3月23日 宵越 101

 反論する気もおきなかった。これはヒドイ辱めではないかと思いながら頬が火照るのを感じた。相手の顔が見られないのは自分だと気がついて、諦念というのを思い立ち、慣れないその態度にとらわれてみようと目を閉じた瞬間、よいしょ、と声がして抱き起こされた。

「もうちょっと、飲もうか」

 彼は私の髪をわざとくしゃくしゃと乱すように撫でて、頬にキスした。

「ごめんね。言質をとって安心したから言うみたいで悪いけど、僕は愛して欲しいばっかりで、姫香ちゃんにだけ覚悟を迫りすぎたね」

「ミズキさん」

「ごめんね。もう絶対にしないから。姫香ちゃんのことを何より大事にするから。許してね」

 くりかえされた謝罪に、うっかり涙がこぼれた。私が抱きしめようと思っていたのに、もう腕のなかだった。彼は唇で涙をぬぐいながら私を立ち上がらせて、すこし、外を歩こうか、と続けた。僕、君がいなくならないか心配で、贈り物ひとつ用意しないで走って帰ってきちゃったから。もっとちゃんと美味しいもの、買ってこよう。あと飲み物もなにか。デザートとフルーツも。もうお店やってないかなあ。 

 ミズキさんの言葉が、まるで巣篭もりする動物のようでおかしかった。うつむいて笑うと、頭の天辺にキスされた。さっき、僕のつむじ見たいって思ったでしょ。

 驚いて顔をあげると、悪戯っぽく微笑まれた。なんでも見せてあげるよ。そのかわり、姫香ちゃんのも見せてね。

 それは、諾とこたえるのにいささか抵抗があった。でもまあ、こんなに可愛い顔で迫られては頭から否と言いがたい。そのうち、気が向いたらね。

 私たちは手をつないで家を出た。

 二十四時間営業のスーパーから帰ってきたときにはお互い両手に荷物を持って、なんであれを買ったのと相手の欲しがったものに文句をつけたり理由を問いただしたりして笑いながら玄関に転がりこんだ。

 消費蕩尽の愉悦はその後の宴に持ちこされた。古代ローマの貴族もかくやという有様でだらしなく横になる。饗宴は、お互いの口に餌をはこぶ鳥の番さながらの睦まじさで夜明けまで続くかと思いきや、消化器系のよわい私は順当に、奴隷の手を借りるまでもなく深更、彼の予言どおりの醜態を演じるしだいと相成った。

 そのせいか、明け方に迎え酒と煽った辛口の白葡萄酒が喉にしみた。

 しないという宣言を撤回させたのはおトイレで前のめる私の背を撫でて抱き支える彼が、そんな状態だというのにアタウようになっていたのに気がついたせいだ。

 それはおかしいんじゃないかと小声で問うと、口を濯ぐ前にキスされた。だって弱ってる姫香ちゃんかわいいからしょうがないよ、と胸をそらす。それはやっぱり間違ってるような気がする、と反抗すると、こういうことは二人だけのことだから誰にも迷惑かけないし二人さえよければ間違ってるってことは何もないんだよ、と堂々と言いはる。もっともだと思えた。

 じゃあする、と聞くと、こんな状態の姫香ちゃん相手にここでうんっていうと僕すごくキチクじゃない、と躊躇った。あれだけ脅せばすでにもうじゅうぶんソウだよ、と返答すると、じゃあ遠慮なく、と微笑んでから、君は疲れてるからお風呂に入ってあったかくして少し眠ってからね、とこたえた。

 我ながら呆れるほど安心してぬくぬくと横になり、それでも抱きしめられているあいだは眠れなくて、ミズキさんに、僕、違う部屋で寝たほうがいいかな、と眉宇をくもらせのぞきこまれた。それには及ばないと首をふって、これでも今までの人生でいちばん緊張しないでいるのだと説明した。不安にさせていたようなので、懇願するつもりで囁いた。身体に腕はまわさないですぐ横にいて。たぶんそれで眠れると思う。

 目をさますと正面に、一睡もした様子のない相手を見つけた。ばつが悪い気分になるかと思ったのに、彼が驚いたように息をつめ、暗がりにもやたら煌く瞳で私を見つめるので、なぜか、自分がとても強く大きいもののように感じて面映い気がした。

 私が眠る前、彼は浴衣を着ていたはずなのに、裸だった。脱衣に気づかないほど熟睡していたらしい。寝巻き代わりに着せられた男物襦袢の裾の乱れを直すふりで手をおろした。はだけた前裾を重ね合わせながらさぐった感じでは、全裸ではなく、下は穿いているのだと少し、安心した。掠めた肌が湿っていて、私にはちょうどいい温度でも彼には暑いくらいなのだと想像できた。

 さっき、寝るときはパジャマじゃなくて浴衣なのかと聞いたところ、せっかく祖母に作ってもらったのに着ないともったいないし宅配のひと来てもそのまま出れるから、と意外に不精なことを告白してはにかんだ。

 本藍の長板染めらしいのに、よほど着ているのか、洗いっぱなしの綿の本分もあらわに肌に馴染んでいる様子はやたら心地がよかった。そういうやわらかいのがいいと言ったのに、いくらなんでもヨレヨレすぎるとたとうを出してきた。僕ので悪いけどと紐をほどく。しゃれた茄子紺地のよろけ縞に目を輝かせると、姫香ちゃん、お蚕ぐるみで育ったものね、と微笑まれた。ことばの使い方としては間違っているようだけれど、たしかにウールや化繊のキモノは着ない。

 湯上がりに、襟をもって背にまわし、両手首を返しながら肩に引き上げ落ちるに任せすべらすと、古めいた白檀のにおいが仄かに漂った。

 その感覚を思い出して目を閉じると、髪を指にからめられて頬にキスされた。裾をわって膝を入れらそうになった私が小さく身じろぎすると、彼は左手で私の背骨をそっと撫で、震えた足を彼の足の間にゆっくりと、それでいて躊躇いのない力で挟みこんだ。膝頭のかたさと滑らかな脛のしずかな重さを感じた。相手の高い体温が心地よかった。

 交差させた脚は西洋絵画では性交そのものを意味するのだったなと思い出しながら、空いた右手をそうっと彼の背にまわすと片腕だけで引き寄せられた。

 今まで同じベッドで寝ていたせいか触れ合う肌に違和感がなくて、ただ、しっとりとした絹地越しでさえ他の場所よりも熱いものだけが、ふたりの間で行き場のない、やるせないような感じで脈打っていた。何か、違う生き物が紛れこんでしまっているみたいで、優しく抱きしめてくるこのひとには似つかわしくない、そこだけ不具合の発生した見当違いの異物のように思えた。もちろんそんなことはないのだし、それがおさまるべき処もわかっている。

 ただし、待ち望むという気持ちには程遠い。いつでも正直、こわいのだ。

 痛かったらイヤだなあと考え、このひとに限ってそういうことはなさそうだと思い直す。十年くらいずっとゲイだったという言葉を思い出したけれど、この今でさえ、彼のペースで進めてこないことを考えると不安はなかった。私は少し大胆になり、太腿にあたるそれを押しつけるようなつもりですりより、彼の首と胸のあいだに頬を寄せた。

 すると彼は身体を反転し、ひどく慎重な態度で私の胴をつかんで自分のしたにした。それから落ち着いた規則正しい息遣いをたもったまま、私の顔をたしかめるみたいに手を這わせ、ときどき唇をそっと寄せて、丁寧に指でなぞった。精緻な作り物をあらためるような、または聖遺物でも押し戴くような仕種だった。恥ずかしいのとくすぐったいのが入り混じって笑いそうになるのを堪えていると、まるで老山を焚き上げたごとく濃密な気配をかぎとった。首をめぐらして犬のように鼻を鳴らす私を見て、どうしたの、と不思議そうに問う。体温のあがった彼自身の匂いだと気づくのに時間がかかった。ではこのキモノの淡い白檀香も樟脳がわりの虫除けではないのかもしれないと目をつむり、高雅な香りにつつまれる愉楽を存分に味わうことにした。

 そうしてくちづけを交わす合間に、左手を取り上げられたので意図することは理解できた。ところが、薬指に嵌めるはずの指輪はなんとなく緩くておさまりが悪く、身につけているのは指輪だけ、という彼のファンタジーは遂行されなかった。私が、中指じゃ間抜けでしょうとこたえるとしぶしぶ引き下がったものの、模造パールなのをいいことに、ベットヘッドに時計と一緒に置いたネックレスをつけさせられた。首にぴったり添うチョーカーみたいな物のほうがいいんだけど、と至極残念そうにつぶやくので、クラナッハの《ヴィーナス》みたいな? というと恥ずかしげに、目許を染めて首肯した。

 このひとでも自分の性的嗜好を語るのは照れくさいのだと思っていたら、指輪のサイズくらい確かめて直しておけばよかったと、こんなことなのに凄まじいほどの自己嫌悪でいっぱいの顔で嘆息した。ミズキさんのファンタスムは謎、よくわからないと頭のはしで思いながら、慰めるつもりもなく、でも私、指輪しないから自分のサイズ知らないんだよねと微笑んだ。すると、それでいきなり聞かれたら怪しむし退くよね、と彼もその頓挫した計画を笑った。

 ミズキさん、クラナッハの絵みたいな少女っぽい肢体で妖艶なひとが好きなんだ、というと、難しい顔をされた。首を傾けると、一糸まとわぬ裸体に宝石や帽子だけっていうのはエロティックだと思うけど、ああいう意地悪そうな顔は好きじゃない、と真剣にこたえられた。ふ~ん、と鼻をならしてパールの連を指にからめて弄んだ。やはり、このひとの女性の好みというのはイマイチよくわからない。どうして私なの、と聞いたほうがいいだろうかと思いながら、それは自尊心が許さなかった。

 姫香ちゃん、真珠が好きだよね。うなずくと、ヴィーナスと共に生まれたものだと告げられて、少々面食らった。そういえばそうだった。《春》の女神の胸元にも真珠の連がある。薔薇も好きだよね、と微笑まれた。それも、あの二枚の絵に咲き競うように描かれている。我知らず、吐息のようなつぶやきがもれた。

 私、ほんっとうにサンドロを愛してるのね。

 君、今ここで、それを言う?

 さすがに自分でも呆れた。言い訳するのもなんなのでキスしてごまかした。そのままじゃれるように裸の胸に腕をついて見おろすと、ミズキさんは私の手を掴んで心臓のうえにのせて、君と会ってからほんとにずっとドキドキしっぱなし、と感に堪えないという声をもらした。鼓動を感じながらその鎖骨に落ちかかる真珠の連なりの淡い光りを眺め、秀でた額に流れる髪をはらうように唇を寄せると、襟の合わせ目に左手が分け入ってきた。私はそのときまで彼が右利きだと思っていた。左利きなの、と尋ねると、ううん、両利きと返された。

 そのまま、僕の名前はね、と語りだす甘いテノールと、私の胸に文字をかくいたずらな指にそそのかされた。ところがいざとなると恥ずかしさに寝台のあちらこちらに逃げ惑いたくなる気持ちに苛まれ、途中でだいぶ、始めてしまったことを後悔した。いったい何処に逃げるつもりなの、とおかしがられてそこここを器用な両手で捕まれてまんまんなかに戻された。君のいるのは此処でしょう、と腕のなかにおさめられ、ここにいて、と囁かれて撫でさすられた。その手は不思議なほど熱をもち、光で洗われるようだった。なにか変で、こんなの絶対オカシイというと、うん、そうかも、とうれしそうに笑った。

 たのしかった。とても、楽しかった。

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