3月23日 宵越 99

 彼がすこし、そのまま聞いてもいいか問うような仕種をした。私は、そういうミズキさんの濃やかなやさしさを快いと感じながら続けた。

「すごく可愛い女の子ではきはきしてリーダーシップのある人気者で、私は仲良くなれてうれしかった。でも、お絵描きの時間には、その子は私の絵を破るの。クレヨンを折ったり、邪魔をするわけ。私はその子が好きだったから、じゃあ、かくのをやめればいいのに、やっぱりやめないんだよね。けっきょく私は登園拒否になったらしいんだけど、自分ではあんまり覚えてなくて……」

 ミズキさんは合点がいったようでうなだれた。ほんとはもっと、色々ある。小学校や中学のときに貼りだされた絵を持ち去られたことも、何度かある。盗まれるほど素敵なイイ絵だったとは思えなかった。嫌がらせ、そうとしか。べつに自分の絵に執着しないほうだから周囲が心配するほど落胆はしなかったけど、その、そうして目立ってしまうことが嫌だった。誰かに、見えないところで足を引っ張られ、けれど庇って助けてくれるひとがいて、そのことでまた陰口を言われ、萎縮した。そしてまた、超然としていればいたでまたお高いとやっかまれ、どう振る舞えばいいのかわからなくなって、私はなにもかもを投げ出した。

 だから、ミズキさんがああやって言ってくれたとき、その声が肌に痛いほど真剣で熱っぽく、それでいて突き放すように厳しくて、私はとても驚いたのだ。それまで誰も、私の人生について、あんなふうに言ってくれるひとはいなかった。

 だから、私はミズキさんの影になった横顔に微笑みかける。

「あとはまあ、失敗してもいいっていつも私に言ってくれるからじゃない? 大したことないんだから身の程を知れって。浅倉くんはね、気軽にだいじょうぶと言いすぎる。あれをきくと安心しちゃうから癪に障るんだけど、ミズキさんはそっと見守ってくれてる感じで、それが私にはちょうどいいの。スケートでいうと、手は握らないでいてくれる。倒れるときは倒れなさいって、自分で転んで覚えろって言われてる感じが気持ちいいの」

「浅倉は、ちがうの?」

 どうだろうと首をかしげると、

「言えばいいのに。浅倉は、君の調教次第だよ」

「ちょうきょうって」

「じゃなきゃシツケ。教育、なんとでも」

「え、と、でも」

「僕もそうだけど、そこはお互いの努力と根性の見せ所だよ。僕はたぶん、姫香ちゃんに対してそんなに無理してない。すごく自然体。せいぜいが、早くセックスしたいけど今日は無理かなあって思うくらい」

 身じろいだ私に、ミズキさんが屈託のない笑顔をむける。

「まあそれはおいておいて。僕はほんとうは姫香ちゃんをスポイルしたいけど、君、自分でやるからって言い張るほうなんだもん。だからしょうがなくて指をくわえて見てる。それとおんなじで、浅倉にも言えばいいんだよ」

「言ってもきかないよ?」

 そこにきて、至極まじめな顔でのたまった。

「姫香ちゃん、ランゲージコミュニケーションで浅倉に対応しようとしても無駄だってことくらい、いいかげん覚えなよ」

 でも、と声をあげて、首をかしげる。なんだか、話が妙な方向に流れてないか?

 私が不審に思ったことに感づいて、ミズキさんが陶然とした笑みでこたえる。

「僕、すこし愉しい気分になってるみたい」

 彼は頤にひとさしゆびをあてて軽く視線をうえにあげ、それからこちらをまっすぐに見据えた。

「姫香ちゃん、さっき君は浅倉を姑息に引き止めなくてもいいって言ったけど、それ、彼が何があろうと君のことを諦めないってわかったからじゃないの?」

 う。

 このひとは、ほんとに、本当にもう、なんでだろう。

「それで、僕のほうに来たんだ」

「それはちがくて」

 慌てて頭をふって否定すると、やわらかく優しい、いつもの笑顔をむけられた。

「べつに、それでもいいよ。姫香ちゃんて今時めずらしく古風で貞節だし、観念的だから頭のなかだけで恋愛できるタイプで、それくらいのことは、僕はぜんぜん許容範囲」

「ミズキ、さん?」

「本音をいうと、ふたり同時に去られないようにすることだけで頭がいっぱいだった。姫香ちゃんが僕のとなりにいてくれるなら、僕より浅倉のことが好きっていうくらいはぜんぜん平気。彼のほうが操縦しやすくて捕まえておきやすいんだけど、姫香ちゃんのほうが絶対に必要だから、どうしたらいいのかすごく悩んだ。でも、そうならそうとわかって、浅倉に腹いせできる気分ですこし、愉快かも」

 ほんとに、平気。なのだろうか。

 その疑問はでも、口にしてはいけない種類のものだと思えた。私はかえって、ここに来たことで、何か、すごく間違ってしまったのではないかと考えていた。

「つぎ、白、飲む? どこかにシャブリを投げておいたような気が」

「そういうのは、さいしょに出してよ」

 文句をつけると、苦笑した。

「ごめんね。でも今、思い出したんだよ。あんまり聞かないドメーヌでグラン・クリュなんてのじゃないから開けて期待外れかもしれないよ」

 そう言いながら、うつむいていた私の横を、彼が長い脛を見せつけるように通りすぎて台所ではないほうに消えた。廊下を歩く足音が、階段へと続く。

 動けないまま、私はワイングラスの細い足を指でなぞっていた。

 もっと酔っ払えば、この、なんだか間違ってしまったっていう感じはなくなる?

 抱き合えば、それですむことだろうか。

 考えると頭が痛くなった。比喩でなくて、本気で痛いような気がした。階段をおりてくる足音に耳をかたむけ、右手でこめかみを押さえたところで、電話が鳴った。

 浅倉くん。

 テーブルのうえで、自己を主張する小さな塊。うるさいくらいに鳴りつづけ、赤く点滅して早く出ろと催促する。

 手を伸ばすことを躊躇っていると、いつの間にか後ろに立ったミズキさんがうながした。

「出なよ。浅倉だ」

「……いいよ」

「いいじゃなくて、出て、話しなよ」

「なにを」

 彼はブルゴーニュ独特の優美な撫で肩のボトルを乱暴に置いた。音の大きさに震えると、携帯電話をつかんでこちらを振り返る。眉間が狭くなっているものの、さほど険しい表情ではなかった。ただ、ミズキさんは、いつも自在に感情をとりつくろう。

「僕が出て、いいの?」

 電話を取りかえす気力はなかった。でも。

「出て、なんて言うつもり? ミズキさんには、浅倉くんを傷つける役目は似合わないと思うよ」

 怯んだのは、たしかだった。

 私は、彼が震えたのを、ちゃんと見逃さなかった。

「彼に、未練があるんでしょう? それだけじゃなくて、ほんとは私にも浅倉くんにも、自分がいちばんに愛してほしいんだよね」

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