3月24日 夜間 116

 あらためて問われると、ことばにつまった。彼は私の肩から手をはなした。掌しか触れられていなかったというのに、それが去っていくと驚くほど温かみが失せた。

「僕は今まで自分のわがままを通すことのできるような関係で恋愛をしたことがない。もちろん相手の何もかもを望んだこともない。それはさいしょから無理だし、僕自身、どこかでちゃんと割り切ってきた。少なくとも頭ではわかっていたし線も引いた。

 でもね、君にはそれが上手くできなくて、そのくせ僕は君とだけはずっと一生、死ぬまで仲良くしたいんだよ」

 私もいつもそう思って、そう願って、男のひとと付き合ってきたはずだ。

 彼は自分でいった言葉がおかしかったのか軽く肩を揺らして、僕、なんだか子供みたいなこと言ってるよね、とはにかんだ。

「君は僕が舞い上がってるって言ったよね。ほんとにそうだから。昨日はじめてセックスしたばっかりなのに、姫香ちゃんが僕の子供うんでくれたらどんなに嬉しいだろうって考えた自分の勝手さにびっくりした」

 私が顔色を変えたのに気づいて苦笑して、前髪を指ではらってから続けた。

「君に個展しろって言った張本人なのにね。しかもプロポーズの際に子供はいなくてもいいと口にした。呆れるでしょ?」

 黙っていると、彼は鼻と口を両手で覆うようにして顔を伏せた。そのせいか、次のことばも少しくぐもって聞こえた。

「ごめんね。自分ではけっこう自制心のあるほうだと思ってきたんだけど君には歯止めがきかなくなってるよね」

 そこはよくわからない。ずいぶん遠慮があるような気もするし、彼の言うとおりだとも思う。いまの言葉だって、その両方だ。下手に出て謝罪しながら自分の希望はちゃんと伝えてくる。強制されない分、私はきっと追い詰められているともいえる。さらにいえば、彼はそれも理解してる。だからまた謝る。

「……姫香ちゃん」

「一個ずつ、分けて、考えてもいい?」

 少なくとも、昨日のあれは嫌じゃなかったと伝えたほうがいいだろうと考えて、わけがわからなくなっていた。私はセックスが生殖行為だとは感じたことがない。でも、彼のほうが正しい。けっきょく、そういうことをきちんと考えてこなかったから結婚などという人生の大問題と向き合えなかったのかもしれない。

 それに、私は言わなければいけないことを、このひとに言っていない。私が不安になっているのはたんに、ソノコトだけなのだ。

「あのね、私、ずっと、セックスが気持ちいいって素直に思えなかったんだよね」

 彼は整った眉をわずかに寄せただけで何も言わず、私の瞳を見つめていた。だから私も同じようにして、つづける。

「いいときも確かにある。いっそ、ぜんぜん気持ちよくなければいいと思ってた。そうすれば、したくないって単純に思い切れるから。でも、どうしてそんなことされないといけないのかなっていうことも山ほどあって……そう、伝えたりもしたんだけど、でもうまく通じないし……なんだかもう、我慢できないほど嫌じゃないならそれでいいのかなあって……」

 はじめは、相手がそれで喜んでくれるならいいと思っていた。

 言葉だけきくと献身的な態度のようだけど、違う。ご褒美のみたいなものだ。

 相手を見下していると言われたら素直に謝るしかない。事実、そうやってふられたこともある。でも、自分がして楽しくなかったのだからそうとしか呼べない。

 セックスは苦痛だった。痛くなくても、心身ともに疲弊する要因でしかなかった。かったるいし苛立たしい。いつも、これで合っているのか不安を抱え、上手にできていない惧れに萎縮した。

 結論からいえば、どうやら相手に原因があるのではなく、私自身になにか重大な瑕疵があるようだった。

 しかし、欠陥品の届けはどこに出せば受理されるのだ?

 まして、そういう存在をリカバリーできる特殊機関はあるのだろうか?

 姫香、それは基本、カスタム仕様だから無理よ、と友人が額に手をあてた。なんのために裸になるの、一人でできることじゃないから面白いのよ、あなたは聡いくせにコミュニケーションスキルが低すぎる。それに、そんなことをウダウダ考えるようなひととセックスすること自体が間違ってない?

 友達の冷え切った呆れ声を思い返しながら、目の前に立つひとを見あげた。

 このひとも、仕事となると驚愕するほど社交的で大胆で、融通無碍に立ち回るのに、私事ではからっきしだ。浅倉くんに不器用な片想いをし、親との距離のとり方に苦しみ、私を扱いかねている。まあ、それは私も同じか。自嘲に流れそうな吐息を胸におしかえし、さらに言い募ることにする。

「好きだからって言われると、なんだか伝家の宝刀を抜かれたか葵の御紋でも見せられたような気になって、自分でもバカだし意気地がなくてだらしないって思うんだけど、それ以上なにも言えなくなっちゃうんだよね。仕事みたいに先様の希望とこっちの提案のすり合わせができないっていうのかなあ。私、本来ならそういうの得意なはずなのに、なんだかダメなんだよね。それに、世間に照らし合わせても相手のほうがノーマルみたいだから自分がオカシイんだなって思えたし……たしかにミズキさんの言うように、こういうのって比べるものじゃないんだろうけど、驚かれたり潔癖すぎるみたいに女友達にも言われたし、ほんとにすごくイヤならやめてって言えばしないでくれるし、それがお互いのラインなのかなあって……」 

 めちゃめちゃにしたいとか言われるとぞっとした。そりゃするほうはすっきりするだろうけど、されるほうはそうもいかないのだ。中途半端に服を脱がせられたままするのもイヤだった。汚れたりシワになるのは大嫌いだし、どう見てもオフィシャルでは有り得ない、おかしな格好なのだから。

 それがイイらしいということは頭では理解できる。けれど自分の快感にすりかえられない。しかも嫌がると興奮された。ほんとに厭なのだと泣くとがっかりされた。

 私はきっと変な男と付き合っているのだと友人に相談したところ、彼女は目をそらしてのち、まあ人それぞれだから、とこたえた。一瞬の不用意な間が、彼女はそれを肯定していると告げていた。惚気かと勘違いされることもあって、バタイユじゃないけど男のひとはそういうのが好きなんだからしょうがないのかと諦めた。

 ひそかに統計をとったところ、よほど行き過ぎない限りはみんなそういうことを愉しんでいるようだった。私がサドを読んでいるとエロいって吃驚するのに、実生活でそんなことしてるだなんて、そのほうがよっぽどヤラシイじゃないかと肩をいからせた。もうほんとに世の中どうなってるの、と大声で問いかけたくなった。

 かと思うと、そんなことまでしなくてもいいから、と言いたくなるほどあれこれ訊かれたり奉仕されたりすることもあった。それで心身ともに落ち着けばいいのだけど、そういうわけでもなかった。そのほうが気楽なようで、実はそれも相手の願望であると考えると突如として気が萎えた。演技や振る舞いに疲れるのだ。畢竟、どうされても居心地が悪いという一点では大差ない。

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