苦しかった」
彼がとなりの椅子をひいて腰をおろした音が聞こえたけれど目を閉じたまま、続けた。
「いいことはでも、少ないの。恋愛がいちばん、辛かった。だって、相手の男の子が自分をどう思ってるのかわかるだけじゃなくて、彼があと半年後にはべつの子が気になりだすってことが見えるんだもの。ずっと好き、ずっと一緒にいようねって言われても、そうはならないってわかるんだもん。真剣に言われれば言われるほど、そこにウソがなければないほど、辛かった」
私は靴の踵をそろえていたのをあげて、足首のところで交差させた。キ、という床の音がした。
「だからね、ミズキさんは私が浅倉くんの気持ちを手に入れたから自分のところに来たって思ってたみたいだけど、違うよ。今はもう、相手の気持ちも、先のことも、なんにもぜんぜんわからない。ふたりが大変なときにもぐっすり安心して寝てたし」
笑うはずだったのに喉が奇妙な感じに震えたのは、思い出してこわくなったからだ。目をあけると、いつ移動したのかミズキさんがすぐ正面で片膝をついてこちらを見ていた。
「……姫香ちゃん」
名前を呼んだくせに、彼はすぐうつむいた。
「なに?」
「それ……それで君、どうやってその……」
そこでゆっくりと顔をあげ、うすい唇を震わせた。
「ミズキさんがこないだ、どうして物事には終わりがあるんだろうって言ったよね。私も誰かと付き合ってるときに、このひといつ、私にサヨナラって言うかなあって、そればっかり気になってたときがあって、なんだか似てるなあって思ったの」
「姫香ちゃん、そうじゃなくて。僕のことじゃなくて」
首をかしげると、彼がうつむいて苦笑した。それから私の顔を見あげてきいた。
「どうやって、そういう自分と折り合ったの。 驕りとか優越感とか、あったでしょう?」
「ないことはなかったけど、打ちのめされることのほうが多かったから、なくなってからのほうが気楽よ?」
「打ちのめされる?」
「うん。小さい女の子っていうのは、どんなに真実を叫んでも、誰も聞かないふりをすることが許される、そういう存在なの」
予言がことごとく信じられることのない呪いを受けたカサンドラのように、とは言わなかった。
私の、極めて有益な体験は、祖父の死だ。
夜中、誰かが自分のそばにいると両親の寝ている部屋へいった私は子供部屋に追い返され、誰もいないじゃない、お姉さんなんだからひとりで寝れるようになりなさいと言われた。翌朝、祖父が眠ったまま亡くなったことを聞いた。
それはまあ、世間でよく聞く普通のはなしだ。ただ、私はそのことで奇妙に開放された。
それ以前は、みな祖父が長くないと知りながら、そうは言わないという複雑さに疲れ果てていた。死の概念さえわからないのに、みながそれを忌み嫌い遠ざけていることだけは強く感じた。誰も、ソコへは近づきたくないのだ。すぐそばにあるのに。
幼い子の前で隠蔽されるその概念は、私のこころの奥深くに奇妙に艶やかな闇を穿った。艶やかと呼ぶのが不心得なら、たんに興味深かったと言うべきかもしれない。つよく引き寄せられた反面、それが隠されたものである事実、近寄ってはならない禁忌だと強烈に意識された。
その矛盾に、たぶん、私はじぶんの枕元にひとが立つ夢を見たにちがいない。
事実、こわい夢を見たとでも言えば、母は私をあやして抱いて眠ってくれた。でも、何かがそこにいると訴えると、はじめ母はウソをつくなと怒り、しまいにはどうしてそうなの、と泣いた。それまで私は幾度か母を泣かせ、己の強情と罪深さに泣き疲れて眠りについた。そんな夜が、いや昼さえもいくつかあった。
祖父の死を境に、私は母にそれを話さなくなった。否、話さないでよいとわかった。ようやくにして、それは「母にだけ通じない話」ではなく、「私以外誰も理解しない」ことなのだと気づいたのだ。
「私、伏せたトランプの札はたいてい見えたから、神経衰弱で負けたことなかったのよ。というより、見えているっていう意識もなくて、それはすべて自分のなかにあることで、うまく説明できないんだけど、こう、手を伸ばせばなんにでも届くっていう感じだったのね。押せば開く、みたいな。
いちどお遊びで試したら、トランプをめくっていってハートなのかスペードなのか、一枚一枚全部、あてることができたの。
そうやって物事に集中してるとひとのことが見えなくて、勝ち続けてしまうことが相手を不快にするってことに気づくのも遅くて、癇癪をおこされてはじめて、あ、これってオカシイんだって気づくような……他人と自分の区別がつかないっていうか、こう、どこに意識をもっていけばいいかわからない子供だったの」
「……それは」
「ある種の多幸感みたいなのに支配されてたんだなあって思う。区切りがないっていうか、うまく線引きができないところがあって、どこからが自分で、他人で、夢なのか、現実なのか、理解するのが遅い子供だったんだと思う」
何が見えようと、聞こえようと、みながそう言うまではけっして自分からは口にしないこと。相手が隠しておきたいことをけっして暴露しないこと……――私はようやく、祖父の死で、ソレらのものとの距離のつかみ方を覚えたのだ。
「それに、私はこの世界のなにを読み取っているのかが、よくわからなかった。何もかも理解できたわけじゃなかったから。
たとえばだけど、あるおじさんが、可愛いお嬢さんですねって言いながら頭を撫でるのに、気が強くて生意気そうだって思うとして、それって私の被害妄想のもたらす声じゃないかって判断できるくらいの頭はあるでしょう? 明日、塾の先生がお休みだって思いついてその通りになったとして、それってその先生が苦手だから会いたくないなっていう願望をずっとひそかに思ってて、それがたまたま強く表に出ただけじゃないかとか、いくらだって否定材料はあるわけだし。
先のことがわかるっていうのなら、未来は確定しているものなのか、既に書かれてしまった書物みたいなものなのかどうか、それが、ほんとうにわからなかったの」
それさえわかれば、そのことがわかれば、どんなにいいだろうと願いながら、私は、それがわからない自分でよかったと思っていた。
もしも、それがわかるようなら。
たぶん、生きてはいられないと知っていたから。
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