3月25日 121

無視して顔をそむけると、耳を舐めるようにして卑猥なことばを囁かれた。

 こちらの反応を見るためだけの態度に頭にきて睨みかえす。不思議なことに、それで少しは冷静になった。すると今度はただ、好きだとうるさいくらいくりかえしてきた。ここは玄関ポーチで、まるきり視界が遮断されているわけじゃない。こんな押し問答なんてのは最低だ。私は彼の胸に肘をつっぱって、早口にいった。

「どこか、とにかくここじゃないとこで話さない?」

「人に見られて困るんだったら、さっさと開ければいいだろ」

 その傲然とした言い方にかっときた。

「浅倉くん、なんでこんなことするの」

「あんたが聞き分けないからだよ」

「聞き分けって、私、ちゃんと」

「ミズキならよくて、なんでオレだけ同じことしちゃいけないんだよ」

 横面をひどく殴られたような気がして、声が出なかった。身体中の血がひいて、かるい眩暈がした。浅倉くんは呆然とした私から身体をはなし、お菓子の箱をそっと茶色いタイルのうえに置いた。それから、ふらふらとドアに寄りかかった私にむけて、つぶやきが落ちた。

「……弱くて傷ついてれば、たくさん許してもらっていいの?」

「浅倉くん」

「かわいそうってだけでそばにいて、けっきょく相手の自尊心を打ち砕くことにならない?」

「それは」

「そうじゃない? オレはだから、ミズキがいちばんだと思えるあいだは一緒にいたよ」

 掠れた、いつもの声だった。

 震えていた私は、ようやく相手の顔を見た。こないだはなかったはずの、赤い小さな吹き出物が左のこめかみにぽつんとひとつ、浮いていた。

「オレ、間違ってる?」

「うん」

 私がうなずくと、彼はひどく驚いて、なんでっと大きな声をあげた。うろたえてゆらゆら首を揺らすいつもの仕種に、私はどうにかこうにか、自分の思っていることを言えそうだと確信した。

「好きだっていう気持ちが、そんなにエライの?」

「は?」

「好きとか愛してるとか、特別だとかいちばんだとか、そういう特殊な、選ばれたひとだけの運命みたいなものが、それがそんなにエライの? 好きだったら、じゃあ、何してもいいの? 浮気しても不倫しても二股かけても、なんでもありなの?」

「え、や……って、え?」

 浅倉くんが混乱していた。

「私はミズキさんと約束したから、彼を裏切りたくないの」

「だからそれが」

「それが、なに? 好きってだけの理由で結婚するって約束を翻してもいいっていうの?」

「そりゃそうだろ」

「違うよ!」

 反響した自分の声にびくりと震え、私はあわてて周囲を見回した。それから、今の言い方だと私が浅倉くんを好きってことに受け取られてしまったなと考えて、上手に否定する言葉を用意できなくて下をむいた。

「ねえ……とにかく外、出ない?」

 うつむいたまま、とりあえずの提案をしてみたのに。

「なんでそんな、人目が気になるわけ。どうせもう、ここ出るんだよね」

「だからだよ。ここは従兄の家なの」

「みんな知らんぷりするって」

「甘い」

 私は彼を断罪した。

「ここは独身者ばっかり住んでるとこじゃないし、東京と違ってこのあたりはそこまでドライじゃないの。この階に従兄の子供と同い年の小学生だっているんだから」

「だったら入れてよ」

 見あげると、さっきみたいなこわい顔はしていない。いつもの、つまりはハイハイと言うことをきいてくれた学生当時と同じ表情だった。その二度返事、バカにしてない? と文句をつけると髪を揺すって否定したあの頃と似てる。ん? つまりはやっぱり、バカにしてたんだ。

「浅倉くんて、信用ならないんだもん」

 腹に据えかねて口にすると、傷ついたような顔を見せた。しまったと思ったけれど、どうしてかすぐには謝りたくない。顔を背けて、そのまま言い継いだ。

「とにかく今日は帰って。話はまた」

 そこまで口にして、彼には行くところがないのだと気がついた。築地の家に帰りたくないのだ。帰れないというか。

 浅倉くんが、顔を伏せて短く笑った。たぶん、こちらの考えを悟ったのだろう。

 つとめて冷静に、ミズキさんが仕事に行っていない今こそ、あの家を出るために荷物を整理したほうがいいのでは、などという現実的な提案もうかんだ。でも、それは心情的に苦しいだろう。私なら、できない。

 私はまた自分のことばっかりで、彼らふたりの関係を上手に想像できなくて、仲良くできないという言葉やその割り切れなさをきちんと受け止められなかったようだ。友情でも恋愛でも、ずっと寄り添っていたのに離れることはとても辛いはずだ。

「……ごめんなさい。私、考えなしのこと口にした」

 彼は私の言葉が聞こえていないのか、うなだれたままだった。どうしてここに来たのかは、ここ以外、来られなかったからだ。

 自分の居場所がなかったせいだ。でも。

「そんなの、どこにもないよ」

 え、と目の前の男がようやく顔をあげた。

 私は自嘲して、なんでもないと口にしてかぶりをふった。晩になれば家に帰るけれども、それでも彼らを待っているものはやはり孤独であるってアンドレ・マルローが書いていて、そんなもんだよなあって窓の外の夕焼けを見ながら小学生のときに嘆息した。ここの西日を見るといつも、あれを思い出す。ここが自分の家でなく、他人の住まいなせいかもしれない。あの頃と同じ気持ちを今も抱えているなんて、ほんと、どうしてなんだろう。

 堪えようもないため息とともに、唇から頭の隅にさえなかったはずの言葉がとびだした。

「目を覚ますといつも、ミズキさんが起きてるのよ」


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