3月25日 122

 聞きたくないと言われるかと思えば、目を見開いてこちらを凝視した。どうしてこんなことを話してしまうのだろうと考えながら、とまらなかった。

「あのあんまり瞬きしない両目でじっと、息を潜めるようにして見てるの。じゃなきゃ目をきつく閉じて、ぴたってくっついて動かない。眠れないのってきいたら、眠るのもったいないって言うわけ。そうこうすると、なんで物事には終わりがあるんだろうとか言い出す始末で、私が困ったなあって感じるとすぐ、話をずらすの。それがまた絶妙で、こう、するりと身をかわすっていうか、このひと女に生まれてたら間違いなく傾国だわっていうくらいの破壊力なのよ」

 笑ってくれることを期待したのに、浅倉くんはぴくりともしなかった。いや、まあ、たしかに笑えるネタじゃなかったかもしれないけれど、この間はどうしたらいいの。

 居心地の悪さに耐えられなくて、こちらが口を開きかけた瞬間。

「……それ」

 さびしいじゃん。

 彼が斜めをむいて、小さく吐き出した。

「かもね」

 すなおに肯定すると、唇をかんで私の顔を見おろしてきた。そげた頬のあたりを見つめながら、先を言う。

「でも、私はそれが気持ちいい」

「なんで……」

「ふたり闇のなかでくっついて、いたわったりいたわられたり、お互いの浸透圧がそんなに違わなくて、約束して縛りあって、安心するのが心地いい」

「そんなのが、どうして」

「もう、誰も好きになれなくて苦しかった自分を開放できた気がする。誰もがあたりまえに恋に落ちることのできるその熱が自分のなかにないことを引け目に思わなくていい。そういう選ばれたひとの特権を享受できない自分を哀れむ必要もないし、愛し返してくれないって恨まれて詰られたりすることもない」

 浅倉くんははじめ、ぎゅっと強く唇を噛み締めていたけれど、終わりでは何か言おうとしてできないせいなのか、その、厚みのある唇を震わせていた。

 彼にはわからないだろうな。そう思い、それと同時にこんな些細な、ふたり、または三人だけの問題なのに、お互い意見がかみあわないんだから、世界はそうそう平和になったりしないわけだ、なんて考えたりもした。

「私は恋愛だけで世の中まわってるわけじゃないと思うの。永遠に続くことが期待できない愛情よりは、理性的な意志のもとの結合のほうが子供だって安心して育ちそうだし。それに、激情とか運命とか、振り回されるものに身を委ねるのは嫌い」

「うそだ」

「ほんと」

「じゃあ絵は、どうなるんだよ」

 これは痛いところを見つけられてしまったと両手を握り締める。絵は、たしかに別。それだけは、私に何かを強いもするし、私もまた、それを受け入れている。

「駐車場のあれ、あんたがかいたんじゃないの。子供がかいたようには見えないよ。抽象とかそういうやつ?」

 駐車場のって、まさか。

「そ、んな高尚なものじゃ……ただ、遊んでただけで」

「あれで遊び? なんかここ来てからずっと見てたよ」

 きゅうに立場が逆転していた。さっきまで滔々と話していたはずなのに、うつむいて目を泳がせるのは、今度はこちらの番だった。

「ああいうの、またかいてよ。抽象画ってオレよくわかんないけど、あれはなんか伝わってきた。かいてるときの運動っていうか、時間? すげえキモチいいんだろうなあって」

 かああっと頭に血がのぼった。両頬を手でおさえドアに背を寄せてうつむいていると、額の分け目にキスされた。

「アサクラ君!」

「ああもう、そういう顔しちゃダメだって」

 両手首をつかまれて、肘にかかっていたバッグがもちあがり、袂がめくれた。あらわになった腕に冷たい空気が触れて思わず身体がちぢこまる。押し付けられたせいで後頭部のヘアピースの金具が痛くて首をふると、彼の手がうなじにまわった。後れ毛を指で弄るようにして、耳許で囁く。

「抵抗して」

「し……てる、よ!」

「もっと、しなよ」

 意味が、ワカラナイ。こういうときはじっとして、静かに、もういいかげん素直になって、とか言うものじゃないだろうか。

「浮気したら殺すって言われてないの?」

 どきりとして目を合わせようとすると、よけられた。そのまま、彼は私のひらいた首筋に頬を寄せたまま喉を詰まらせるようにして笑った。

「浅倉くん?」

「まったくもう……あいつ、わかりやすすぎでさらに酷過ぎ。サイテー」

 唇を押しつけられたままで喋られると、ぞわぞわする。身動ぎすると、耳を齧られた。

「痛っ」

「殺されるときは、きっともっと痛いよ」

 浅倉くんが両腕で私の身体を抱いて、笑いながら口にした。それから。

「自分の女、つなぎとめておけないのは自分が悪いんだろ。それを人のせいにして」

「そうじゃ、ないよ」

 私が意識してなるべく声を低く保ち、ゆっくりと否定すると、ようやく瞳があった。

「浅倉くん、そうじゃない。彼はきっと、お母さんのことで」

「父親の子供じゃないってことを、なんでそんなに気にしないとならないんだよ。それに、あんたはミズキの母親と違うだろ」

「でも、それは、そうだけど」

「親の不始末で自分を不幸にしてどうすんだよ。まして、それを好きな女に負わせるのが間違ってる。どこの親だってまともじゃなくて、でもしょうがないだろ。もう、そういうもんなんだから、こっちが大人んなんなくちゃだめなんだから」

「浅倉くん?」

 私が何か気づいたことで、彼は苦笑した。

 ああ……そうか。

 決定的に、私と浅倉くんは違う。もしかすると、だから。

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