3月24日 昼間 106
なにを言われても、とにかく耐えようと覚悟した。でも彼はなにも言わなくて、そしてとくに怯えたようすもなく、けれど腕に強い力をこめていた。あまり性的な雰囲気でもなくて、かといってしがみつく子供の健気さもない。なんだか不思議な気がした。ああ、そうだ。今日のミズキさんは、私には、ちょっとわからないのだ。
とても近くになったようで、ふと遠巻きにされるような。近くなった証拠に、以前ほど神経を尖らせてもいないし自分の想いをひたすらぶつけてくるわけでもないことは間違いなくて、素の声も聞こえているのに、でも……。
吐息がひとつ、耳朶に触れた。
私がそれに背を震わすと、ほとんど耳のうえをなぞるように声がすべる。
「姫香ちゃんが好き」
その幼いもの言いが、ミズキさんの真実の声だと思うほど私も無邪気ではいられない。好き、大好き、とキスして微笑んで、じゃれてころげまわるだけでは生きてけない。
ほんとはそれだけでいい。それだけでいいのに、そうはしていられないから辛い。お互いだけを目にして、自分たちの手は相手のためだけにあるのなら、それでいい。
でも、そうじゃない。そうじゃないから。
「私も、ミズキさんが好きよ」
彼の頬に掌をそわせてもちあげ、次の言葉を唇で奪い、立ち上がる。ことを引き伸ばしてもしょうがない。そう、たぶん、このことが気になって、ミズキさんは揺れているのだと思う。
背はむけず、横顔をみせて電話をつかみ、左耳にあてて目を閉じた。案内の声は、二件と所在をしめす。瞳を開け、らしくないほどのぎこちなさで腰をあげる男を振り返る。
一件目。
あ、さっきはすみません。電車かな。今日はほんと、留守番ありがとうございました。
ひどくまじめな調子だった。なんだか、学生時代の会話のようだ。そのあと五分もしない記録でまた、二件目。
何度もすみません。なんか通じないときに言うの変だけど、オレ、センパイがいてくれて幸せです。いてくれてって、オレのためにいるんじゃないけど。でもなんか、そういう感じ。そんだけ。じゃ、また明日。
私はうつむいて、右手で顔を覆っていた。
だめだ。だめだって。これは……だめだ。
胸に迫り来るものを、息をついで急いで戻し、あわてて留守電を消去した。消した。完全消去。
唇を噛みそうになるのをこらえ、胸の震えを抑えるように右手を喉のしたにあてて目を閉じた。だいじょうぶ。ここはお店だから、ちゃんとしなきゃ。
そうでなくとも、見られているのだから。
目をつむり、暗闇に自分の呼気をひとつ聞いて、頤をあげる。髪をゆすり、気をととのえて、横をむく。
「浅倉くんで、とくに大事な用件じゃなかったから」
ミズキさんは、そう言い切ったこちらを見おろして息をつめていた。これほどあからさまに緊張している顔を見せられると思っていなくて、なにかもっと安心させるようなことを言ったほうがいいのかと考えてうつむくと、うん、とうなずいた。
それから彼は私の身体を左腕で抱いて、頬に手をやって自分のほうを向かせるとかるく唇をあわせた。そうして耳のうえの髪を指ですきながら、ありがとう、と口にした。その声がすこし、濡れているように感じた。
「終わるころに連絡する。ご飯食べよう」
今日は泊まらないよ、と先に宣告する。明日はお茶会なのだ。じゃあ泊まらせてよ、とおねだりするので反射的に眉を寄せると苦笑された。
一連のやりとりで、たぶん、私が消耗していると気がつかれた。
距離を縮められたほうがいい。でも、こんな状態で一緒にいられて、彼がそれでも嬉しいのかはかりかねた。その逡巡に決着をつけるように、ミズキさんは、すこし首をかたむけてこちらに顔を合わせながら尋ねてきた。
「明日、朝早いの?」
「早めに行って、なるべくなら全部のお席に入ってきたいの」
日曜は夕方から仕事なんだよ、と彼が言って至極残念という顔をした。ああ、これは絶対に家に来る気でいるなと思った。とりあえずそこは成り行きだと決めた。それなら、それでいい。否、そのほうが、いいに違いない。
それから、ゆっくりと、優しい、膝が落ちそうになるキスをして別れ、ひとりになったらなぜだか泣きたくなった。どこを触られても何をされてもたまらなく気持ちがいい。そう感じてしまう自分が正直すぎて、いやになる。
自分の官能だけ信じられればいいのに――。
嘲笑う気持ちで髪をかきあげて、前をむいたそのとき、店の電話が鳴った。
この瞬間で、クル、か。
笑いに似た怒りがみぞおちに炸裂し、つづいて胃の底を熱くした。
ほんともう、あの男は。
浅倉悟志というのはもしかすると、私の人生にとって遅すぎる男なのじゃないだろうか。あんなにせっかちなくせに。なんてことだ。
受話器をつかんで背筋をのばし、その疑問を胸の底に押しこめて、よそ行きの声で出る。
「あ、センパイ、おはようございます、ってもう昼か。すみません。こんにちは」
これだもの。脱力する。ほんとに、どうしてこうなのだ。
「ケータイ、かければ?」
「あ、いいすか? なんかつながんなくて」
切るね、とこたえて相手の反応をきかずに受話器をおいた。
それから、用件は何もないって言わないとならなかったと気がついた。あの呑気な声をきくと気持ちがぐだぐだになる。失敗した。
景気よく鳴りひびく電話をつかみ、このまま出なければいいだろうか、とも考える。だったらかけろと言ったのはおかしい。
えい、と気合を入れて受話器のマークを押す。
「はい、もしもし」
「なんか、あった?」
こちらが息をのむと、つづけて問う。
「声が、ヘンっつうか……」
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