3月24日 夜間 119
両手で背中を押されてこわばりが解けるのと同じくして急激に気管が活動しだした。すこしは慣れたのか、涙が出て止まらないほどの咳は出ない。なだめるように肩甲骨をそうっとさすられて、ミズキさんの手が何に似ているのか思い出した。
南仏の、香料の街グラース、あそこで浴びた日差しはこんなだった。黄金の蜜が天空高くからしとどに押し寄せるような、なにか、光の重さを感じさせるほどの勢いで、地上の花の香りと一緒にからだを練り上げられた。身の内で凝っていたものが溶解し、たちのぼって散じるような感じがした。
そうして肩をもまれ、首の真後ろから襟首のあたりを両の掌で押されると、ピキピキと骨が軋んだ。息を吐くたびに背骨の横に指を食い込ませながら力をこめられると、背筋が徐々に伸びていくのを感じた。ああ、ほんとに緩むのだなあと自分の背のS字カーブのしなり具合を目で確認したいような気分であくびをかみころすと、彼が立ち上がって明かりを消した。
うつ伏せのまま目をつむる。
外で絵をかくのに夢中で、大好きなヴェルガモットの香りのキャンドルも自慢したいようなアンティークランプもあるのに用意するのをすっかり忘れていたな。気を抜いていたともいえるし、ほかの言葉でいえば、たぶん、安心していたのだ。彼に、というより自分の行いに。
それからしずかに布団をかけてそうっと潜りこんできたひとの胸に、こちらから勢いよく突進した。
姫香ちゃん、眠くないの?
ミズキさんは私にからだを寄せられて少し驚いたようで、暗がりに私はほくそえむ。彼から予想外の反応を引き出せて、おさえようもなく笑いたくなるのを懸命にこらえ、すまし顔で誘ってみる。
したほうが、よく眠れるってわかったの。
それはよかった、とミズキさんはうれしげにこたえてから、私の頭の横に手をついて耳のうえで囁いた。
咳って、よがり声と似てない?
それは似て非なるものではないかと反論しようとすると、うっとうしいどころか興奮した、と続いた。それはやっぱりオカシイような気がすると思っていると、心中を読んだように、僕、ほんとにおかしくなってるね、と自己申告の声を聞く。
両肩がぴたりとシーツにくっついている自分に気づく。ああ、すごく、リラックスしている。だいじょうぶ。この手は、私を痛めつけたりはしない。まぶたを閉じて、そう、思う。暗示にかけているわけでなく、からだが、理解していた。
ほとんど呼吸の乱れることのないひとの、その息遣いの変化を感じるのはとても刺激的なことだった。先に身体をほぐされてしまったせいか私は噎せて身体を折り込むような窮状に追い込まれはしなかったけれど、かわりに急激に皮膚のしたにこもった熱を逃す方法がわからなくてむずかった。そうして苦しいと訴えると、泣きそうな顔で謝られた。助けてとせがむと、困ったように微笑まれた。
やめる?
問われてはじめて、自分だけよくなりすぎて不慣れな感覚に堪えられなくているのだと気がついた。しゃくりあげながら睫を濡らす水滴を丸め込んだ手の甲ではらう。
そうしてはっきりとした視界を得た私は息をつめて、それを見守った。
撃たれた獣が、なおも起き上がって逃げようとするのを見ているようだった。
仕留められているのは自分なのだろうに、そう感じた。
荒れた呼吸をぶつけられ肌をざわめかせながら、息をつめてそれを眺め、そういう緊張した自分に驚いて、身体のうえにいる相手の黒々とした両目をみつめると、彼が、切なげに瞳をぎゅっと閉じた。
ごめんね、僕、すごく夢中になりすぎちゃった。
私が口をひらく前に、彼はもういつもの声でそう言って、照れくさそうに唇に笑みをうかべた。そして、急ぎすぎたよね、と私の髪を撫でた。転寝してしまった私を起こしたときと同じで、遠慮がちに触れながら、ほんのかすかな不安と安堵の交じり合ったような表情だった。それは、さっきの瀕死の獣じみた相貌とは真逆のものなのに、不思議にどこか似通っていて、見つめるこちらの呼吸を狭めるほどに切なかった。何故か私は泣きたくなって、今ここでそんなことをしちゃダメだと、掠れた呼吸に乾いた唇を噛んで我慢した。
それから彼はその額に張りついた髪をかきあげて、私の鼻の頭に唇をおとし、怖くしちゃったね、と頬に手を添わせて囁いた。
私は否定のために首をふって、平気だというつもりで唇を合わせた。誘い込むように喘ぐと口付けは深くなったけれど、彼はそれ以上、私を追いあげようとはしなかった。触れ合った頬の熱さに震え、どうしたらいいかわからなくて名前を呼ぶと、彼はやわらかく微笑んで、わかってるから、とこたえた。何がわかっているのかわからなくて頭をふると、感じすぎてつらいんだよね、と言われた。それはそうなのだろうけど、言いたいのはそういうことじゃないのだと言おうとしたのに、可愛いなあと笑われてキスの雨が降ってきた。
やさしい接吻に自分の心臓がどうにか正気をとりもどし呼吸が楽になっていくなかで相手の瞳をちゃんと見つめようとしたとたん、折れた肋骨のあたりを撫で上げられた。甲高い悲鳴をあげて私はのけぞり、あとは、昨夜と同じような親密な触れ合いになった。
汗がひいていくのを確かめるようにゆっくりと撫でられながら、浅倉くんだったらああいうとき、どうやってこのひとに言うだろうと考えた。私より上手くやれるに違いないとため息をつきそうになるのをこらえると、小さなあくびに変わった。
姫香ちゃん、このまま、寝る? 眠れる?
耳許で問われてうなずいた。脱ぎ散らかしたものを身に着けないで寝て風邪をひいたりしないだろうかと不安になったし、ひどく恥ずかしい気もしたけれど、今は背中からすっぽりと腕のなかで、服を着ることで離れるのがもったいないように感じた。それに身体のまんなかにじんわり温かくて重いものを抱えているようにものすごくだるかった。したに引っ張られる力を感じ、それが眠気だと思うと心地よさに変わった。
これだけ体温が高ければ平気。たぶん、途中で絶対に目をさますだろうからそのとき着よう。札幌は寒いだろうなあと想像し、家のなかはあったかいのかと思い直したせいか、なんだか安心して瞼が落ちた。
暗闇に凝る熱は、果物の缶詰にはいったシロップジュースみたいなにおいがした。
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