3月25日 130

「だって、そういうのわかんないんだもん。とりあえずは浅倉くんの好きにすれば。私もそれで対応するから」

 口にした瞬間、後ろの身体が硬直した。つづいて途方もなく大きなため息が落ちてきた。

「オレの好きにしたらあんた絶対、ものすごく困るくせに」

「だから、怒らないなんて一言もいってないじゃない」

「そうっすね」

 がっくりと頤をひいて、私の胸前で交差させていた腕を力なくするりとおろした。そんなことにも身体を震わせそうになり、無意識のうちに反応しないよう気をつける自分がいた。感じやすいと言われるのが苦痛で、たぶんそれはただの決まり文句なのだろうけど、比較対照のたくさんありそうな彼なら真実をこたえられるのかもしれないと考えてバカバカしくなった。

 その手の質問をこのオトコが見逃すわけがない。下手に攻め入られる口実を与えないにこしたことはない。それと同時に、どう思われてもいいじゃないかと気を楽にして緊張をといた。自分が好きだというのはこんなにも気持ちが清々しい。

 彼はそのまま私の髪を撫で、かきあげて開いた後ろ首に唇を落としたまま言った。

「この後れ毛がふわふわってしてるの、すげー弄りたいって思ってた」

 指じゃなくて口ではさんで引っ張っているので声がくぐもっている。もうひげが伸びているのかチクチクした。好きに遊ばせておけ、と思いながら瞼を伏せた瞬間、べつの意図をもって開いた唇が皮膚に触れる。

「それはダメ」

 そう声をあげて、離れてむきなおると、

「髪あげなきゃ見えないって。おとなしく、キスマークくらいつけさせてよ」

 ね、って妙な上目遣いで首をかしげて迫られても困るんだけど。

「痛いから、やだ」

「ちょっと吸うだけじゃん。あんたなんて皮膚薄くて色白いからすぐつくのに。もう、なんでそんなに痛がりかなあ」

「だってあれ、なんか刺すみたいに痛くて気持ち悪いからやだって言ったじゃない。それにあとで黄緑色になったりしてそれもイヤ」

「だったらつけてよ!」

 吠えられて、私は腕組みしてこたえた。

「浅倉くんの肌、どうみても内出血しづらいもの。口、疲れちゃう」

「じゃあ、噛んでもいいから」

「歯形つくほど噛めないってば」

「なんでそう、わがままなのっ」

 なんだかえらく感激したように、浅倉くんが文句をつけた。

「ああもう、そこがタマラナイって思うオレってもう終わってるし、龍村さんにも、あの服従っぷりはマゾとしか思えないとか笑われて、オレ、そんなことないって言い張ってあの話をしたんだけど、でもやっぱ訂正されなくて……だめだ、もう……」

 あの話って、あの自殺未遂のお友達の話だよね? そんな軽佻浮薄かつ低俗なノリで話す内容なのか。私はてっきり、深夜、思春期特有の、深遠で気恥ずかしい人生の悩み打ち明けタイムにでもしたのだと思っていたのに……。

「浅倉くん、わがままじゃなくて、だって、そんな、ひとに傷つけるのなんて見るだけでもう、痛そうでこわいからイヤ」

 彼はそこで顔をあげ、ふ、と息を吐いて真面目な声にもどった。

「そういや、そうでしたね」

 目を細めて続けた。

「いっつも風邪薬と胃腸薬持ち歩いてて、紙で指先切っただけで大騒ぎして絆創膏はって、包帯巻いて足引きずって歩いてるから怪我でもしたのかと思うと虫に刺されただけで膿んでるとかいってるし、オレや来須に傘差して帰れってすごくうるさく言うと思ってたらちょっと雨に濡れただけで咳して熱出してるし、もうこの人、こんなんで生きてけるのかなあって、ほんとにこんな弱くて大丈夫なのかなあって思ってて、えんどう豆のお姫様か覆いガラスの必要なバラの花かって」

「それ、わざと言ってるでしょう」

 腕組みして怒ると、すごく楽しそうにこくこく首を縦に揺らした。来須ちゃんに似たようなことを言われる分には羞恥心を上回る陶酔感があるから許せるけど、浅倉くんだとムカつく。セクハラの原理だ。

「なのにびっくりするくらい気が強くて、中村がひっくり返って泡吹いたときも、みんな唖然としてる中あんたひとり落ち着いて対処してオレのこと保健室走らすし」

「アタマとってるひとが落ち着いてなくてどうするの。癲癇発作は見たことあるの。それに、私が体力的に弱いのは生まれつきで、ただたんにアレルギー体質で抵抗力がなくて傷が治りにくいだけ。言っとくけど、私みたいに痛いとか辛いとかいつもぐだぐだ言ってるひとのほうが、最終的にはけっこう長生きするものよ。浅倉くんみたいにどこででも眠れるとか風邪ひいたこともないとかいう丈夫なひとのほうが意外と脆いんだからね」

 むっとして腰に手をあてて言い切ったのに、彼は気に留めるふうもなく、かもね、と横をむいて笑った。 

「浅倉くん、足、速いよね」

 横顔に、ぶつけてみた。

 その瞬間、彼が、私の知らないべつの時間を思い出しているのを感じた。それは、私には触れられない場所だ。

 置いてけぼりを淋しがったわけじゃなく、ただ言うタイミングを狙っていただけのこと。自身でそう嘯いて、口をひらく。

「初めてのとき縛られたのよ。だから、痕のつくようなものは苦手なの」

 突然の告白に、彼は大げさなくらい身体を揺らした。私は相手の顔を見ないですむようにさっきと同じ体勢へ戻ろうと身体をひねり、その手をつかんだ。よけられるかと思ったけれどそのままで、おなかのうえに置くとややこわばってはいたものの、ちゃんと両手を組み合わせた。勢い込んで問い質すようなことはされないとわかり、自分の手を重ねて目を閉じた。背中に感じる体温が心地よくて、寄りかかるように力を抜く。

「ちょっと、BFと揉めてね」

「……酒井、さん?」

「ううん、べつのひと」

 酒井くんは、さいしょはすごく優しかったよ、と言いそうになった。あぶなかった。

「断っておくけどデートレイプってわけじゃないから。私が自分で、いいよって言ったの。まあでもわりと悲惨なことになって、その後そのひととはうまくいかなくなっちゃったんだよね」

 だから私、ソフトSMは盛り上げアイテムじゃないから、と笑ってつけたした。さしもの浅倉くんも突っ込む余裕はないようだった。バカだと罵られたらどうしようと実はちゃんと覚悟していたのに、何も言われなかった。あたりまえ、か。

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