3月25日 123

「離して」

 自分の声が上擦っていないことに気がついた。渾身の力をこめて突き放そうとすると、反動で自分の手からバッグが落ちた。

 あ、と声をあげたのは彼のほうだった。乱雑な音がして、中身は飛び出さなかったものの布にくるまれたモノ達がそこに入っていると主張し、たたんで丸めたストールの先がのぞいた。彼の視線がしたに落ち、拾うか拾わないか迷ったようだ。その逡巡する顔にむけて言い放つ。

「浅倉くん、私はミズキさんが好きなの。いま、やっとわかったから」

「なに言って」

「ミズキさんのほうがずっと好き」

「うそ、つくなよ」

 声に怒りが滲んでいたけれど私はすこしも怯まなかった。

「どうしてウソって決めつけるの?」

「うそだからだよ」

「自惚れすぎだから、それ」

「違うよ。あんた、うそつくの下手すぎだからすぐわかるんだよ。オレの電話、うれしかったって言ったじゃん」

「そ、れは」

 うつむくと、肩を抱かれて頤に指がかかる。背中にドアのあるこの距離ではどうにも逃げようがなかった。

「いいよ。あんたがオレを好きって言わないことくらいわかってるから」

 声をあげそうになったところで、真剣な表情でたずねられた。

「ミズキを死ぬまで大事にできる?」

「あたりまえよ」

「そうだよな。いくらでもやさしい言葉かけられるし、そばにいることもできる。でもあいつ、すごく嫉妬深いよ。あんたがちょっとでもよその男に目をむけると、ひどいことするかもよ? あんたがオレのこと気にしてるの隠しておける?」

 隠しては、いなかった。もうすでにばれているとは言えない。それでもお互いをいちばんにすると誓いあったのだから。

 それをどう伝えようか考えていると、唇の横にキスされた。

「浅倉くんっ」

「あんたがしないとならないのは、ミズキに、自分の力じゃどうしようもないことがあるって、教えてやることじゃないの?」

「それは違うから」

「なんで」

 言いながら、膝の間に足を入れようとする。なにをするんだ。キモノなのに、そういうことしないでよ。ぶつかる膝頭に息をつめ、乱れた裾にジーンズの擦れる音を聞く。

「やっ」

 意識が膝下にむいた刹那、目を射るような紅絹が踊る。頬に血がのぼり、慌てて裾に手をやると首筋に歯をたてられた。悲鳴をのみこむ唇を指で撫でられて気がついた。わかってて、私のペースを乱そうとして、やってる。ほんとにもう、腹の立つ。

 自分のおかれた窮状と、相手の強引さにいきりたち、抗議の声が裏返る。

「許せないものを、どうやって許せっていうの? 彼だって、そうしたいとは思ってる。ずっとそうしたいって願ってて、でも、できないんじゃない!」

 顔をそむけようとしたけれど、頤をつかんだ指がそれを許さなかった。瞳をのぞきこまれ、途切れとぎれの息継ぎを飲みこまれ、いいようにあしらわれていると思うのに、浅倉くんの呼吸はしずかだった。声をあげさせるほど私を追い詰めたくせに、彼は、見守るだけの表情で口をつぐみ、黙っていた。

 ずるい。

 こういうのは、ずるいよ。

 相手の落ち着きが私の余裕のなさで、それはそのままこちらの抱える不安を思い起こさせる。感情を波立たせ喉を震わせて叫ぶ側に、相手を説得するだけの力があるはずもない。私はそれを知っていて、だからいつもこころを平らに保とうとしてきて、それなのに今、いちばん大事なときに、出来ていない。そうこうする間に、見せたくもない、流したくもない涙がこらえようもなくあふれてきて困りきる。泣きたくなかった。今だけは、泣きたくないのに……頬をつたうものはみっともなくも、頤をとらえた彼の指を濡らしつづけた。

 情けない。

 見つめる視線にたえきれず、とうとう目を閉じてしゃくりあげた私に、浅倉くんがため息のような声で囁いた。

「オレは……ミズキが、あんたのためならそれができるのかと、そう思ってたんだよ」

「だからっ」

「できて、ないだろ。あんたの言い分はわかるよ。理想だし、立派だし、それができれば凄いよ。でもふたりとも、ぜんぜん、ダメじゃん。あんた一生、それでやってけるの? やってけるならそれでいいよ。でも、ダメなんじゃん。だったら、ほんとにしなきゃいけないのは、ミズキに、努力しても何してもどうしようもないことがあるってことを認めて、それを許すことを自分一人でできるようにするってことじゃないのかよ」

「あ、さくらくん……」

 目の前に立ちふさがれて動きを封じられ、さらには言い負かされそうで悔しかった。喘ぐように名前を呼んで、ただ彼の言葉をとめようとした。

「酒井さんのときにだって、同じことしてダメだったんじゃないの?」

 心臓が跳ねあがる。今度こそ絶対に、そんなことにはならない。そう、口に出そうとするのにできなくて、ただ夢中で首をふるのは、また同じことをしていると、私自身が思っているせいだと認められない。

「だいじょうぶだっていうつもり? じゃあ、なんで泣くんだよ。そんなんでこの先、やってける? それじゃ両方、ダメになるだろ……」

 浅倉くんが、ほんとうに心から、ミズキさんと私を心配してるのだとわかった。自分のほうに来いと言っているのではなく、無理だからやめろと口にしているのだ。私ができると願ったようにちゃんとできていないと、不可能だと、そう、言っているのだった。

 彼は私の顔から手をはなし、肩をつかんだままうなだれていた。

「なんでそれが、わかんないんだよ……」

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