3月24日 昼間 105

コンビニに寄るから先に行って、とビルのすぐ前で言い渡された。途中でいくらでもあったのに、と首をかしげそうになったもののうなずいて見送り、ひとりで階段をのぼる。

 隣にひとのいない空白に、そして再会したときの記憶に、浅倉くんの影が揺れた。胃が痛いと口にした私のすぐ横に立ち、こちらをうかがおうと見おろしてくる視線の熱さにうざったいと感じたことを思い出す。

 鍵をあけて電気をつけて空気を通す。看板を抱えて定位置にしつらえ、戻ってきて留守電を解除した。伝言なし。OK。

 ため息とともに椅子に腰かけたところで、ミズキさんが入ってきた。

「電話、使えないと困るでしょ」

 彼は小さな器具をさしだした。へえ、こんなんで充電できるんだ。おどろき。

 お礼をのべて、バッグからそそくさとケータイをとりだす自分がはために緊張していないか、冷静に見極めていた。でも、彼には通用しないとあきらめて顔を見た。

「僕から、電話を入れるっていうのはイヤだよね?」

 誰へとは言わないでもわかったけど、イヤというか、このひとはそんなことができるのだろうか。だいたい、なんて言うつもりだ。しかもそれを私に聞かす気かしら。 

 こちらの頭のなかを駆け巡る思惑を見つめる風情で、ミズキさんはうすい唇をひきむすんでいた。態度が決められないときの臆病さ加減では私といい勝負だな、と判断する。敵か味方か使える使えないでしか物事を見極めてこないからそんなことになるのだよ、と意地悪な気分で思ってから反省した。ひとのことを言えた義理じゃない。

「ミズキさん的に、どうして欲しいっていうのはあるの?」

「それは……言っても許されることじゃない気がする」

 ちらりと様子をうかがわれた。あまり健全なことを思っていないように見えた。台風がくる前のワクワク感に似た不穏な期待を胸の内側で掴みとり、そそられた。

「とりあえず留守電、聞いてもいい?」

「聞くなっていうのは横暴だよ」

 言いながら、それも欺瞞に満ちていると彼が感じていることはわかっていた。ここで聞けば、少なくとも、私がなにをどう感じたかは知ることができるのだから。

「なんか、妙なふうになっちゃってるね」

 しみじみと本音で語ると、彼は書類鞄を床において、藁張りの椅子に座りテーブルに肘をついて頭を支えてうなだれた。

「ごめん。もしかして僕、君にまた困難な選択をさせてる? なにか強制してない?」

「べつにいいよ」

 携帯電話の電源を入れた。あ、ちゃんと赤くなる。

「いいの? ほんとに平気?」

 揺れる瞳に力いっぱいうなずいて、腰をかがめてその頬にキスをした。離れようとしたところを長い腕に阻まれてそのまま膝のうえに引き寄せられた。彼の唇が、布地越しに、昨日ここでつけられた傷のすぐうえにある。

「ミズキさん」

 お客さんきたら困るから、と口にして膝をおこそうとすると、はっきりとそこに指を触れられた。震えた肩を左手で撫でられながら、やっぱり気づいてないはずはないと思ったよ、とあきらめの境地でまぶたをとじる。

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