審判の日 悔悛 166

 私はそこでふっと思い出し笑いを浮かべた。それを思い返すとほんとうに面白かったのだ。

「さっき来た天使のひとりがね、私のこころを読んでくのよ。でもね、それってただの上辺のことなの。氷山の一角どころか、この地球の海という海の、たったひとつの波をとらえたかどうかっていう感じよね。だから上司みたいな天使に叱られてておかしかった。あんなキラキラした存在だって、全部は読みきれないんだなって」

 卑近な問題について語ろうと思っていたはずなのに、天使に話題がもどってしまったことで話を途中にすると、ミズキさんは頤に手をあてて何かを考えているふうだった。

 私は黙って足首を解いてそっと揃え、後ろにおいた紙コップをとりあげて、先ほどより甘くなった気がする炭酸を一息に煽ってしまう。

「姫香ちゃん」

 彼はそのままの姿勢で、私に声をかけた。

「……僕は、そのひとの人生でいちばん弱ってるときに相手を好きになって、たいていは元気になるとふられるんだよね。僕がまあ、相手の負担になるくらい重苦しいことを言ったりしたりしてしまうからだけど」

 話はちゃんと、卑近な話題からはずれていなかった。空のコップに緑茶をついで、私は続きをうながすように首をかしげた。

「君も、婚約破棄されてすぐ、まっすぐ僕のところにやってきた」

 浅倉のところじゃなく、という声が聞こえた気がしたけれど、無視した。

 それにしても、そうだった。すっかり忘れていたけれど、私、このひとのところに行ってしまったのだ。「婚約、破棄された」と口にしたのは、この場所、このドアの向こうの応接セットでのことだった。

「姫香ちゃん、どうして僕が君のこと好きになったか気にならない?」

 明るい調子で、彼が私の顔を見た。

「必要だからじゃなくて?」

「それは後付けの理由だよ」

「絵が、気に入ってた」

「それもかなりあるけど、初めて会ったとき、君、まるでパンダか恐竜をまえにした子供みたいな顔で僕を見たんだよね」

「パンダか恐竜?」

「そう。珍獣っていう感じ。うわあって顔にかいてあった。なんていうか、そこにぜんぜん自意識がなくって、すごく無防備で、全身全霊で見てますって感じで、僕はすごくうれしかった」

「え……でも、それってけっこう失礼じゃない?」

 慌てて口にすると、彼はとても面白そうに、そして労わるような優しい目つきで笑った。

「常識でいえばそうだね。でもそういうふうにはぜんぜん思わなくて、自分がこんな無条件に、そこにいるだけで受け入れられてるって感じたことなかった」

「ウソ。ミズキさんすごく魅力的だし、なんでもできるし」

「賛美とか賞賛の視線って正直、うっとうしいんだよ」

 おお。ひどいことを、と感じたけれど黙っていた。美女ではないので、そういう思いをしたことがない。まあでも、これは彼の本音だろう。所与の何かを羨ましがられても大して嬉しくないってあれだ。

「でも、私も綺麗だと思って見てたよ?」

「そうだね。けれど君は僕にぜんぜん欲情してなくて」

 びっくりして頤をひくと、彼はそこでうつむいて再び笑った。今度の笑みは、少々皮肉っぽかった。

「僕のこと、汲み尽くすような視線なのに、まるで絵か彫刻でも見てるみたいな、僕からの働きかけをまったく無視するだけの強さと傲慢さがあって、腹も立ったけど、無心で、すごくかわいかった」

 それは……。

 私と目が合うと、ミズキさんはすぐに視線を外した。昨日の朝までは、私が照れるか不機嫌になるかして、それを見つめて愉しげに笑ったことだろう。そう思う私、そしてそう考えたことに彼が気づいてしまうお互いの了解、その共通の感覚が、今は、どうしようもなく二人を隔てている事実が胸に迫る。

 私がその痛みにうつむくと、ミズキさんはおもむろに口をひらいた。

「君はかなり自意識もあるし警戒心も強いのに、たまにそういう顔をするんだよね」

「そんなこと」

 言われてもわからない。ううん、まったくわからないとは言わないけど。それは、自分でコントロールできるわけじゃない。できてたら、そんなこと今ここで言わせない。

 そして、ミズキさんは私の不満に気づいたらしい。いや、気づいたことを私に教えるように顔をむけた。

「君自身はわかってなかったんだろうなって思うよ。だからこそ、そういうときはもう、そのまま掴んで頭から食べちゃおうかなあって考えたことが何度もあった」

 くすくす笑いながら言われても、それ。

 憮然として唇をひきむすんで相手を見おろし、ひとつ、我ながらあてつけがましく思えるため息をついた。

「ミズキさんでもそうなんだ」

「そうって?」

「男のひとって、ただ相手の目を見てにこにこして頷いてあげるだけで、勘違いするんだなあって」

 彼を怒らせたかったわけではない。けど、どうしても我慢できなかった。そしてミズキさんは、かつてないほどのすなおさで私の言い分を受け止めた。

「そうだね。自分に気があるって自惚れたいし、何もかも許して受け入れてもらえるんじゃないかって期待する」

 馬鹿じゃないの、というせりふはひっこめたものの、不機嫌さは声に出た。

「私が、そうして欲しいだけ。誰だってそうじゃないの? 誰にだって、そう期待するでしょう?」

 ミズキさんはそこで小さく息をついた。それからまっすぐにこちらを見て口にした。

「君がそう言うのはよくわかる。でも僕は、誰にでもそれを期待できるほど自分に自信がもてないよ」

「ウソ、だって」

「ほんとに。自分が優しく接すれば相手もそれを返してくれるに違いないと無邪気に信じられるほど僕は恵まれてこなかった」

 なんでもないように語られて、私は黙って相手の顔を見つめ返すしかなかった。

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