3月24日 昼間 102

掃除機の音が聞こえたようでいったん目をさましたものの、見慣れない天井がどこか考えようとする間に、また眠りに落ちた。体温でぬくもったお布団の心地よさは格別で、いつもは隣にひとが寝ていると熟睡できないというのにその日は違った。疲れきっていたせいで、よく眠れた。夢もみなかったと思う。そうしてまだ寝ていたいと貪るように寝返りをうったのに目が開いたのは、おはようとキスされたからだった。

「無理やり起こしてごめんね。父が、もうすぐここに来るっていうんだよ」

 私はまだよく事態が把握できておらず、横になったままかるく頭を揺すった。

 なぜなら、ベッドに腰かけてこちらを見おろす相手が月暈のようにうっすらと光って見えるのだ。うまく閉じきらない雨戸の隙間から入る日の光せいかと目をこすり、どうもそうではないと口をひらく。

「ナ……ミズキさん、なんか後光がさしてない?」

「なに言ってるの。寝ぼけてるね」

 彼はしょうがないという顔で微笑し、私の鼻のあたまと頬を交互に指先でつついた。そのくすぐったい感触に震えて頭をふると、彼はすこし顔を傾けるようにして目を細めてこちらを見る。なんとまあ、可愛らしい顔だろう。思わずため息をもらしそうになると、彼が肩をすくめて聞いてきた。

「ねえ姫香ちゃん、父に会う気、ある? なければここで眠ってて」

 ようやくにして何を言われているのか気がついた。あわてて飛び起きると支えられて、からだ痛くない、と問われた。まるで派手に転んだ次の日のようにどこもかしこも軋んでいた。ことに肋骨やみぞおちのあたりが痛い。一昨夜、彼に全身踏まれたのと同じ症状とはどういうことだ。そう思ってむっとして顔をあげると、お気の毒に、とご機嫌な調子で笑われた。そのくせ、低血圧の自分がぱっきりと目覚めているのが不思議だった。噂に聞く、二日酔いの症状は見当たらない。あれだけ吐けば当たり前か、と自嘲した。

 実のところ、酩酊してからひと眠りするまでは、聞き分けの悪い子供とお母さんのやり取りが延々くりひろげられていた気がする。私の大人の女性としてのプライドは、早々に、イナックスの水色の便器へと流れ失せた。人前で吐いてキモチ悪いグルグルすると訴えてもうこんなの嫌だと泣きじゃくるなんて、そんな信じがたい振る舞いは、その欠落のせいに違いない。下水に流れたものが再び我が身に戻る日があるのか不安だが、ひとはそうして年をとるのかもしれない。

 そんなことを思いつつ、裄の長い袖をからげるように腕を突き出して前裾を引き上げて合わせ、博多の伊達締めを結びなおした。これじゃ腰上げして着れそうだ。

「それ、僕より粋に着てるね」

 背後からかかる声に世辞は含まれていない。そう感じて頬が緩む。

「ありがとう。おひいさま然とした京友禅より、濃い地の男っぽいキモノや紬のほうが好きなの」

「祖母も紬が好きだったよ。僕の着物はみんな、祖母の好みだから」

 彼が部屋着ではないことにあらためて目に入れた。もうスタンバイしているということか。

「あとでお仏壇、開けてもらえる? したの六畳にあるの、お仏壇だよね? モダンにできてるから何かと思った」

 ミズキさんがうなずいて、君、ほんと古風だね、と笑った。

「そういう慣習的な気持ちだけじゃなくて、お写真があるのかなって。似ているというおばあさまのご尊顔を拝したいと思ったの」

「じゃあ遺影よりもアルバムがいいね。僕は写ってないけど、父のがある」

「お父様、あとどのくらいで着くの」

「早くて二十分。遅くて三十分ってところかな」

 やだ、そんな間際になって起こさないでよ。そう文句をいうかわりに。

「下、片付いてる?」

「それは今してきた。姫香ちゃん、会ってくれるの?」

 輝くばかりの笑顔でのぞきこまれた。ほんとに本気で光がさすみたいで、そんなに喜ばれると、困る。というか、プレッシャーかけないでほしい。二十分ていうと、シャワーあびて服着て化粧して間に合わない?

「はなして。時間がないんだから」

 ありがとう、と後ろから抱きついてくるひとの固い腹を肘で追いやる。そんな抱き合ってる時間はないんだってば。彼はすなおに手をはなした。見回すとちゃんと、私の服はハンガーにかかっていた。下から運んでくれたらしい。やはり、みっともないところばかり晒した気がして耳が熱くなる。その瞬間、ミズキさんが微苦笑まじりで口にした。

「そんなにあらたまらなくて平気だよ。あのひとは女性が化粧してるかどうかなんてわからないようなひとだから」

「ちょっとでもよく見せたいっていう見栄もあるの」

 なにしろ、このミズキさんの顔を見ていたひとなのだから。

 ハンガーごとひっつかんで部屋を飛び出そうとすると、階段気をつけて、と声をかけられた。顧みると、裾が、とおひきずりの足許に視線を投げられてトサカにくる。男物なんだからしょうがないないじゃない。だったら腰紐渡してよ。

 不満を表明してわざと音をたててドアを閉じると、向かいの扉が目に入る。ああ、ここがきっと浅倉くんの部屋だ。ここに絵があるはずだと気がついたと同時に、自分は何をしたのか今さらに思う。

 後朝に物思いするひとの習性というのは今も連綿と続いているに違いない。そう、結論づけたら笑えた。衣服の着脱で自己をあらためるってわかりやすい。こういう日は、清潔で真新しいものを身につけたいと思う。

 下着類が乾いていることを祈るのみだ。密やかに洗う、というわけにはいかなかった。なにしろ彼の意識はこちらに全集中していて、私も吐くなんて無様なことをしたせいか度胸がついて、中性洗剤の在り処を問うてしまった。洗濯機任せというわけにはいかないんだよね、と困った顔をされたことを思い出す。

 ミズキさんはいっそ小気味いいくらい遠慮なく先回りするものの、男所帯にブラジャー用の洗濯ネットなどあるはずはない。ラ・ペルラなどという高級品じゃないけどセミオーダーだ。お気に入りのロイヤルブルー、そのレースやワイヤーがダメになったら泣く。

 それにしても、みんな、きゅうなお泊りのとき下着ってどうしてるんだろう。お化粧品だけは替えがきかないから出張等の不測の事態のために常時持ち歩いているのだけど、いい年をして彼氏が用意してくれた下着きてていいんだろうか。いや、よくないな。

 きっと、そんな「計算もない女」なんていないに違いない。自分がひどく衝動的で愚かな真似をしたのではないかと確信してしまいそうになる。

 でも、そういうことをしないかぎり、変われないような気がしたから――

 雨戸を開けて追ってきたミズキさんが立ち止まっていた私を見つけた。彼は何も気がつかなかったふりをしようとして出来ず、顔をのぞきこもうとした。

 視線をよけて、抱き寄せようとする腕に袖を揺らして抗い、頤をあげる。

「気になったのは、絵のことなの」

 彼はなにも言わず、うなずいた。何を気にしていたのか、理解できたと思う。それだけのことだ。

 右手に手摺をつかみ芸妓さんのように左褄で裾を持ち上げながら階段をおりた。こっから転がり落ちたら目もあてられない。

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