3月24日 夜間 118

「現実的に話すとカトリックのように〈相共に拒むな〉っていうのは困難だよ。僕がしたいときに君がいつでもこたえないとならないとすると君の時間を奪うことになるし、僕は外出しがちだから逆に僕が応えられないこともあるよね」

 真面目な声で話しているのに、ちっとも手を休めないで指の先をリズミカルに頬に触れさせ続けるミズキさんの顔を見て問う。

「ねえ、この、ほっぺをつつきつづける行為には何か意味があるの?」

「ん、どのくらいしたらうっとうしがるかなあって」

 がくりと頭を倒してうなだれた。さすがに指は追ってこなかった。

「姫香ちゃん?」

「私にうっとうしがられて嬉しいの?」

「うっとおしかった?」

「行為自体はそうでもないけど、いまの言葉は好きじゃない」

「そうだよね」

 彼の声が低くなった。思わず頤をあげた瞬間、さっきまで私の頬を無遠慮につつき続けた指が唇のうえで止まった。

「……姫香ちゃん、ちゃんと、話せてる? 君が言おうと思ってたことだけじゃなくて、僕のはなすことに対しては口数へってない?」

「え?」

「黙っていればたしかに嘘はつかないですむ。君は自制心が強いからある程度は我慢もできる。それは君好みの誠実な態度かもしれないけど、でもそれを一生つづけてはいけないよ」

 私は……。

「我慢できないほど嫌なことを我慢しちゃダメだよ。それは、わかるよね?」

 泣きそうな顔でたずねられたのに、私はなんでかうなずけなかった。唇のうえに乗ったままの指先が気になったのかもしれない。ミズキさんは、あ、という顔をして指をひっこめた。たぶん、目線がそこに落ちたのだろう。

「ごめんね。話してっていいながら、これじゃ君の口に緘をしてるみたいだ」

 情けなさそうな顔をしていた。それは、いつもかっこつけのミズキさんらしからぬ態度で胸がキュンとした。

「私、そんなに強くないから大丈夫だと思う。もしそうやって我慢したとしても、身体のほうに無理がくるようにできてるの。ミズキさん、私の体調みるの得意でしょ?」

 手綱はあずけたというつもりで言い切ると、

「まあ、君よりはましだろうね」

 しぶしぶという調子でうなずかれ満面の笑みでこたえると、ヤラレタという顔をした。それからそんな自分に気づいたのか、彼はちいさくかぶりをふって私の頬を手の甲でするりと撫でてから言った。

「ねえ姫香ちゃん、絵のこと以外でも君が自分を伝えていかないといけない場面はこの先たくさん出てくるはずで、僕にそれを推し量ってほしいと頼みにしてくれることを僕はきっと嬉しく思ってる。でもね、君がそういうこと言うのに抵抗があるのはわかるけど、もし少しでも気になったところがあったら口に出してもらえると、姫香ちゃん自身も楽になるだろうし、僕も不安にならないですむ。もちろん、そうならないように僕が努力するのは大前提なんだけどね」

 いつもの微笑をむけられて、私は何度も瞬きをした。

「僕はなんでも努力するの好きなんだよね。それにセックスが好きか嫌いか聞かれたら好きだけど、自信があるわけじゃないから謹んで傾聴するよ。僕も希望があればこうやって随時申告してこうと思ってるしね」

 私は深く無言でうなずいて、その気遣いに感謝すると言うかわりに、

「ミズキさん、セックス得意なんじゃないの?」

「君には負ける」

「え」

「君はただ眠ってるだけで僕を『幸福』に導くし、それでそんな嬉しがらせを言われると、僕、ほんとに駄目になっちゃう」

 だめになっちゃうって言いながら、赤くなった私を見つめる顔は楽しげだ。悔しかったので、肩に手をおいて爪先立ち、すこし尖った大きな耳の先端に口付けようとした。

 彼は睫を伏せて、あんまりすると反撃しちゃうよ、とくすぐったさそうに肩を揺らした。

「していいよ。ちゃんと仕返すから」

「そんなに言われたらすごく期待する。興奮しすぎて卒倒したらどうしよう」

 それは見てみたい気がした。そう思ったときには横抱きにされて布団のうえにおろされた。おや、速攻だなとさすがに呆れると、私を転がしてきちんと掛け布団をはいでいく。ぐるりと身体を回されてシーツに頬がくっついた。あわてて肘をついて身体を起こそうとする頭のうえに声が落ちる。

「まずは踏んでしまおうね」

 カーディガンを脱ぎながら仰ぎ見ると、私を踏みつけにする姿勢で色悪めいた笑顔が返ってきた。

「ミズキさん、なんだか女王様みたいよ?」

 彼は声をたてて笑い、僕は君のピンクのマカロンみたいなちっちゃな踵で踏んでもらうほうがいいなあとこたえた。そういえば、子供の頃にお父さんの足の裏を踏んであげたことがあった気がした。

「それとも、手で押そうか? 僕は手のほうが楽しい」

 言いながら座り、私の足首をつかんでこちらを見た。上半身をひねる姿勢の苦しさに頭をもどした瞬間、踵を濡れた感触が襲った。

「手じゃないじゃないっ」

 蹴りをいれる勢いで足をふったのに、ミズキさんはおかまいなしであぐあぐしている。足の指を舐めるオトコはいたけど、踵を口に含まれたことはない。しかも、けっこうがっぷりいっていた。子供がなんでも口に放り込む様子に似ている。

「左は冷たい。こっち、骨折ってるんだよね?」

「う、ん」

「だからだね。姫香ちゃん、満身創痍だなあ」

 呆れ声をもらされて、なんだか叱られたようで悲しくなった。しゅんとしたのに気がついたのか、足をおろした手で寝入りばなの赤ん坊にするような感じでおしりをかるくたたかれた。

「もうそういう無茶しちゃ駄目だよ」

「しないよ。怖がりだもの」

「怪我されたら、心配で心臓潰れちゃいそう」

 うん、と布団に頬を押しつけたままうなずいた。

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